大谷吉継像 平成20年4月11日

大谷吉継 おおたに・よしつぐ

永禄2年(1559年)〜慶長5年9月15日(1600年10月21日)

福井県敦賀市・みなとつるが山車会館でお会いしました。


父は大友宗麟そうりんの臣、大谷盛治といわれる。
豊臣秀吉に近侍し、天正11年(1583年)賤ヶ岳しずがたけの戦に加わり、天正15年(1587年)、九州攻めで兵站を調え、2年後、越前国敦賀5万石を得た。
小田原攻め、奥州平定に従い、出羽検地を担当。
文禄元年(1592年)の朝鮮出兵には名護屋なごや船奉行、ついで三奉行として漢城(現・ソウル)に入り、翌年、晋州攻撃ののち帰国する。
慶長5年(1600年)西軍に与し、関ヶ原で戦死。


大谷吉継像



大谷吉継の像
(福井県敦賀市・みなとつるが山車会館)





(平成20年4月11日)

敦賀城主
大谷刑部吉継(吉隆)の像

敦賀城最後の城主大谷吉継は、豊後の大谷盛治の子、あるいは近江出身であるともいわれている。
16歳の時長浜城主羽柴(豊臣)秀吉に仕え、天正17年(1589)30歳の若さで敦賀5万石の領主となり、大谷刑部少輔吉継と称した。
秀吉の配下である五奉行のひとりとして活躍し、文禄、慶長の役にも朝鮮半島に出兵している。
吉継は結城町と三島町にまたがる城域に三層の天守閣を擁する敦賀城を築いた。
また在城15年間に現在敦賀の町並みの基礎を築いた。
今も常宮神社にある国宝朝鮮鐘は、吉継の寄進したものと伝えている。
秀吉の死後、慶長5年(1600)石田三成の友情に感じて西軍に与し、関ヶ原の合戦に参加して42歳の若さで自刃し果てた。

(説明板より)

みなとつるが山車会館



みなとつるが山車会館
(福井県敦賀市相生町7−6)





(平成20年4月11日)

利用案内

入館料:大人300円
開館時間:午前10時〜午後5時まで
休館日:
月曜日(その日が国民の祝日の時は、その翌日)、休日の翌日、9月1日〜9月5日、12月28日〜翌年1月3日


大谷吉継と敦賀

小谷吉継は、豊臣秀吉の家臣のなかでも五奉行につぐ地位にあった武将です。
とくに、諸国の検地をはじめ、九州攻めや朝鮮出兵の際に、食料や燃料、弾薬などを補給する兵站へいたん奉行を務めたことで知られています。
天正17年(1589)には敦賀の領主となりましたが、秀吉が吉継を敦賀においた理由は、全国統一が進むなかで日本海交易の拠点としての重要性がますます大きくなってきたことが要因であると考えられています。
領主となってからの吉継は、前領主の蜂屋頼隆はちやよりたかが笙ノ川河口付近に築いた敦賀城を拡張したり、それにともなう町の整備などにも務めました。
いっぽうで、小田原攻め、奥羽出兵、朝鮮出兵など、秀吉が天下を取るために行った戦において重要な役割を果たしました。
関ヶ原の合戦では、石田三成の率いる西軍に属し、中心的な役割を担いましたが、徳川家康率いる東軍にあえなく敗れ、関ヶ原で自刃し、その生涯に幕を閉じました。
また、敦賀城も、吉継没後に発布された元和元年(1615)の一国一城令により廃城となりました。
こういった事情から、吉継の足跡をたどることは困難ですが、現在市内に残されている寺社文書から、わずかにその功績をうかがうことができます。
なお、吉継にまつわる伝説は数多くあり、一説に不治の病により、頭巾姿であったことや、吉継の息女が真田幸村の妻となったという伝承も残されています。
これらは確証はありませんが、吉継像を語る上で象徴的な話といえるでしょう。

敦賀城主として
大谷吉継は天正17年(1589)に敦賀5万石の領主となりました。
この所領は敦賀郡を中心に今立および南条なんじょう両郡を含むものでありました。
敦賀は交通・海運の要衝として重要な地であったため、秀吉は能吏のうりとして評価の高い吉継にこの地を治めさせたと考えられます。
吉継は領主に就任してからも度重なる出陣のため、敦賀にほとんど滞在しませんでしたが、遠方から家臣を的確に指揮し、領国の経営にあたりました。

敦賀城の拡張と町の整備
蜂屋頼隆により築城された敦賀城は、吉継により拡張されました。
城郭は、現在の結城町ゆうきちょうを中心に、三島町1・2丁目に及ぶ範囲にありました。
この城郭の拡張にともない町の整備にも力が注がれ、敦賀城内に攻め込まれないように城門付近の道を入り組んだ構造にしたり、城の近辺に侍屋敷が設けられたりしました。
また、商人や職人など、それぞれの職種ごとに分業した新しい町立まちだても始められました。

敦賀湊と吉継
敦賀は日本海運の中心となる湊で、北国の物資が集散する地でありました。
陸揚げされた物資は、琵琶湖の水運を利用して京都や大坂に運ばれたことから、敦賀の湊は重要な拠点となりました。
敦賀には、伏見城の築城に用いられた『太閤板たいこういた』が、秋田から敦賀に運ばれたことを示す記録や、吉継が出兵の際に物資や舟を調達している記録なども残されています。

関ヶ原の合戦
慶長5年(1600)7月、徳川家康の会津出兵に参陣するため敦賀を離れた吉継は、ひとまず垂井たるいに着陣しました。
この時、佐和山城にいた三成から家康打倒を打ち明けられた吉継は、一度は挙兵を断念させようと説得しますが、三成の意志は固く、結局西軍に属することに決めました。
一説によると、この頃、織田信長に滅ぼされた三好善継に音おんが通じるのを嫌い、吉継を吉隆に改名したと言われています。
この合戦で、吉継は中仙道の防備にあたり、山中村の藤川台に陣を置いて東軍の奇襲に備えましたが、小早川秀秋こばやかわひであきの寝返りにあい、形勢不利となって敗れ、あえなく関ヶ原の地で自刃しました。

大谷吉継関係年譜
和暦 西暦 一般事項 大谷吉継関係事項
永禄2 1559 織田信長、岩倉城の織田信賢を攻め
尾張統一を計る
一説に、この頃吉継が誕生したといわれる
他に永禄3年・5年・8年説などがある
永禄3 1560 桶狭間の戦い  
永禄11 1568 信長、足利義昭を奉じて上洛  
(4月23日)
元亀元
1570 姉川の戦い  
(7月28日)
天正元
1573 室町幕府滅亡
朝倉、浅井氏滅亡
 
天正2 1574 秀吉・長浜城主になる
信長、伊勢長島の一向一揆を平定
秀吉に召抱えられたのはこの前後と言われる
天正3 1575 長篠の戦  
天正4 1576 信長、安土城を築城  
天正5 1577 秀吉、播磨を攻略
上月城落城
秀吉のお馬廻衆として播磨攻略に参陣
秀吉の上月こうづき城救援に従軍
天正6 1578 秀吉、三木城を包囲、兵糧攻めにする  
天正8 1580 秀吉、三木城を攻略  
天正9 1581 秀吉、鳥取城を攻略  
天正10 1582 本能寺の変
山崎の戦い(秀吉、明智光秀を討つ)
石田三成、検地奉行となり山城から検地を始める
天正11 1583 賤ヶ岳の戦
北庄城(柴田勝家)陥落
蜂屋頼隆、敦賀の領主となり敦賀城を築き始める
天正12 1584 秀吉、居城を大阪城に移す
小牧・長久手の戦の後、家康と和解
石田三成、五奉行の一人となる
天正13 1585 秀吉、従一位関白に任命される
秀吉、四国攻め、
長宗我部氏を従属させる
吉継、刑部少輔に叙任
天正14 1586 九州の島津義久、大友氏を攻撃 吉継、堺奉行を兼任した三成を補佐
天正15 1587 バテレン追放令
秀吉、九州攻め
三成・吉継・長束正家
「御扶持方渡奉行」となり九州出兵で活躍
天正16 1588 刀狩令 吉継、後陽成天皇の聚楽第行幸に随行
天正17 1589   敦賀領主に就任
天正18 1590 小田原攻め(北条氏滅亡)
秀吉の全国統一
三成・吉継、館林城忍城を攻略
三成、佐和山城主になる
天正19 1591 秀吉、太閤となる  
(12月8日)
文禄元
1592 文禄の役 朝鮮出兵において吉継・三成・増田長盛ら
総奉行をつとめ渡海
文禄2 1593 豊臣秀頼誕生 敦賀郡内から朝鮮出兵の水主が徴用される
吉継、明の講和使節団を伴い帰国
三成・吉継・増田長盛ら越後で太閤検地
文禄3 1594 秀吉、伏見城を築城し、移る 三成、島津氏の領国を検地する
(10月27日)
慶長元
1596 秀吉、朝鮮へ再出兵を決意する
秀吉、キリスト教徒26人を
長崎で磔にする
三成、増田長盛・前田玄以・長束正家らと
連署血判して秀頼に忠誠を誓う
慶長2 1597 慶長の役 敦賀郡内の塩年貢改めを行う
慶長3 1598 豊臣秀吉死去
朝鮮派遣軍は撤収
三成、朝鮮派遣軍を撤退させる
慶長5 1600 関ヶ原の合戦 吉継は戦場で自刃したといわれる

(『敦賀市立博物館・解説シート』より)


供養塔



供養塔
(福井県敦賀市・永賞寺)





(平成20年4月12日)

敦賀城主 大谷刑部吉継公の供養塔

永禄2年(1559年)に大分県に生まれ(異説あり)、石田三成の紹介で羽柴秀吉と結ばれ、九州の遠征で軍功を立て、敦賀城主に登用された。
城下の整備と港湾の構築・拡充に功績がある。
吉継は病いがちのため信仰心が厚く神社仏閣に多くの寄進をした。
東郷中区にあった天台宗永昌寺をここに移し、回船問屋豪商・道川どうのかわ家を開基として再興、武山永文禅師ぶさんえいもんぜんじを招じて曹洞宗そうとうしゅう永賞寺とし、菩提寺ぼだいじとして優遇、税金を免除した。
関ヶ原の合戦にて敗れ、42才で切腹し、この塔は慰霊のため9年後(1609年)に建てられたと伝えられる。

永賞寺

(説明板より)

[市]永賞寺九重塔
石造九重塔 1基
所有者 永賞寺住職 小川清司
所在地 敦賀市栄新町11−20
時代 江戸時代初期
高さ 3.1メートル

敦賀市内には層塔の遺存例が少なく、なかでもほぼ原形を保つ層塔は、本例が唯一といってよい。
緑色擬灰岩(笏谷石)製で、相輪を欠いているものの、台座からの現存高は3.1メートルを測る。
塔身は全体に損耗しているが、初重軸部の四面には立像を中肉彫成し、反花を配した台座に越前地方のものに見られない独特の形状をもつなどの特徴がある。
『敦賀郡誌』(山本元1915)によれば「□長十四年三月」、「預修源朝臣」の刻銘が報告され、慶長14年(1609)の造立であることが窺えるが、現状ではその痕跡を確認することはできない。
総体として本例は近世初期の笏谷製石造遺物の顕著な例、とりわけ九重塔の稀少な遺存例であると言える。
なお、本例は天正17年(1589)から慶長5年(1600)まで敦賀城主であった大谷刑部吉継の供養塔だという伝承もある。

(説明板より)

永賞寺



永賞寺
(福井県敦賀市栄新町11−20)





(平成20年4月12日)

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