第15師団司令部

(現:愛知県豊橋市・愛知大学『大学記念館』)

編成地 編成時期 終戦時の所在地 主な最終所属連隊
豊橋 明治41年(大正14年廃止) タイ 歩兵第51連隊
歩兵第60連隊
歩兵第67連隊
敦賀 昭和13年

第15師団正門


第15師団正門
(現:愛知大学正門)

門の目の前に線路と踏み切りがありました。



(平成17年4月2日)

正門 正門

第15師団司令部址

第15師団は、明治41年(1908)誘致運動をした豊橋市に設置された。
この地には、師団司令部のほか、騎兵第4旅団司令部、歩兵第60連隊などが置かれた。
しかし、師団は、大正14年(1925)に廃止となり、その後は、陸軍予備士官学校などに利用された。

昭和56年3月 豊橋市教育委員会

(説明標柱より)

第15師団司令部庁舎



第15師団司令部庁舎
(愛知県豊橋市町畑町・愛知大学・大学記念館)




(平成17年4月2日)

第15師団司令部庁舎 第15師団司令部庁舎

登録文化財 愛知大学旧本館(旧陸軍第15師団司令部庁舎) 平成10年1月16日登録

愛知大学旧本館は、旧陸軍第15師団司令部として明治41年(1908)に建てられ、終戦後は愛知大学の本館として使用されてきました。
建物は木造2階建、寄棟造よせむねづくりの桟瓦葺さんがわらぶきで、両翼屋を背後に突き出したコの字形の平面形を持ちます。
外壁は板貼りで、装飾をあまり用いない軍隊関連建物らしい簡素な造りです。
建築面積は1,859uです。
木造の旧師団司令部庁舎で現存するのは全国的にごく少なく、明治末期の陸軍による兵営建築の手法をよく残す建物として貴重な例です。

豊橋市教育委員会

(説明板より)

 (説明板より)

 (説明板より)


愛知大学・大学記念館利用案内

月〜金 9:10〜16:40(休憩12:00〜13:00)
土    9:10〜12:40
休館日 日・祝日、創立記念日(11月15日)及び夏期休暇・冬期休暇の期間

展示の内容

  1. 創設以前 旧陸軍関係の敷地・建物など。旧上海東亜同文書大学について。
  2. 創設期(1946〜52) 旧制大学として。
  3. 整備期(1953〜66) 新制大学として。
  4. 充実・拡充期(1967〜96) 名古屋新キャンパスと新学部を加え創立50周年を迎える。
  5. 現況(〜99まで)

第15師団軍医部

この師団は中支より抜かれて、上海からサイゴンまで10梯団に分かれて海上輸送され、サイゴンからバンコク、チェンマイを経てビルマに到着しているが、途中で南方軍の命令で、タイ国内の自動車道路工事に従事させられ、昭和19年3月15日のインパール作戦開始直前にやっと主力が間に合い、準備もそこそこで、チンドウィン河を渡河している。
師団の残り3分の1はタイ国に残置され、後に主力を追及するのだが、15軍の直轄とされたので、師団主力と共に前進した衛生部隊は第1野戦病院と衛生隊のみで、第2、第4野戦病院、防疫給水部は後方にあった。

軍医部の部員の仕事は、師団の作戦命令の中で、衛生隊、野戦病院、防疫給水部など、衛生関係部隊の任務を立案したり、隷下衛生部員の人事、衛生材料の補給などで、大変忙しい。
この師団のように、先頭と後尾がべらぼうに長いのではいっそう多忙であったと思われる。

軍医部長 嘉悦三毅夫大佐

第15師団が中支に駐留していた時、マラリア患者が多発したので、顕微鏡と治療薬を現地調達して、これの防疫につとめたが、この行為は経理上、規則違反だったため危くクビになりそうになった。

終戦時は軍医中将としてハルピンの第1陸軍病院長であったが、独自の敵情判断で、7,000名の職員と入院患者を4梯団の列車と36両の自動車に乗せ、ソ連軍のハルピン侵入直前に脱出させ、無事に博多まで帰りついている。
非凡な才能と勇気を持った人であったと、高く評価されている人である。

参考文献:関亮著「軍医サンよもやま物語」

(平成17年7月24日追記)


慰霊塔


慰霊塔 第15師団第2野戦病院
(和歌山県伊都郡高野町・高野山奥の院)




(平成21年4月9日)

慰霊碑建立由来記

我々の野戦病院は大東亜戦争中 中国南昌駐留の第34師団(大阪編成)の隷下を離れ揚子江を下り第15師団(京都編成)に転入し上海から南方戦線に向かった
そしてインドのインパール作戦次いでビルマのイラワジ川大会戦(相手は英米中国)に参加し 多くの傷病兵を収容治療し時に自衛の為戦斗を交えたが 病院の将兵も亦多く斃れた
この碑は戦友達の死を悼んで建てたものである

昭和57年7月
生存者一同

(碑文より)


ビルマ転進

中支那南京付近に駐留していた第15師団(師団長・山内正文中将。祭兵団)が、ビルマ方面軍司令官の指揮下に入ることになり、その有力な部隊は、サイゴンに上陸、陸路西北進してタイ国を横断してビルマ入りすることとなった。
船腹の状態は、予想を遥かに上回る逼迫の状を呈し、第15師団(祭兵団)の輸送には、老朽船や小型船を充て、南支那海の沿岸にそって、チンタラ、チンタラと南下を続けてメコン河を遡ってサイゴン入りするのである。
サイゴンからは、まずプノンペンに行く。
プノンペンまでは鉄道はない。
メコン河には橋もない。
プノンペンで艀はしけを使って渡るのである。
車とガソリンとの不足は、すべての輸送を車にすることを許さなかった。
そこで、メコン河に浮かんでいる小船舶を使うことにした。
その徴発に乗り出し、米の出回り期も終わっていたので、金の力と、油を軍から提供することで目途がついた。
しかしながら、サイゴンの宿泊施設は、当然に、現状では絶対に不可能だったので、フランス軍の兵営を交渉の末、一時借用することで対応した。

(参考:池田二郎著 『新品将校奮戦記』 共栄書房 1981年) 

(平成23年1月28日追記)


インパール作戦

インパール作戦とは、ビルマに進入した日本軍が幾多の作戦でビルマ全土を占領した後、更にビルマ国境を越えてインドに進攻しようとした一大作戦で、第15軍(軍司令官:牟田口廉也中将)が3個師団をもって、インパール平原に拠る英軍第4軍団(軍団長:スクーンズ中将)の3個師団を攻撃するというもの。
日本軍は主力の第33師団(弓兵団)が南からインパールに迫り、第15師団(祭兵団)が東からインパールを衝き、第31師団(烈兵団)が長駆ウクルル山中を突破してコヒマに進出し、英軍の退路を断つという大胆な構想だった。
作戦は昭和19年(1944年)3月8日に開始された。
第15師団(祭兵団)は3月15日、タウンダット南北地区でチンドウィンを渡河。
作戦はほぼ計画通りに進み、各兵団はインパール平原の外廓線には辿り着いたが、そこで英印軍の集中砲火を浴びて立ち往生してしまい、各兵団長は作戦の遂行に疑義を持つ。
これに対し、牟田口司令官は各兵団長を次々に解任し、作戦を強行しようとした。
(第15師団長・山内正文中将は6月10日解任)
7月3日、遂に大本営は作戦の中止を決定。
7月10日、第15軍は戦線整理に入り、逐次撤退を開始。

第15師団の損耗は以下の通り。
参加兵力:約1万6,000名
残存兵力:約3,300名
損耗率:78%
戦死者:3,678名
戦病死者:3,843名
行方不明者:747名
後送患者:3,703名

(参考:丸山静雄著『インパール作戦従軍記〜一新聞記者の回想〜』)

(平成19年8月13日追記)




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