忍城 おしじょう

埼玉県行田市本丸17−23


忍城 平成18年10月19日

中世の行田(鎌倉〜安土桃山時代)

忍城は、文明11年(1479)頃までには成田顕泰あきやすにより築城され、以後約百年にわたり成田氏の支配する時代になりました。
天正18年(1590)、秀吉と小田原北条氏との戦いの中で石田三成らによる水攻めを受けます。
この戦により忍城は開城し、成田氏百年の支配が終り、関東に入国した徳川家康の持ち城となりました。

近世の行田(江戸時代)

忍城が家康の持ち城となった天正18年に松平家忠いえただが派遣され、水攻めで傷んだ城の修復をします。
修復後の天正20年、家康の四男忠康ただやす(のちに忠吉ただよし)が入城。
関ヶ原合戦後に清須に移ります。
忍城にはその後城番じょうばんが置かれ、周辺の河川改修や農業開発が積極的に進められました。
寛永10年(1633)に松平信綱のぶつなが城主となり、同16年には、安部忠秋ただあきが移り以後184年間安部氏の時代が続きます。
文政6年(1823)、伊勢の桑名から松平氏が移封し、48年あまりで明治を迎えます。
明治維新の戦火を逃れた忍城でしたが、明治6年に主な建物は競売に付され、かつての面影は全て失いました。

(『行田市郷土博物館見学のしおり』より抜粋)

模擬三階櫓



模擬三階櫓

内部は郷土博物館の展示室です。




(平成18年10月19日)
東門




東門






(平成18年10月19日)
史跡忍城の鐘



鐘楼
(史跡 忍城の鐘)





(平成18年10月19日)
伝進修館表門




伝進修館表門






(平成18年10月19日)

伝進修館表門

この門は、行田市城西の旧芳川家表門を移築・復元したもので、かつての藩校「進修館」の表門であったと伝えられている門です。
一間一戸、高麗門、切妻造、桟瓦葺で、当初は赤彩された赤門であった可能性も指摘されています。
また、解体時に発見された冠木柄表面の墨書銘から、天保3年(1832)に御奉行後藤五八、大工町世話方大工宋兵衛等によって建立されたことが判明しています。
戦災によって一度移築されていることなどから、藩校「進修館」の門であるのかは確定していませんが、現存する行田市唯一の武家屋敷の表門として貴重な歴史的建造物であると言えます。

平成18年3月
行田市教育委員会

(説明板より)

本丸跡



本丸跡
(行田市郷土博物館駐車場)





(平成18年10月19日)
本丸土塁




本丸土塁






(平成18年10月19日)

本丸土塁

本丸西側を囲む土塁旧状を良く残す。
南に二の丸西に土蔵曲輪と橋で結ばれていた。

(説明板より)

行田市郷土博物館



行田市郷土博物館

(埼玉県行田市本丸17−23)





(平成18年10月19日)
利用の案内

開館時間:午前9時〜午後4時30分(午後4時以降は入館できません)
入館料:一般 200円
休館日:月曜日、祝・祭日の翌日、毎月第4金曜日、年末年始
秩父鉄道行田市駅から徒歩15分


徳川幕府をささえたのは忍城主

江戸幕府3代将軍徳川家光の両腕となっていたのが、「知恵伊豆ちえいず」といわれた松平伊豆守信綱まつだいらいずのかみのぶつなと阿部豊後守忠秋あべぶんごのかみただあきである。
忍城主は、この2人をはじめ7名が老中となっている。
酒井忠勝さかいただかつ、松平信綱、阿部忠秋、正能まさのり、正武まさたけ、正喬まさたか、正允まさちかである。
老中は現在でいえば内閣の主要閣僚であり、信綱、忠秋、正武は総理大臣ともいうべき、老中首座に就任している。
まさに忍城は「老中の城」であり、城主の老中輩出数、在任期間において全国の他の藩の追随ついずいを許さない。

(街角の説明板より)


忍城跡

忍城は、成田館やかた(熊谷市在)に住んでいた成田氏15代親泰ちかやすが、延徳えんとく元年(1489)に忍を支配していた忍大丞だいじょう(行田館)を攻め滅ぼしてこの地に移住し、同2年に築城に着手し、同3年に完成したものといわれている。
この城は、関東7大名城の一つに数えられ荒川と利根川の水利を巧みに利用した湿地に立つ堅牢な平ひら城で、本丸・二の丸・三の丸など大小約20郭くるわがあり、その他土塁どるい、水濠ぼりをもって区画され極めて複雑に構築されていた。
天正てんしょう18年(1590)豊臣秀吉は、関東攻めのため小田原城を攻囲したが、この時豊臣方の武将石田三成が丸墓まるはか山に陣を張り、周囲7里(約30キロメートル)に及ぶ堤を築き、忍城を水攻めにしたが落城せず、小田原北条氏の本城開城後、説得されて開城することになった。
攻めるに堅い名城として後に“忍の浮城”と呼ばれるようになった。
江戸時代に入り、北武蔵の重要地点にあった忍城は、幕府の親藩しんぱんとして松平家忠を始めとし、同忠吉(家康の四男)、後の大老酒井忠勝、智慧伊豆で知られる松平信綱等代々譜代大名が居城し、江戸幕府の老中、大老などの要職につくものが多かった。
城は、明治維新を迎えて全て取りこわされ、わずかに土塁の一部と“忍の時鐘”にその面影をとどめている。

昭和57年3月
忍城跡保存会

(諏訪神社・東照宮にある説明板より)

諏訪神社・東照宮



諏訪神社
東照宮

(埼玉県行田市本丸12−15)




(平成18年10月19日)

諏訪神社

当社の鎮座ちんざしたのは、82代後鳥羽ごとば天皇の健久けんきゅう(1190年頃)の昔、忍おし三郎・忍五郎家時等の一族が、館・塁等を築き居住した頃、と言い伝えられている。
又「持田村誌もちだそんし」には、成田親泰なりたちかやすが延徳えんとく3年(1491)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社を城鎮守としたのが、当社であると伝えている。
その後、成田氏代々の崇敬があり、寛永かんえい16年(1639)城主となった阿部忠秋あべただあきは城郭を修築し、併あわせて正保しょうほ2年(1645)、当社の本殿を造営、寛文かんぶん12年(1672)拝殿を新たに建立した。
現在の社殿は昭和36年の造営である。
文政ぶんせい6年(1823)、松平忠堯ただたかは伊勢桑名から移封するに当たり、城内字あざ下荒井しもあらいの地へ東照宮を、更に城内へ多度社たどしゃと一目蓮社いちもくれんしゃを勧請かんせいした。
これらは明治6年、城郭取り壊しの際、当社境内に移される。
又、城内各所にあった小祠、科斗社しなどしゃ(風の神)・八幡社・久伊豆社・荒こう神社・春道稲荷大明神・神明社・二の丸稲荷大社・天神社・両棟稲荷大明神の9社も同時に当社に配祀はいしされた。

東照宮

当社は、家康公の娘、亀姫かめひめが父の肖像を頂き、後に子の松平忠明公に伝え、忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城やまとのくにこうりやまじょう内に社殿を造営して、肖像を安置したことに始まる。
以来、藩主・藩士崇敬の社となった。
その後、移封の都度遷座せんざされ、慶応4年(1868)鳥羽とば・伏見ふしみの戦の折、大坂蔵屋敷くらやしき内の東照宮を、当社に合祀ごうしした。
社領は、郡山当時より百石ひゃっこくを受け継ぎ、明治維新まで続く。
その地は、埼玉さきたま古墳群の辺りであったと伝えられている。
明治4年(1871)、藩主東京移住のために祭祀さいし断絶の危機を迎えるが、旧藩士ら相計り、同7年に下荒井の地より、本丸の一部である諏訪郭くるわ内の諏訪神社境内一隅に本殿を移し、同33年に藩祖、松平忠明公を配祀した。
現在の拝殿は昭和5年の造営である。

(説明板より)


【石田三成の水攻め】

天正18年(1590年)6月、石田三成は豊臣秀吉から武蔵国の忍城の攻略を命じられ、水攻めを企てた。
忍城は、備中高松城とよく似た沼と深田に囲まれた平城だったので、秀吉の先例(備中高松城の水攻め)に学ぼうとしたのである。
だが、三成の水攻めは見事に失敗し、ある豪雨の夜、築き上げた堤防が決壊して逆流した水のために味方数百人が溺死し、三成自身も危うく泥流に飲み込まれるところだった。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月25日 追記)


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