渋沢栄一像 平成18年10月19日

渋沢栄一 しぶさわ・えいいち

天保11年2月13日(1840年3月16日)〜昭和6年(1931年)11月11日

埼玉県深谷市・旧渋沢邸『中の家』でお会いしました。


天保11年(1840年)富農・渋沢市郎右衛門の長男として現在の埼玉県深谷市血洗島で生まれました。
隣村の尾高惇忠あつただに漢学を学び、江戸に出て海保漁村かいほ・ぎょそんに儒学を、千葉栄次郎に剣術を学びました。
文久3年(1863年)23歳の時、従兄らと尊皇攘夷思想に傾き、高崎城の乗っ取りなどを計画するが、その非を知って中止します。
その後、一橋家臣・平岡円四郎の推挙により、一橋慶喜に出仕して領内の産業振興と一橋家財政の強化を図りました。
慶喜の将軍就任には反対しましたが、叶わず、慶喜が第十五代将軍になったために心ならずも幕臣となり、陸軍奉行支配調役を拝命。
慶応3年(1867年)27歳の時、パリ万国博覧会に出席する慶喜の実弟・徳川昭武に御勘定役(会計係)として随行し渡欧しました。
フランスほかヨーロッパ各地でその社会経済制度や科学技術を見学。
明治元年(1868年)、大政奉還・王政復古・鳥羽伏見の敗報に接し帰国。
昭武は水戸藩主となり、渋沢は慶喜が謹慎していた静岡に移りました。
明治2年(1869年)29歳で明治政府に出仕し、パリで学んだ知識を生かして新貨条例・国立銀行条例などの諸制度改革を行い、日本に初めて合本組織(株式会社)を導入します。
明治6年(1873年)33歳の時、上司の大蔵大輔・井上馨とともに財政改革を建議して官を辞します。
民間経済界に入った後は道徳経済合一説を唱え、第一国立銀行・王子製紙・大阪紡績・東京瓦斯など約500社の設立や商業会議所・銀行集会所などの経済界の組織作りに関与し、実業界の指導的役割を果たしました。
また、社会・文化・教育の幅広い分野で社会公共事業に尽力し、関わった社会事業は600に上ると言われています。
明治26年、旧主・慶喜の伝記編纂を思い立ち、翌年から事業を開始し、大正7年(1918年)に『徳川慶喜公伝』として刊行されました。
これは慶喜の個人的伝記を越え、今日でも旧幕府側の史料を用いた幕末維新史研究として異彩を放っています。
国際関係では民間経済外交を積極的に展開しましたが、昭和6年(1931年)91歳で生涯を終えた後1週間もたたぬうち、政府は日本軍の満州における軍事行動を追認(満州事変)し世界戦争に突入、栄一の願った世界平和も経済発展による豊かさも吹き飛んでしまいました。

(平成16年8月10日改訂)


若き日の渋沢栄一像



『若き日の榮一』像

(旧渋沢邸『中の家』)

Eiichi in Paris
1867


(平成18年10月29日)
渋沢栄一生地



渋沢栄一生地(旧渋沢邸『中の家』)
(埼玉県深谷市大字血洗島字淵ノ上247−1)






(平成18年10月29日)

我が人生は、実業に在り。―渋沢栄一

天保11年(1840)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。
昭和6年(1931)92歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。
日本実業界の祖。
希代の天才実業家と呼ばれる所以である。
男の転換期。
慶応3年(1867)15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。
28歳の冬であった。
栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。
しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。
持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貧欲なまでに吸収。
とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。
己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。
時代を先取りするのが、この男の身上であった。
2年間の遊学を終え、明治元年(1868)帰国。
自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向って、一途に歩み始めた。
帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。
明治6年(1873)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。
個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。
栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。
私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。
失うことのなかった、こころの若さ。
そこから生まれた力のすべてを尽して、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。
並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。

昭和59年1月
寄贈 エコー実業株式会社

(説明板より)

渋沢栄一写真 (説明板より)

主屋




主屋






(平成18年10月19日)
「中の家」の歴史

この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家」(なかんち)と呼ばれている。
渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。
「中の家」もその一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。
代々当主は、市郎右衛門を名乗っていたが、古くは、新七郎(安邦)の名まで知られている。
中の家は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助)のときには、養蚕や藍玉づくりとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。
この家に、後に日本近代資本主義の父と呼ばれる栄一が生まれた。
現在残る主屋は、明治28年(1895)、市郎により上棟されたものである。
梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。
また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。
栄一は、多忙の合間も時間をつくり年に数回はこの家に帰郷した。
東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所といえる。
また、中の家は、元治、治太郎たちの人材を輩出した。
昭和58年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだ。
平成12年、同法人の解散に伴い深谷市に帰属し、現在に至っている。
昭和26年、埼玉県指定史跡に指定。
昭和58年、渋沢国際学園の設立に合わせ、埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」に指定替えがされた。

(『旧渋沢邸「中の家」』リーフレットより抜粋)

主屋内部



主屋内部

内部は立ち入り禁止。




(平成18年10月19日)
渋沢栄一の部屋



渋沢栄一の部屋
(奥の十畳間)

この部屋だけ天井が高い。



(平成18年10月19日)

青渕栄一の寝泊りした部屋

青渕のよく寝泊りした部屋です。
東京の邸が第二次世界大戦中焼失しましたので現在のこる唯一の起居した場所となりました
この部屋の脇息 乱箱 文箱 書籍はどれも青渕栄一の使用したものです。

(説明板より)

※ 渋沢栄一が使用した品々は現在別の場所の保管され、ここにはありません。

案内

開館時間:午前8時30分〜午後5時
休館日:年末年始(12月29日〜1月3日)


扁額


扁額
(埼玉県深谷市・鹿島神社)


渋沢栄一の揮毫



(平成18年10月19日)
鹿島神社



鹿島神社
(埼玉県深谷市下手計1143)





(平成18年10月19日)

鹿島神社

下手計しもてばかの鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫きごうになる「鹿島神社」の扁へん額が掲げられている。
境内には、栄一の師である尾高藍香らんこうの偉業を称える頌徳しょうとく碑が建立されている。
この碑のてん額は徳川慶喜よしのぶ公の揮毫きごう、三島毅文学博士(号 中洲)の撰文によるものである。
今では朽木くちきとなったが、大欅けやきの根元に湧いた神水で共同風呂が設けられていた。
栄一の母、栄えいはこれを汲み、らい患者の背を流したと伝えられている。
栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘たちばながあり、その由来を記した碑がある。

深谷市教育委員会

(説明板より)


尾高藍香生家


尾高藍香生家

(埼玉県深谷市下手計)

内部の見学は出来ません。




(平成18年10月19日)

藍香らんこう尾高惇忠あつただ生家

尾高藍香は天保元年(1830年)下手計しもてばか村(現深谷市)に生まれ、通称 新五郎、惇忠と称し、藍香と号した。
青淵 渋沢栄一とは従兄弟いとこの関係にあたる。
栄一は少年時代、ここ藍香のもとに通い、論語などを学んだ。
“藍香あってこそ、青淵あり”とまで、後の人々は称えている。
知行合一ちこうごういつの水戸学に精通し栄一の人生に大きな影響を与えた。
藍香や渋沢栄一、喜作ら青年同志が、時の尊皇攘夷そんのうじょうい論に共鳴し、高崎城の乗っ取りを謀議したのもこの二階である。
後に、官営富岡製糸工場長、第一国立銀行仙台支店長などを務めた。

深谷市教育委員会

(説明板より)

渋沢栄一像 平成18年10月18日

埼玉県深谷市・JR深谷駅前「青淵広場」でお会いしました。

青淵澁澤榮一像



『青淵 澁澤榮一像』

(JR深谷駅前・青淵広場)





(平成18年10月18日)

碑文

正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。
幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。
明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。
一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。
先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。
先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。

建立 昭和63年3月吉日
青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会

(銘板より)

建立 1996年7月
澁澤栄一座像
田中 明 作

(追加銘板より)

JR深谷駅




JR深谷駅






(平成18年10月18日)
JR深谷駅




JR深谷駅






(平成18年10月18日)

渋沢栄一像 平成18年10月18日

埼玉県深谷市・深谷市役所でお会いしました。

渋沢栄一翁像



『渋沢栄一翁像』

(深谷市役所)





(平成18年10月18日)

碑文

郷土の偉人渋沢栄一翁の顕彰とその偉大な功績を後世に伝えるとともに 渋沢栄一翁が生涯の規範とした「忠恕のこころ・まごころと思いやり」をまちづくりの基本理念として市政の発展と深谷らしい個性のあるまちづくりを推進するため ここにこの像を建立しました

題字揮毫 深谷市長 新井家光
原型制作 渡辺長男

平成13年12月吉日

深谷市役所




深谷市役所






(平成18年10月18日)

渋沢栄一像 平成18年10月19日

埼玉県深谷市・『渋沢栄一記念館・渋沢栄一資料室』前でお会いしました。

渋沢栄一資料室



渋沢栄一資料室
(渋沢栄一記念館内)





(平成18年10月19日)
資料室内部




資料室内部






(平成18年10月19日)
渋沢栄一のプロフィール
1840年 天保11年   2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島に生まれる
1858年 安政 5年 19歳 尾高藍香の妹・千代と結婚
1861年 文久 1年 22歳 江戸の海保塾に学び天下の志士と交わる
1863年 文久 3年 24歳 高崎城乗っ取りを計画、尾高長七郎の反対で中止
1864年 元治 1年 25歳 従兄弟の喜作とともに一橋家に仕官する
1866年 慶応 2年 27歳 一橋慶喜、徳川第15代将軍となる
1867年 慶応 3年 28歳 徳川昭武に従いフランスへ行く
1868年 明治 1年 29歳 フランスより帰国
1869年 明治 2年 30歳 明治政府に招かれて租税正となる
1873年 明治 6年 34歳 大蔵省を退官、第一国立銀行監査役に就任
1876年 明治 9年 37歳 東京会議所会頭に選ばれる
東京府より養育院及びガス局事務長を申し付けられる
1878年 明治11年 39歳 商法会議所会頭に選ばれる
1879年 明治12年 40歳 グラント将軍歓迎会を行う
1883年 明治16年 44歳 東京商工会成り、会頭に選ばれる
1891年 明治24年 52歳 東京商業会議所会頭に推される
1896年 明治29年 57歳 国立第一銀行改組、(株)第一銀行となり、その頭取になる
1902年 明治35年 63歳 欧米漫遊の途に上る
1909年 明治42年 70歳 欧米実業団の団長としてアメリカに渡る
東京ガス会社など59会社との関係を断つ
1914年 大正 3年 75歳 中華民国の各地を視察
1915年 大正 4年 76歳 パナマ運河開通記念博覧会見学をかね日米親善のため渡米する
1916年 大正 5年 77歳 実業界から引退、郷里地洗島の諏訪神社に拝殿を寄附する
1921年 大正10年 82歳 ワシントン会議視察を兼ねて米国に渡航する
1926年 大正15年 87歳 日本放送協会顧問となる
救世軍ブース大将(第2世)を飛鳥山邸に迎える
1927年 昭和 2年 88歳 日本国際児童親善会会長となる
1929年 昭和 4年 90歳 宮中に参内、御陪食の光栄に浴す
1931年 昭和 6年 92歳 11月11日午前1時50分永眠
11月14日御沙汰書を賜る

(『渋沢栄一記念館』リーフレットより)

 平成18年10月29日

埼玉県深谷市・『渋沢栄一記念館』裏でお会いしました。

渋沢栄一像



澁澤栄一像

(渋沢栄一記念館・裏)

銅像制作:渡辺長男



(平成18年10月19日)
渋沢栄一記念館



渋沢栄一記念館
(埼玉県深谷市大字下手計1204)

休館日:毎週火曜日



(平成18年10月19日)

澁澤栄一

本像はもと深谷駅頭にありき
昭和63年3月、有志千五百有余名の浄財をもとに駅前区画整理事業の完成と翁の顕彰を記念して建立せしものなり
平成7年10月、翁、生誕八基の地に澁澤栄一記念館の落成に伴い、ここにここに遷座し奉る
この地や、園日に渉り以て趣を成すの如く大いなる発展をとげしも、刀水は悠遠にして、翁、在世の昔も今の如し、上毛三山の遠望も又、今も昔もなし
翁没して65年、翁の像が故山の風物を眺めて起つは又美しき哉

平成8年11月吉日
深谷市長 福嶋健助

(銘板より)


誠之堂



誠之堂

(埼玉県深谷市大字起会110−1)

大寄公民館敷地内にあります。



(平成18年10月19日)

国重要文化財
誠之堂(せいしどう)

この建物は大正5年(1916)に第一銀行の創設者、渋沢栄一の喜寿きじゅ(77才)を記念して、現在の東京都世田谷区瀬田に在った銀行の保養施設「清和園せいわえん」内に建てられました。
設計は後に大正時代建築の名手と称される田辺淳吉たなべじゅんきち、施行は清水組しみずぐみ(現在の清水建設株式会社)が行いました。
建築面積は113.30u、棟むねまでの高さは4.230mを測ります。
構造は補強煉瓦造、外観は焼きの異なる3色の煉瓦が組合わせて積まれ、煙突の真下には煉瓦で描かれた「喜寿」の文字を見ることを出来ます。
屋根には天然スレートが葺かれています。
建物の雰囲気は栄一の希望を元にイギリス風農家をイメージしています。
室内には暖炉上の栄一のレリーフや古代中国の画法による祝宴の様子を描いたステンドグラスがあり、さらに中国、朝鮮、日本のデザインが取入れられています。
平成9年(1997)、取壊しの決定に伴って深谷市が譲り受け、平成11年(1999)当地に移築、平成15年(2003)5月30日、国の重要文化財の指定を受けました。

(説明板より)

レリーフ




渋沢栄一のレリーフ






(平成18年10月19日)

渋沢栄一像 平成13年12月16日

東京都北区 飛鳥山公園内の「渋沢史料館」でお会いしました。

渋沢史料館
JR京浜東北線・王子駅下車・徒歩5分
休館日:月曜日・祝日開館の代休(国民の祝日・振替休日後の最も近い火〜金曜日の1日)・年末年始・臨時休館日(やむをず運営の関係上休館する場合もあります)
入館料:一般300円 小中高150円

埼玉の先人 渋沢栄一
韮塚一三郎/金子吉衛 著  さきたま出版会  平成6年初版第4刷発行  2,000円
(目次)
青淵渋沢栄一小伝
郷土埼玉と渋沢栄一
社会事業家としての渋沢栄一
渋沢家三代
佐野眞一 著  文春新書 平成11年第6刷発行 840円+税
「栄一、篤二、敬三、勤勉と放蕩の血が織りなす渋沢家の人々」
CD 「道徳経済合一説」を大正12年(83歳の時)にレコードに録音したものをCDに再録音・渋沢栄一の生の声が聞けます。 頒価1,600円

澁澤榮一像 平成15年10月14日

東京都千代田区大手町2丁目・常盤公園でお会いしました。

碑文

青淵澁澤榮一翁は 天保11年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり 後轉じて幕臣となって 慶應3年歐州に赴き 民主主義自由主義を知る機會を得た
歸朝後大蔵省に任官して諸制度の改革に當ったが 明治6年退官し 同年創立された第一國立銀行の頭取となり 爾来産業経濟の指導育成に任じ關與した會社五百 常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實踐し我が國運の發展に偉大な貢獻をした
また 東京市養育院等社會事業の助成 一橋大學日本女子大學等實業及び女子教育の育成 協調會等による勞資の協調 日華日米親善等世界平和の促進 道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し 昭和6年11月11日に逝去した
翁の歿後 財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が 昭和8年此処に銅像を建立したが 第二次世界大戦中金属供出のために撤去された
然るにこのたび 銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって 再び朝倉文夫氏に製作を委嘱し 舊位置にこの銅像を建て 東京都に寄附したのである

昭和30年11月
澁澤青淵記念財団龍門社

澁澤榮一像


常磐公園の澁澤榮一像

台座のところにはホームレスの”寝床”が・・・



(平成15年10月14日)

常盤橋門




常盤橋門


日本銀行本店の近くにあります。


(平成15年10月14日)

常盤橋門

常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門である。
又、天正18年(1590)架橋といわれる旧常盤橋は、両国橋がかかるまで江戸一の大橋であった。
現在の石橋は門跡の石等も使い、明治10年に改架したもので、洋式石橋の創始といわれている。
この常盤橋の名称は、家光の時代「色かへぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかかる藤なみ」の歌に因みつけられたものといわれる。

(説明板より)

常盤橋門跡について

此処は江戸城大手外郭の正門に当り江戸初期には浅草口又は大手口と云われ奥州街道に通ずる重要な場所でしたが其後門が設けられて常盤橋御門と呼ばれるようになりました
此の門は石塁でます形を築き正面は冠水門(かぶき門)ここより入って右側の石塁に渡りやぐら大門があり 此等を通って郭内に入るように造られ寛永年間を初め数度の改修築を受けました
又常盤橋は浅草橋とも大橋とも呼ばれ木造でしたが 明治10年現在のような洋式石橋に架け替えられました
明治維新後 門はその大部分を取除かれ残ったます形の一部及び常盤橋等も 大正12年の関東大震災によって相当の被害を受け 昭和8年財団法人渋沢青淵翁記念会の御好意により復旧整備のうえ 東京市の公園として公開されました
現在は文化財保護法により史蹟として保存されております。

(門石にはめられた銘板より)


常盤橋と常盤橋門跡


常盤橋と常盤橋門跡

上には道路が走っています。



(平成15年10月14日)

常盤橋

この橋を常盤ときわ橋といい三代将軍家光の頃までは、大橋とも浅草口橋ともよばれました。
しかしその名はよくないので改名するよう、町年寄の奈良屋市右衛門に命ぜられました。
市右衛門は自宅に寄宿していた浪人に頼んで、橋の名を考えてもらい、常盤という名を献じました。
「金葉集」の大夫典侍の歌に”色かへぬ松によそへて東路あずまじの常磐のはしにかかる藤波”とあり、その歌の心を松平の姓にかけためでたい名です。
なお常磐と常盤の文字のちがいがみられます。
橋詰に北町奉行所があったこともあります。
関東大震災後下流に常盤橋が架けられました。
現在の石橋は枡形ますがたに使っていた石を用いて、明治10年(1877)に改架した都内随一ずいいちの貴重な洋式石橋です。
橋の銘板には常磐橋とあり城門の枡形の一部も現存しています。

平成3年3月
千代田区教育委員会

(説明板より)


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