鳥取県護国神社

鳥取市浜坂1318番地53


鳥取県護国神社 平成16年11月18日

略記

祭神の御柱数 23,475柱

沿革
明治元年11月鳥取市行徳字角台に祠宇を仮設し戊辰役に戦死した鳥取藩士の霊を祭る
(鳥取藩主池田慶徳祭主)
明治3年5月鳥取市浜坂字代々山に招魂の祭場を設け祭祀す
明治8年池田家より鳥取県に移管され鳥取招魂社と称す
明治12年11月鳥取市西町に移転
明治30年11月鳥取市上町に移転
昭和14年4月護国神社に指定され鳥取県護国神社と改称
昭和21年因伯神社と改称
昭和22年鳥取市寺町の火災の飛火により社殿焼失
昭和27年1月再度鳥取県護国神社と改称
昭和30年3月伊勢神宮別宮倭姫宮の譲与を受け社殿改築
昭和49年5月鳥取市浜坂1318番地53に移転


遺品


遺品







(平成16年11月18日)

来歴書

九二式重機関銃 1
擲弾筒 1
鉄帽 1
水筒 1
飯盒 1

これらの品は、昭和20年の太平洋戦争の末期フィリピンのルソン島バレテ峠の激戦地において、鉄兵団が米軍と交戦したとき使ったものです。
昭和48年11月政府のフィリピン戦没者遺骨収集事業が実施されたとき現地で収集し、日本に還送されたものです。
バレテ地区の戦斗で敢斗散華された戦没者の遺品でありますので、同地区戦斗の主役として戦った歩兵第63連隊(鉄第5447部隊)の戦没将兵の郷土に永く保存することとして、バレテ会が譲り受け鳥取県護国神社に奉納したものです。

昭和49年6月

(説明板より)


慰霊碑

古南決死隊顕彰碑


古南決死隊顕彰碑


左:顕彰碑
右:副碑(説明碑)



(平成16年11月18日)

碑文(副碑)

昭和20年4月5日ビルマ國タウンガッブ地区370高地英印軍陣地ニ斬込死守ノ命ヲ受ケ隊長古南大尉以下34名決死突撃ヲ敢行激戦ノ末同地ヲ占領セリ
然レ共隊長以下多数ノ将兵護国ノ華ト散ル
茲に顕彰碑ヲ建立シ在リシ日ノ壮容ヲ偲ブ

戦友有志

碑文(主碑裏の碑文)

隊長 鳥取 古南謙一
機関銃指揮官 姫路 上田豊
鳥取 森一男  宍栗 早柏豊  姫路 内海鉄造  関金 向井栄
智頭 長石馨  日野 安達薰  鹿野 滝信義  米子 池西重成
鳥取 吉永明敏  神戸 藤枝豊司  高砂 橋本英一  八鹿 山下勝蔵
3中隊指揮官 神崎 栗原栄吉
姫路 寺尾清春  鳥取 小林勝美  河原 米山利勝  若桜 藤原竜三
気高 国森清三  溝口 柴田弘  西伯 新井敬一  八鹿 松田広治
岡山 犬養淳一  岡山 斎藤伊忠雄  岡山 浅野間広士

昭和57年4月5日建之 戦友有志
石工 上田洋一
石材寄付 梶川雅義


彰忠碑(後備近衛歩兵第1連隊長須知源次郎中佐の顕彰碑)
慰霊碑(歩兵第40連隊)

陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑
比島戦没者慰霊碑(歩兵第63連隊)


護国神社入口



鳥取県護国神社入口

すぐ近くに鳥取砂丘があります。



(平成16年11月18日)

鳥取砂丘案内図

国指定天然記念物
鳥取砂丘

(昭和30年2月3日)
鳥取砂丘は、千代川によって長い年月を経て日本海に運ばれた多量の砂が、沿岸流や波によって海岸に打ち上げられ、強い風により乾燥し内陸に運ばれて形成されたもので、東は岩美郡福部村岩戸から西は白兎海岸までの広い範囲に及ぶ。
砂丘を発達しやすくした要因として海水面の変動や長い間の気候変動も関係している。
全面に広がる砂丘はそのうちの一部分であるが、砂丘地としての自然環境がよく保存されている地域であり、国の天然記念物の指定地となっている。
東西に小高く続く砂山や風・水食によって形成された馬蹄形の凹地(俗称「スリバチ」)など起伏の大きい地形は雄大であり、また風漣・風廉など地表における砂がおりなす多彩な模様は美しい。
また、砂地に成育・生息する独特の植物や動物が数多く知れれている。
その主なものは、植物では、ハマグルマ、コウボウムギ、ハマヒルガオ、ハマゴウ、ウンラン、ケカモノハシなど、動物では、砂地に巣穴を掘る習性のイソコモリグモをはじめとするクモ類や昆虫類、ダニ類などである。
鳥取砂丘は、このように地形、地質、植物、動物など学術的にも非常に貴重な価値をもつ天然記念物である。

(説明板より)



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