(通称号:月7387部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
第1次:広島 第2次:姫路 |
第1次:明治41年(大正14年廃止) 第2次:昭和13年 |
第17師団 | ニューブリテン島ラバウル |
日露戦争後、広島で編成。
のちに岡山に移駐。
大正4年に満州に移駐し、大正14年の軍縮で廃止となる。
支那事変の拡大に伴い、第17師団が編成され、第二次連隊として復活した。
当初は蘇州付近の警備を担当。
武漢攻略作戦、甘木関で苦境に陥った第106師団の解囲作戦に参加した。
その後、中支地区で治安討伐作戦に参加する。
昭和16年9月、第35師団の河南作戦に連隊主力が出動。
黄河渡河作戦に協力、三昼夜にわたる渡河を成功させ、対岸に進出して敵を退去させた。
昭和18年9月、南方作戦用として山砲に換装。
主力はラバウルから西部ニューブリテンのツルブ、ガマスタの守備、第1大隊はブーゲンビル島の守備に就いた。
昭和18年12月、米軍がマーカス岬に上陸、主力は2ヶ月の苦闘の末、ラバウルに後退し、終戦まで同地の防衛に就く。
第1大隊は第6師団のタロキナ作戦に参加。
その後、独立混成第28旅団砲兵隊に改編された。
副碑・碑文
第十七師團野砲兵第二十三聯隊は明治四十一年創立
大正十四年廃隊
昭和十三年再編
同年七年大陸に進出
武漢攻略・高瑞鎮・漢水・豫南・浙■等各作戦に武勲を挙げ十八年装備を山砲に改め同年秋呉淞出港
台湾沖にて敵潜水艦の雷撃を受け聯隊長以下の枢軸を失ふもニューブリテン島に上陸
ツルブ・ガスマタ・タラセヤ・タロキナの攻防戦に死闘し、時に利なく二十年八月終戦の令下り二十一年五月名古屋にて解隊す
創立以来敵弾飢餓瘴癘に倒れた幾多戦友の英魂を鎮め武勲を千載に残すため我等戦友遺族相寄りこの神域に鎮魂碑を建立す
昭和五十七年五月三日
野砲兵第二十三聯隊戦友会
第17師団長 | 陸軍中将 | 広野太吉(陸士18期) | |||
第17師団司令部 | 91名 | 馬 22頭 | 自動車8 台 | ||
第17師団歩兵団司令官 | 陸軍少将 | 鈴木春松(陸士20期) | |||
歩兵第53連隊 連隊長 | 歩兵大佐 | 坂本末雄(陸士26期) | 2,909名 | 馬 179頭 | |
歩兵第54連隊 連隊長 | 歩兵大佐 | 高橋政雄(陸士25期) | 2,909名 | 馬 179頭 | |
歩兵第81連隊 連隊長 | 歩兵大佐 | 松浦豊一(陸士24期) | 2,909名 | 馬 179頭 | |
第17師団捜索隊 隊長 | 騎兵中佐 | 川島吉蔵(陸士27期) | 319名 | 馬 185頭 | 軽装甲車5両 |
野砲兵第23連隊 連隊長 | 砲兵大佐 | 辻 演武(陸士25期) | 1,745名 | 馬 1,259頭 | |
工兵第17連隊 | 402名 | 馬 15頭 | 自動車2台 | ||
第17師団通信隊 隊長 | 歩兵中尉 | 鳥山 尚(陸士48期) | 178名 | 馬 30頭 | |
輜重兵第17連隊 | 370名 | 馬 113頭 | 自動車50台 | ||
第17師団衛生隊 | 376名 | 馬 47頭 | |||
師団第一野戦病院 | 239名 | 馬 87頭 | |||
師団第二野戦病院 | 246名 | 馬 81頭 | |||
第17師団病馬廠 | 48名 | 馬 11頭 | |||
師団兵器勤務隊 (昭和14年11月2日臨時動員) |
(参考:『騎兵第百十大隊史』 大隊史刊行委員会 昭和60年3月発行 非売品)
(令和2年5月9日 追記)
SEO | [PR] !uO z[y[WJ Cu | ||