斎藤一 さいとう・はじめ

天保15年1月1日(1844年2月18日)〜大正4年(1915年)9月28日


斉藤一の父・山口祐助ゆうすけは、播磨国明石町の出で明石藩の足軽。
江戸に出て、神田小川町附近の鈴木某の足軽として仕え、その後、御家人株を買ったといわれる。
斉藤一は、この山口祐助の次男として生まれた。

斉藤一は、近藤勇の試衛館しえいかんの門人であり、天然理心てんねんりしん流を学んでいた。

山口一と名乗っていた頃、文久2年(1862年)・19歳のとき、小石川関口で旗本を殺したため、父・祐助がかつて世話をした吉田某が京都で剣術道場を開いているのを頼って江戸を出奔。
この時に追及を逃れる為に姓を斉藤に改めたのではないかといわれている。

文久3年(1863年)3月、壬生みぶ浪士組立ち上げに参画。
20歳の斉藤一は、藤堂平助とともに最年少で、結成者17人中で序列15位とされた。

文久3年(1863年)8月下旬、四条堀川の米屋に3人の賊が押し込んだ。
斉藤一は永倉新八、平山五郎、中村金吾、山野八十八やそはちの4名で出動し、激しい戦闘となったが、3人全員を討ったという。

同年9月28日、永倉新八とともに壬生屯所に潜入した間者かんじゃ隊士の襲撃に参加。
間者の一人とされた、御倉伊勢武みくらいせたけが結髪中、背後から脇差を突き刺して殺害したという。

元治元年(1864年)6月5日に起きた池田屋事件で奮戦。

慶応3年(1867年)12月7日、紀州藩公用人・三浦休太郎の身辺警護のため、大石鍬次郎、宮川信吉のぶきち、中村小次郎、中条常八郎、梅戸勝之進、船津釜太郎ら6人の新撰組隊士と共に、京都六条、油小路花屋町下ルの旅宿「天満屋」に詰める。
去る4月23日、紀州藩船『明光めいこう丸』と坂本龍馬の海援隊所有『いろは丸』が、瀬戸内海で衝突するという事件が発生。
紀州藩と海援隊の談判では、紀州藩船側に非ありとして紀州藩随一の「切れ者」「知恵袋」と評された三浦休太郎も敗退となり、8万3千両もの賠償金が紀州藩から支払われた。
ところが、11月15日、京都河原町三条下ルの近江屋に止宿中の坂本龍馬が暗殺され、意外にも三浦休太郎が海援隊に命を狙われるという事態となった。
これは、海援隊の陸奥陽之助(宗光)らが、坂本龍馬暗殺は三浦休太郎が新撰組を使っての仕業だろうと早合点したためである。
この日の夜、陸奥陽之助ら16名の海援隊の襲撃者が天満屋に乱入。
17対1の乱闘となり、襲撃側は十津川郷士の中井庄五郎が斬死、新撰組側は宮川信吉が闘死、船津釜太郎が重症、斉藤一を始め、中村小次郎、中条常八郎、梅戸勝之進らもそれぞれ負傷した。

慶応3年(1867年)、伊東甲子太郎いとうかしたろうら14人が新撰組から分離し、御陵衛士を結成した際、斉藤一もこれに加わり半年ほど新撰組を離れる。
これは近藤勇や土方歳三の密命を受けた「間者かんじゃ」としての潜入であった。
近藤の暗殺を伊東らが計画していることを知り御陵衛士を脱して近藤に急報。
しかし、新撰組と御陵衛士には相互に隊士の移籍は認めない約定があるため、斉藤一の新撰組復隊は公には出来ない。
斉藤一は名を山口次郎に改め、近藤の計らいで油小路事件の当日まで紀州藩士のもとに身を隠した。
以後、新撰組に復隊後も、名は山口次郎で通す。

慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いに旧幕府軍は敗れ、新撰組は江戸に戻るが、その後、甲州の戦いで再び敗れる。
再起を期す中、永倉新八、原田左之助は隊を離脱。
これにより、残った副長助勤は斉藤一だけとなる。
近藤勇は負傷者を会津に先発させることにし、二十数名を斉藤一に託す。

近藤らは兵を募り、隊伍を整えて会津に向うつもりだったが、下総しもうさ流山ながれやまで調練中、新政府軍に包囲され、処刑される。
土方は近藤救出を図るが叶わず、大鳥圭介らの旧幕府軍に加わり北関東を転戦。
足に負傷して会津に入り、斉藤一たちと再会する。

4月5日、新撰組130余名は会津藩の命を受けて白河に向うが、負傷した土方に代わり、斉藤一が隊長を務めた。
4月25日から始まった白河口の戦いで奮戦するが白河城を奪われる。
8月半ば、会津藩は二本松方面に備える要衝・母成峠ぼなりとうげの守備を新撰組に命じる。
斉藤一は新撰組を率いて出陣。
8月21日からの母成峠の戦いは奮戦むなしく1日で敗退となり、会津藩は23日から籠城を強いられ、土方は援軍を求めて庄内藩へ向う。

9月4日、斉藤一は、1小隊を率いて如来堂に応援に赴くが、翌5日、激戦に巻き込まれ消息不明となり、全員討ち死にと味方から判断される。
大鳥ら旧幕府軍は9月10日に福島を目指して会津を離れ、斉藤一は必然的に置き去りとなる。
しかし、斉藤一は如来堂を脱した隊士とともに他の会津藩士兵と協力して、9月22日の降伏の日まで城外で戦い続けた。

会津降伏の際、斉藤一は新撰組隊長・山口次郎ではなく、朱雀寄合すざくよりあい隊士・一瀬伝八と名乗っている。
降伏後、越後の高田に送られるが、明治2年(1869年)、斉藤一は収容所を脱走。
名を藤田五郎に改める。

明治3年(1870年)、あえて斗南となみに赴き、会津藩士と塗炭の苦しみを共にする。
翌年の2月、旧会津藩士の娘・“篠田やそ”と結婚(この時、斉藤一は28歳)

明治7年(1874年)6月、上京し、旧会津藩士の娘・高木時尾と結婚。

元会津藩家老・佐川官兵衛や山川浩の後押しで警視局(のちの警視庁)に入り、西南戦争に出征。

明治10年(1877年)7月12日、大分高床山での戦いで銃創を負い、戦線を離脱。

明治14年(1881年)警視庁より巡査部長に任ぜられる。
明治21年(1888年)警部。和泉警察署に勤務。
明治22年(1889年)麻布警察署に勤務。
明治24年(1891年)本郷警察署に転勤し、4月2日に退職。(この時、斉藤一は48歳)
その後、東京高等師範学校付属東京教育博物館(現・国立科学博物館)看守、東京女子高等師範学校庶務掛兼会計、を経て、明治43年(1910年)67歳で東京女子高等師範学校を退職する。

大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍で死去。72歳。

(参考:『歴史街道 2012年9月号』)

(平成25年9月8日・追記)


如来堂



如来堂
(福島県会津若松市神指町中四合)





(平成20年5月5日)
新撰組殉難地碑




史蹟新選組殉難地の碑
(如来堂)




(平成20年5月5日)

如来堂

慶応4年(1868)9月4日、山口次郎こと斎藤一ら新選組隊士が守備したここ如来堂が、新政府軍によって襲われ、隊士が全滅したとされる場所である。
近藤勇亡き後、会津に入った土方歳三率いる新選組は母成峠防衛の任となるが、西軍の攻撃の前に敗退した。
庄内へ援軍を求めて会津を離れようとする土方に対し、山口は会津藩主・松平容保への恩義から「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と、会津に残留して徹底抗戦を主張した。
会津を去った土方とは対照的に、山口は20名(十数名とも言われている)ばかりの隊士とともにこの地に宿陣していたが、西軍の襲撃を受けて全滅したとされている。
しかし数名の隊士が乱戦のなかを脱出し、生存していた。
ここ会津で隊長として新選組を率いた山口においては会津藩が降伏開城した後、藩士とともに斗南藩に移り、苦渋をともにしたのち、大正の世まで生き抜いたのであった。

(説明板より)

如来堂




如来堂





(平成20年5月5日)

【如来堂で戦った隊士】

山口二郎(二郎)/斉藤一
弘化元年(1844年)〜大正4年(1915年) 武蔵国出身

久米部正親くめべ・まさちか
天保12年(1841年)〜明治43年(1910年) 摂津国出身
斉藤一の下で軍目(軍監)として如来堂で戦い、敗走後、水戸で戦い、銚子で降伏する。
後に陸軍に出仕した。

志村武蔵しむら・たけぞう
天保4年(1833年)〜? 相模国出身
大砲指図役として白河口、母成峠、如来堂で戦う。
敗走後は東京に出て病死したと伝えられている。

池田七三郎/稗田利八ひえだ・りはち
嘉永2年(1849年)〜昭和13年(1938年) 上総国出身
如来堂敗戦後、水戸を経て銚子で降伏する。
90歳まで生きた最後の隊士。

吉田俊太郎
嘉永2年(1849年)〜? 丹波国出身
斉藤隊長附として如来堂で戦う。
敗走後、久米部らと共に銚子で降伏する。
その後は行方不明。

高田文二郎たかだ・ぶんじろう
天保9年(1838年)〜明治元年(1868年) 武蔵国出身
如来堂の戦いで戦死したとされているが、脱出した可能性もある。

新井(荒井)破魔男あらい・はまお
天保14年(1843年)〜明治元年(1868年) 甲斐国出身
如来堂の戦いで戦死したものと思われる。

河合鉄五郎
弘化3年(1846年)〜? 美濃国出身
松平兵庫頭率いる貫義隊に属していたが、会津で新撰組に入隊する。
如来堂で戦い、敗走後、久米部らと共に銚子で降伏する。
その後は消息不明。

中島登なかじま・のぼり
天保9年(1838年)〜明治20年(1887年) 武蔵国出身
仙台で旧幕府海軍と合流し蝦夷地へ向い、函館で奮戦するも降伏、同地で謹慎となる。

(参考:『歴史街道 2012年9月号』)

(平成25年9月8日・追記)


【晩年】

晩年の風貌は眉毛がふさふさし、眼光は炯々けいけいとしていたという。
義弟の盛之輔(時尾の弟)と会うと酒を飲み、戊辰戦争の昔話をして悲憤慷慨していたが、普段は威厳があり、無口だったという。
大正4年(1915年)1月5日、永倉新八(杉村義衛)が小樽で病没し、新撰組幹部としては最後の一人となる。
大正4年(1915年)9月28日、死期を悟ると、家族に頼んで床の間に運んでもらい、剣客らしく端座したまま息を引き取った。
死因は胃潰瘍。享年72。

(参考:『歴史街道 2012年9月号』)

(平成25年9月8日・追記)




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