鷹司孝子 たかつかさ・たかこ

慶長7年(1602年)〜延宝2年6月8日(1674年7月11日)


3代将軍徳川家光の正室。
父は鷹司信房、母は佐々成政の娘・照子(岳星院)。
寛永元年(1624年)家光に嫁ぐ。
家光とは不仲であったといわれている。
家光との間には子供を設けなかった。
慶応4年(1651年)家光没後、落飾して本理院と号す。
73歳で没す。


孝子の墓



孝子の墓

(伝通院)





(平成18年3月11日)

孝子の墓(区指定史跡)

慶長7年―延宝2年(1602―1674)。
孝子は3代将軍徳川家光の正室。
前関白鷹司たかつかさ信房の娘、元和9年(1623)京都から江戸に下り江戸城西の丸に入る。
寛永2年(1625)家光と結婚するが、公家出身で武家の生活になじめないまま73歳で没す。

東京都文京区教育委員会
平成2年3月

(説明板より)

伝通院



浄土宗 無量山伝通院むりょうざんでんつういん
(東京都文京区小石川3−14−6)





(平成18年3月11日)

傅通院のあゆみ

当山は今から約600年程前の応永22年(1415)浄土宗第七祖誉聖冏上人が開山したお寺。
当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開創された。
それから二百年後慶長7年(1602)8月29日、家康公の生母お大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めた。
お大の方の法名「傅通院殿」から「傅通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられた。
また、当山は関東十八檀林の一つとして学僧の修業勉学の場となり僧侶養成の重責を担っていた。
更に明治以後には淑徳女学校を設立。
広く社会に向けて女子教育にも力を注いでいる。
しかし、このような歴史の中にも、享保6年(1721)・同10年(1725)・明治43年(1910)の三度の大火にあい、更には第二次世界大戦では境内建物、宝物等全て灰燼に帰してしまった。
戦後は復興にはげみ、昭和63年(1988)新世紀の宗教活動に対応できる新本堂を建立。
平成9年(1997)繊月会館を建立。
平成11年(1999)には観音堂(休憩所)を建立し現在に至っている。

(説明板より)


徳川家光



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