高島城 たかしまじょう

長野県諏訪市高島1丁目


高島城 平成20年10月24日

高島城

天正18年(1590)、当時の諏訪領主諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移った後、豊臣秀吉の武将日根野織部正高吉ひねのおりべのかみたかよしが諏訪に転封、2万7千石を与えられ諏訪の領主となりました。
高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手。
転封の翌年、天正19年(1591)にはすでに城地の見立てと設計を終え、翌文禄元年(1592)に着工、慶長3年(1598)まで7年ほどかかって高島城を築城。
城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから別名「諏訪の浮城」と呼ばれ、また「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と歌われた名城です。
その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)は、慶長6年(1601)家康の恩恵によって旧領諏訪に帰り藩主となり、以後、10代藩主忠礼に至る270年の間、諏訪氏の居城としてその威容を誇りました。
しかし明治4年(1871)、廃藩置県により封建制のシンボルである城郭の撤去が決定。
明治8年(1875)には天守閣の撤去が終了。
翌明治9年(1876)、本丸跡が高島公園として一般に開放されました。
諏訪住民の高島城に寄せる愛着は強く、昭和45年(1970)、天守閣が復興されました。
同時に、冠木門・角櫓なども復興されたほか、当時の石垣の一部も残るなど、今も往時を偲ぶことができます。

〈築城当時の高島城概要〉
本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をほぼ一直線上に連続配置した連郭式で、諏訪湖と数条の河川に囲まれた、水を守りとする難攻不落の水城でした。
天守閣は屋根に瓦ではなく、檜の薄い板を葺いた柿葺こけらぶきという珍しいもので(復興後銅板葺き)、これは、諏訪の寒冷に堪えられる瓦が調達できなかったためと言われています。
また、築城当時の石垣は、自然石を加工せずに積み上げた野面積のづらづみでした。
天明6年の大掛かりな補修によって大部分は整備されましたが、現在でもその一部が残されています。

(『諏訪高島城』リーフレットより)

高島城歴代城主(高島藩主)
初代  諏訪頼水よりみず  慶長6年(1601年)〜
2代  諏訪忠恒ただつね  寛永17年(1640年)〜
3代  諏訪忠晴ただはる  明暦3年(1657年)〜
4代  諏訪忠虎ただとら  元禄8年(1695年)〜
5代  諏訪忠林ただとき  享保16年(1731年)〜
6代  諏訪忠厚ただあつ  宝暦13年(1763年)〜
7代  諏訪忠粛ただかた  天明元年(1781年)〜
8代  諏訪忠恕ただみち  文化13年(1816年)〜
9代  諏訪忠誠ただまさ  天保11年(1840年)〜
10代  諏訪忠礼ただあや  明治元年(1868年)〜
梶葉紋 梶葉紋(表紋)

諏訪明神を象徴する紋所として諏訪氏が使用。

諏訪市文化財
高島城本丸の堀と石垣

高島城は、衣之渡川・中門川などの川を堀とし、諏訪湖と阿原あわら(沼沢地)に囲まれ、縄手だけが城下町に通じていた。
天守閣の石垣と、本丸の正面と東側の石垣は規模が大きいが、西側と南側の石積みは簡単なものであった。
衣之渡郭くるわ・三之丸・二之丸などの石垣も比較的小規模である。
石垣は、野面積のづらづみで、稜線のところだけ加工した石を用いている。
地盤が軟弱なので、沈下しないように大木で組んだ筏の上に石垣を積んでいる。

昭和54年2月15日 指定
諏訪市教育委員会

(説明板より)

冠木門




冠木門






(平成20年10月24日)
本丸跡



本丸跡
(諏訪市高島1丁目・高島公園)





(平成20年10月24日)

高島城 浮城とも言う

この地は高島城本丸跡である
この城はおよそ380年前 文禄 慶長年間日根野織部正高吉が7年を要し彼独特の築城の技術を生かし諏訪湖の波打ちぎわにきずいた難攻不落の水城で別名を浮城とも言われている
関が原役の後は諏訪氏の居城となりそのまま転封もなく維新までつづいた
この間 城は中山道や甲州街道の道中記には必ずのせられる名勝でもあった
本丸内は藩主の御殿や書院 また一般政務の御用部屋 郡方 また賄方などがあり 能舞台 氷餅部屋など多くの建物で埋まっていた
明治維新の改革で高島藩は消え 明治8年には天守閣も破却されたが 諏訪氏の在城260余年間 一度も百姓一揆をおこさせるような暴政のでたことのない名城であった
明治9年本丸跡は高島公園として公開され 護国神社も祭られ 諏訪の人人の心のよりどころとして親しまれてきた
今日も城内と言われた大手門以南の地形がおおよそ昔のままの姿をのこして近世の城郭を考えるいい資料である
今度の復興については文部省文化財専門委員大岡実博士の設計により 破却当時の姿を忠実に再現したものである
庭園は天守閣復興とともに諏訪高島城復興期成同盟会長岩本諏訪市長が自らの設計により 諏訪市が人の心の和によっていよいよ発展することを念願して 人字形の池に心を島で表わし 滝や渓流を配して躍動感を与えて造られたものである

昭和45年5月

(碑文より)

亀石




亀石






(平成20年10月24日)

高島城亀石

この亀石は、城内の庭園にあったが明治8年廃藩の時に城外に移され、以後所有が引き継がれ河西謙吉氏庭に安置されていた。
平成19年、132年ぶりに高島城公園に戻った由緒ある石。
水をかけると、まるで亀が生きているようになり願いがかなうと言われています。

平成19年2月13日
諏訪市

(説明板より)

石枡

石集配湯枡


享和3年(1803年)第7代藩主忠粛ただかたの頃、城内三の丸浴場に、引湯のため木樋きとよを継ぎ、集湯・配湯をした石枡いしますである。

諏訪市

(説明板より)

(平成20年10月24日)
角櫓
三之丸御殿裏門




三之丸御殿裏門






(平成20年10月24日)
御川渡門跡




御川渡門跡






(平成20年10月24日)

三之丸御殿裏門(御川渡門跡)

ここは、かつて御川渡御門(御川戸門)と呼ばれた門があった場所である。
城が湖に面していたころは、ここで湖の舟に乗ることができた。
この門は三之丸御殿の裏門である。
三之丸御殿は、藩主の別邸で、吉凶その他の儀式に使われた。
また、藩主がくつろぐところでもあった(現在の高島1丁目8番地付近)。
門は、昭和63年に所有者から市に寄贈され、この地に移築された。

諏訪市教育委員会

(説明板より)

土戸門跡




土戸門跡






(平成20年10月24日)

高島城史跡
土戸門つちどもん

土戸門はお城のお勝手口であった。
上薪をはじめ、その他の納めものもここから運び込まれたし、商人や職人たちも出入りした。
役所むきの用件でも冠木門かぶきもんお通りの資格を与えられていないものはここから出入りした。

諏訪市教育委員会

(説明板より)


南之丸跡



南之丸跡
(諏訪市高島・諏訪市役所付近)





(平成20年10月24日)
南之丸跡



南之丸跡

(諏訪市高島1−22−30・諏訪市役所付近)





(平成20年10月24日)

高島城南之丸跡

高島城本丸の南方にある一郭を南之丸という。
松平忠輝のお預かりを勤めて以来整備され、以後、高島藩が江戸幕府の罪人を預かった場所である。
周囲は湿地で、堀と柵とで厳重に囲われ、ただ一つの橋が城に通じているだけの孤立した郭であった。
忠輝は、徳川家康の六男で越後高田60万石の城主であったが、大坂夏の陣直後の元和元年(1615)家康から勘当を申し渡され、翌年幕府から改易され、正室五郎八いろは姫(伊達正宗の長女)とも離別、伊勢朝熊で2年、飛騨高山で7年過ごしたのち、寛永3年(1626)から初代高島藩主諏訪頼水が預かった。
改易の理由は、乱暴な性格とも、大久保長安等と天下取りを企てたからとも伝えられるが、真相は不明である。
忠輝の南之丸での生活は、外部との交渉を絶たれた寂しいものではあったが、家臣は諏訪で抱えた者を加えると85人にもなり、大名の格式をもって生活した。
58年間の長きに渡り不遇な境涯にあったが、文芸に心を慰め、余生を楽しんだという。
天和3年(1683)、93歳の生涯をここで閉じ、市内の貞松院に葬られた。
その後、幕府の儀式を司る高家を務めていた吉良上野介義央の養嗣子である吉良義周よしちかが、赤穂浪士襲撃事件後の評定によって、領地を召し上げられ元禄16年(1703)に4代藩主諏訪忠虎へお預けとなった。
高島藩では南之丸を修理し住まわせたが、3年後の宝永3年(1706)に病没、市内の法華寺に葬られた。
以後も数人の預かり人がいたが、幕末までにはこの場所は「御茶園」となったようである。

諏訪市教育委員会

(説明板より)

三の丸跡



三の丸跡
(長野県諏訪市高島1丁目8番地付近)





(平成20年10月24日)

高島城三の丸跡

衣之渡川と中門川(三之丸川)との間が三之丸で、道から東には周囲に堀をめぐらせた三之丸御殿があり、藩主が来て祭事をしたりくつろいだりした。
八詠桜、常盈倉もこの一郭にあった。
道から西には家老三之丸千野家の屋敷があって三之丸様と呼ばれ、その北のつづきには牛山、前田二氏の屋敷があった。
明治維新直後、三之丸御殿は前藩主の居所となって東御殿と呼ばれ、家老の屋敷は藩知事の居所になって西御殿とよばれた。

諏訪市教育委員会

(説明板より)




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