横浜海軍航空隊


横浜航空隊(昭和11年10月1日開隊)・艦隊所属
  昭和16年9月頃から移動を開始。
  本部をマーシャル群島のヤルートに置き、周辺の各離島基地に兵力を展開。
  昭和17年4月時点での本部所在地はラバウル(16機)
  昭和17年8月7日、ソロモン群島ツラギにおいて、米機動部隊の奇襲を受けて玉砕。
  昭和17年11月1日、横浜にて再建。第801航空隊(801空)に呼称改変。
  昭和18年5月頃、第一線機は九七式大艇から二式大艇に全面的に装備を変換する。
  昭和19年11月以降、飛行艇作戦部隊は801空に一本化される。
  外地の基地をすべて撤収し、詫間基地に集結して作戦を続行。
  昭和20年2月10日、801空は大艇と中攻(攻撃第703飛行隊)の混合索敵隊となり、第5航空艦隊傘下に編入される。
  (二式大艇12機、クルー20組)
  昭和20年1月の飛行艇の生産中止に伴い、輸送部隊を除く全飛行艇隊(教育部隊、901空を含む)を吸収合併する。
  昭和20年4月25日、搭乗員教育の停止により、飛行艇隊が801空から分離。
  801空は中攻隊のみとなる。

(参考: 日辻常雄 著 『最後の飛行艇』 文庫版新戦史シリーズ66 朝日ソノラマ 1994年9月 第1刷発行) 

(平成28年12月8日 追記)


【横浜海軍航空隊】

開隊:昭和11年10月1日
機種:大艇
最終所属:第11航空艦隊第25航空戦隊
解隊:昭和17年11月1日に第801海軍航空隊と改称

太平洋戦争開始とともに、第4艦隊第24航空戦隊に属して内南洋方面の作戦に従事。
昭和17年4月、第11航空艦隊第25航空戦隊に編入され、ソロモン諸島ツラギ(ガブツ・タナンボコ島)に進出。
昭和17年8月7日、米軍はガダルカナル島と同時にツラギとその隣りのガブツ・タナンボコ島にも大兵力(6700名)を投入した。
横浜海軍航空隊の兵力は司令の宮崎重敬大佐以下142名、ツラギを主とした第84警備隊本部など400名弱のため、翌8日には玉砕した。
横浜海軍航空隊のラバウル残留部隊は9月末、同地を撤退し、横浜に帰還して再建された。

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月20日 追記)


フロリダ諸島

昭和17年(1942年)5月3日、「MO作戦(ポートモレスビー攻略)」に伴い、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島を占領。
横浜海軍航空隊はタナンボゴ島を拠点に哨戒任務に就く。
ガブツ島に病院班・舟艇班・工作班。(約100名)
タナンボゴ島に大艇(大型飛行艇)隊。(司令・宮崎重敏大佐以下約350名)
フロリダ島に二式水戦(二式水上戦闘機)隊。(60名)
昭和17年8月7日、米第1海兵師団の攻撃を受け、翌8日に玉砕。(司令・宮崎大佐は自決)





左の島が「ガブツ島」
右の島が「タナンボゴ島」




(平成22年11月19日)
「ガブツ島」

当時のスロープが今も残っている。

【ソロモンの死闘】

ガダルカナルの北方、フロリダ島ツラギは、良好な水上基地であり、開戦前に政庁が所在するとともに、オーストラリア軍の飛行艇基地となっていた。
ガダルカナル攻略後、横浜航空隊は水上戦闘機隊1隊を伴って、ラバウルから560マイルも離れているツラギ基地に全力を集中した。
昭和17年5月7日から8日にかけて日米両機動部隊が本格的にぶつかり合った珊瑚海海戦が勃発。
ツラギには警備隊、横浜航空隊(浜空)など総勢600名が駐留し、大艇は東方400マイル圏の哨戒を開始していた。
昭和17年8月6日、ソロモン方面は天候不良のため哨戒は中止され、二式大艇による久しぶりの補給が行われ、基地は賑わっていた。
賑やかな宴を終えての寝入りばなに「整備隊総員起こし」が下令された。
敵機動部隊の接近情報を入手したため、明早朝からの哨戒は進出距離を600マイルに伸ばす必要があり、ただちに燃料補給を開始することになる。
午前4時、「搭乗員整列」が下令される。
係留中の大艇は10機。
午前4時30分、暗闇の中で6機に搭乗した搭乗員が洋上で試運転を開始。
この時に、敵戦闘機約10機の空襲。
搭乗員たちは必死に応戦したが、機上で斃れる者、海に飛び込む者、飛行艇は係留中のものも含めことごとく炎上爆発し、流れ出すガソリンで一面が火の海となる中で、10機の大艇は搭乗員もろとも全滅。
敵機の第一波が引いたころ、敵の巡洋艦、駆逐艦が湾内に姿を現し、第二波の空襲と合わせて猛烈な艦砲射撃を開始してきた。
午前9時頃、約100隻の上陸用舟艇が接近。
航空隊はわずかな武器を持って陸戦隊と共に地形を利用して応戦。
日没が迫ると戦闘は小康状態に入った。
8月8日、敵が航空隊本部の300メートル手前まで接近し、水陸両用戦車数台が突っ込んできた。
隊員は素手でガソリン缶をぶつけながら斃れていった。
1台の戦車に飛行長である勝田三郎中佐が馬乗りになり、拳銃を中に撃ち込んでいるのが見えたが、間もなくその姿は消えた。
午後2時頃から再び猛烈な艦砲射撃が開始され、敵の上陸部隊も一段と増強されてきた。
昭和17年8月9日夜遅く、ツラギ基地はついに敵手に落ちた。
横浜航空隊は3日間の激戦に勇戦奮闘を続けたが、2名を残し全滅したのである。

(参考: 日辻常雄 著 『最後の飛行艇』 文庫版新戦史シリーズ66 朝日ソノラマ 1994年9月 第1刷発行) 

(平成28年12月8日 追記)


小良ヶ浜鎮魂碑



小良ヶ浜鎮魂碑
(福島県双葉郡富岡町小良ヶ浜おらがはま

『鎮魂 波こそわが墓標 曙光よこの碑を飾れ』



(平成20年10月5日)

碑文

時恰も太平洋戦争たけなわの昭和18年の春、戦局はとみに重大さをまし、祖国存亡の危機に直面している時、諸勇士は海軍のパイロットとして、また、整備兵として、骨肉の私情を断ち、遠く南海、北辺の地にあって身命を賭して戦っていました。
5月に至り、北東方面海軍作戦であるアッツ島攻防戦に参加し、同29日山崎大佐以下アッツ島守備隊が全員玉砕するや、戦いの場を他に求め、九七式海軍大型飛行艇一機に搭乗し、横浜海軍航空隊に向かい飛び続ける途次でありました。
6月9日の朝、恨むべきかな、海からわきあがる季節特有の白い魔の手の如き濃霧に阻まれ、この小良ヶ浜の地において、志なかばにして護国の鬼となられました。
いま、波の墓標として潮騒の中に眠る諸勇士の胸中の無念さを思うとき、痛恨のきわみであり、滂沱の涙を禁ずることができません。
しかし、その功勲は深く郷人の胸に刻みこまれ、烈々として永く鑽仰するところであります。
ここに、遺族、郷人とあい謀り、この地に鎮魂の碑を建立し、諸勇士の安らかな眠りを祈り、その遺烈を偲び、偉勲を後世に伝えたいと思います。

平成5年3月31日建立

碑文(裏)

ここに15柱の勇士の御霊が眠る

海軍中尉  遠藤 亨  東京都豊島区
海軍上等飛行兵曹  眞方 三郎  鹿児島市下荒田町
海軍上等飛行兵曹  冨永 誠治  横浜市戸塚区
海軍上等飛行兵曹  鈴木 孚  北海道札幌市
海軍上等飛行兵曹  川井 治  山形県飯豊町
海軍飛行兵長  松山 直正  秋田県能代市
海軍一等飛行兵曹  朝田 良一  北海道函館市
海軍飛行兵長  濱垣 博  鳥取県東村
海軍一等飛行兵曹  阿部 重雄  福島市荒町
海軍一等飛行兵曹  藤間秀太郎  島根県仁摩町
海軍一等飛行兵曹  伊藤 初夫  岐阜県上矢作町
海軍二等飛行兵曹  鈴木 佐助  土浦市千東町
海軍二等飛行兵曹  渡辺 正志  山梨県富士吉田市
海軍上等整備兵曹  池田不二夫  鹿児島県祁答町
海軍一等整備兵曹  冷岡 酉吉  茨城県つくば市
小良ヶ浜鎮魂碑



小良ヶ浜鎮魂碑
(福島県双葉郡富岡町小良ヶ浜おらがはま

小良ヶ浜灯台のすぐ近くに建っています。



(平成20年10月5日)
小良ヶ浜灯台



小良ヶ浜灯台

(福島県双葉郡富岡町小良ヶ浜おらがはま

初点 昭和30年3月28日
改築 平成9年3月


(平成20年10月5日)
灯台から見た景色




灯台から見た景色






(平成20年10月5日)

【偵察第302飛行隊(T302)】

昭和19年12月15日、伊藤敦夫少佐(海兵63期)が横須賀海軍航空隊付から偵察第302飛行隊長に転補。
偵察第302飛行隊(T302)は、このとき伊藤隊長がリーダーとなって新編された特設飛行隊。
編成地は横浜航空基地。
使用機種は、昭和18年8月に制式採用された「瑞雲」。
「瑞雲」は全金属製、単葉、双浮舟、艦隊協同作戦用に500キロ爆弾を搭載する高速水上偵察機兼爆撃機として設計された飛行機。
最大速力は240ノット(時速448キロ)

T302飛行隊の飛行機定数は常用18機、補用9機、合計27機とされ、所属は第801航空隊。

編成当初は昭和20年5月頃を目標に、台湾からフィリピンに進出して、偵察第301飛行隊(T301)と交替する予定だったが、戦場の様相はとてもそのような余裕はなく、すぐに戦闘可能な組、多少訓練すれば戦闘できる組、当分訓練しなければ使えない組の三つのグループに分けられた。
(若い飛行予備学生13期、乙種予科練13期、甲種予科練12期出身者が多かった)
伊藤隊長の予想通り、昭和20年2月になると、第5航空艦隊からの命令で即戦闘可能グループ第1陣、第2陣の計15機が指宿に進出。
残留した要錬成組も4月から5月にかけて全機が九州に進出した。
指宿を作戦基地に、奄美大島の古仁屋こにやを中継補給基地に、博多を後方基地として、とくに慶良間けらま列島方面の敵艦艇攻撃を任務とし、沖縄戦の最初から最後まで戦う。
3月31日の第1回攻撃隊から4月10日までに、のべ約50機が出撃し、戦死3組、機体の大破7機の犠牲を生じたが、次第に夜間飛行にも慣れて困難な戦闘を続けていく。

第5航空艦隊司令部と第801航空隊との協議で、「T302」は独立部隊として取り扱われるようになり、「801空」指令からは“部隊で一番古参の隊長だから、いっさいお前に任せる”と連絡があり、沖縄戦の時の「T302」は第5航空艦隊(5航艦)直率部隊の一つとして伊藤隊長の裁量で行動したという。
また、艦隊司令部からは「とにかく敵の上空での滞空時間を長くして、制圧につとめよ」とも言われていたという。

やがて「801空」から詫間航空隊へ所属が変わり、さらに昭和20年5月24日、第634海軍航空隊司令の指揮下に移った。

(参考:雨倉孝之 著 『飛行隊長が語る勝者の条件』 光人社NF文庫 1999年11月発行)

(令和2年5月16日 追記)




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