敦賀城 つるがじょう

福井県敦賀市結城町14


敦賀城跡 平成20年4月12日

敦賀城

文明3年(1471)朝倉敏景が越前守護となり、敦賀郡司を置くが、郡司の跡に敦賀城が築かれたと伝える。
城主として初見の人物は、天正3年(1575)織田信長から敦賀5万石を与えられた武藤宗左衛門舜秀である。
天正7年、舜秀は摂津伊丹で戦死し、長子の康秀が継ぐが、信長が本能寺の変で斃れると康秀は丹羽長秀に仕え、蜂屋頼隆が城主となった。
天正17年、大谷吉継が5万7千石で入城、城の整備拡張を行なう。
慶長5年(1600)関ヶ原で吉継が敗死するや、家康はその所領を没収。
翌6年、福井城主松平(結城)秀康が支配し、その頃、城域の徳市村附近から出火、城の一部を焼いた。
その後は復旧されず、東堀は埋立てられ、規模は縮小され、元和一国一城令で破却された。
江戸時代は小浜藩の奉行所などに使用され、明治に至って建物の一部は敦賀県庁となる。

(参考:大類伸監修『日本城郭辞典』)

真願寺



大谷吉継 敦賀城跡碑

(福井県敦賀市結城町14・真宗大谷派真願寺)


昭和47年11月建立


(平成20年4月12日)

大谷吉継 敦賀城跡碑

大谷吉継(吉隆ともいう)は、豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)刑部少輔となり、敦賀5万石の城主となって、街や港の整備発展を計った。
慶長5年(1600)9月豊臣家のため、徳川家康と関ヶ原に戦ったが敗れて42才で自刃した。
世の人々は「吉継は衆を愛し、智勇を兼ねた正義の賢人であった。」と讃えた。(名将言行録)
吉継の拠った敦賀城は、結城、三島の両地にわたり、重層の天守閣を持っていたと伝えられているが、元和2年(1616)一国一城の定めで取りこわされたが、当寺にその礎石が残っており、おの跡をしのぶため、城内西北のこの地に本県出身の文学博士平泉澄先生の題字によって碑を建立した。

北野太慶雄記

(説明板より)

敦賀城礎石



敦賀城礎石
(福井県敦賀市・真願寺)





(平成20年4月12日)
真願寺境内
真願寺外周

敦賀城中門



敦賀城中門(移築)
(福井県敦賀市松島町2−5−31・来迎寺)





(平成20年4月12日)

敦賀市立西小学校



敦賀城跡

(福井県敦賀市結城町8−6・西小学校)





(平成20年4月12日)
敦賀城跡碑



敦賀城跡碑

(福井県敦賀市・西小学校)





(平成20年4月12日)

敦賀城の跡
敦賀町奉行所・代官所の跡
敦賀県庁の跡


天正11(1583)年 蜂屋頼隆が5万石の敦賀領主となり 旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いたが 同17年に頼隆が病死すると 領主は豊臣秀吉配下の大谷吉継と交代した
吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていった
三層の天守閣をもつこの城は 現在の結城町と三島町1丁目にまたがるものであった
慶長5(1600)年 関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は 敗れて自刃した
元和元(1615)年の一国一城令によって 城は破却された

寛永元(1624)年 小浜藩主の京極忠高が敦賀郡を加増され 同11年には酒井忠勝が小浜藩主となり敦賀の支配にあたった
そのため旧敦賀城の中心部に 藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋) 町の支配や警察・裁判を行う南北の町奉行所 農村から年貢を取り立てる南北の代官所を設け 目付け1名 町奉行2名 代官2名が常駐し 配下の足軽や同心とともにその任務にあたった

明治4(1871)年 廃藩置県によって 若狭一国と当時の敦賀・南条・今立三郡を県域とする敦賀県が誕生し その県庁を旧陣屋に置いた
同6年に足羽県を統合すると庁舎が手狭となり 庁舎を旧奉行所跡に新築移転した
同9年8月に敦賀県が廃止されて滋賀県と石川県とに分割されると 敦賀は滋賀県に属した
同14年に旧敦賀県を管轄地域とする福井県が誕生するが 県庁が敦賀に戻ることはなかった
その後この地には警察署・裁判所・敦賀病院などがかわるがわる建てられ 結局 明治42年に敦賀尋常高等小学校が神楽町から新築移転して 現在の敦賀西小学校に引き継がれ 今に至っている

このように近世から近代にかけて敦賀の拠点であったこの地について わたしたちは結成20周年を記念してここに顕彰いたします
市民の皆様にあっても 歴史を活かしたまちづくりの礎として役立てて頂けますなら 望外の喜びでございます

平成9年10月11日
敦賀みなとライオンズクラブ

(碑文より)



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