弘前城 ひろさきじょう

青森県弘前市大字下白銀町


 平成21年11月2日

弘前城

津軽氏の系譜は殆ど不明である。
延徳年間(1490年頃)、光信が種里城(西津軽郡鰺ヶ沢)によって次第に勢力を広め始め、やがて文亀2年(1502)大浦城(中津軽郡岩木町)を築いて長男・盛信をおき、大浦と改称させた。
その後、政信、為則と続き、為信に至って津軽氏は飛躍的な発展を遂げた。
当時、津軽は南部氏の領地であったが、群小の土豪が割拠し、いわば戦国時代の一縮図であった。
津軽為信は、南部氏の内輪もめを好機に、戦国統一の機運を掴むや素早く行動し、小田原征伐中の豊臣秀吉のもとに駈けつけて本領安堵の朱印状をもらってしまった。
南部氏は3日遅れて到着したが後の祭で、行きかう行列を見て口惜しがったという。
文禄3年(1594年)、津軽為信は大浦城から堀越城(弘前市堀越)に移り、城を拡張して津軽経営に乗り出したが、堀越城が治政にはよいが軍事上は不十であるのを痛感。
当時はまだ高岡または鷹ヶ岡と呼ばれていた土地を選定し、慶応8年(1603年)地割に着手したが、翌年京都で客死。
築城事業は中止のやむなきに至った。
しかし、三男・信牧は、父の遺業を完成しようと、慶応14年に工事を再開。
幕府の許可を得てわずか1年1ヶ月という猛スピードで、同16年に完成した。
総奉行は宮館文左衛門、縄張奉行は東海吉兵衛幸儀、他に甲州流軍学者・沼田面松斎祐光などが手伝い、不足な材料は古城のものを用いたりした。
また、築城工事と共に城下町の建設も進め、家臣や商工業者を城下に集めたばかりではなく、特に命じて、町や村の寺院神社を弘前に集めて、城下の重要拠点に配置して城防衛の第一線を作り上げた。
城の周囲は、西を岩木川、東を土淵川が流れ、南には鏡ヶ池を設けて固め、中心部に本丸、その周りに二の丸、三の丸を廻らしている。
城郭は本丸その他7つの郭からなり、天守閣をはじめ櫓8つ、城門12、三重の堀を備えている。
このうち五層の天守閣は、寛永4年(1627年)落雷のため焼失、幕府が五層天守閣の再建を許さなかったため、本丸辰巳櫓を改築、今なお健在である。
4万7千石の小藩には過ぎた城容であるが、当時東北地方には、会津若松の蒲生、仙台の伊達、山形の最上、秋田の佐竹、盛岡の南部、米沢の上杉と、徳川幕府にとって警戒すべき大物大名が多くいたため、背後を固める必要上便宜をはかったといわれる。
また、信牧の妻が、徳川家康の姪で養女になった人であったことも無視できないであろう。
もっとも、財政的にも、9代寧親の文化5年(1808年)には10万石になったが、実収入は、開墾に尽くしたため宝暦5年(1755年)の検地で既に30万石、おそらく100万石に近かったろうといわれている。

(参考:大類伸監修 『日本城郭事典』 昭和58年第8版 秋田書店発行)







三の丸追手門






(平成21年11月2日)

史跡 津軽氏城跡 弘前城
史跡指定 昭和27年3月29日

弘前城は、津軽藩主代々の居城で慶長16年(1611)に2代藩主津軽信枚のぶひらによって築かれた城である。
面積約49万2千平方メートル(約14万9千坪)を有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の六郭よりなり三重の濠と土塁でめぐらされた城郭である。
現在城跡には、天守閣をはじめ隅櫓3棟、城門5棟の建造物が残されており、いずれも重要文化財に指定されている。

重要文化財 三の丸 追手門
建築年代   慶長16年(1611)
         2代藩主 津軽信枚
指定年月日  昭和12年7月29日
棟高      11.7メートル

弘前城には、築城当初10棟の城門があったとされているが、現在二の丸南門、二の丸東門、三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門(亀甲門)の5棟が残されている。
弘前城の城門は、周辺を土塁で築き、内外に桝形を設けた二層の櫓門であるが、門の前面に特別の門(高麗門)などを設けていないことや、一層目の屋根を特に高く配し全体を簡素な素木しらき造りとしていることなどから、全国の城門の中でも古形式の櫓門として注目されている。

弘前市

(説明板より)






三の丸






(平成21年11月2日)
杉の大橋

杉の大橋

南内門外の大橋に当たり、名称は杉材を用いた橋ということから付けられたといわれる。
文政4年(1821)に濠の両側が石垣となるとともに、桧ひのき材によって掛替えされた際に欄干らんかん・擬宝珠ぎぼしがつけられたものである。

(説明板より)

南門




二の丸南門(南内門)






(平成21年11月2日)
二の丸




二の丸






(平成21年11月2日)




二の丸未申櫓



工事中でした!(笑)



(平成21年11月2日)

重要文化財
弘前城二の丸未申ひつじさるやぐら

城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られたもので、防弾・防火のために土蔵造りとなっている。
現存する3つの櫓はいずれも三層建てで同じような姿であるが窓の形など細部の造作に違いが見られる。
櫓の方角を十二支で示したもので、未申ひつじさるは南西に当たる。

(説明板より)

時太鼓櫓跡
時太鼓ときだいこ櫓跡
(二の丸)

城内で時間を知らせるために太鼓を打ち出した場所で、貞享3年(1686)に始められた。
時太鼓は、まず数十回捨て打ちして明け六つ(午前6時の前後2時間)を打ち、他の時刻は3回捨て打ちしてから打つという。
明治4年(1871)の廃藩置県後に三の丸にあった稽古館けいこかんとともに、最初に解体された。
(説明板より)

(平成21年11月2日)
辰巳櫓




二の丸辰巳櫓






(平成21年11月2日)

重要文化財
弘前城二の丸辰巳たつみの

城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られたもので、防弾・防火のために土蔵造りとなっている。
一・二層は4間四方の同面積であるが、三層目を小さくし、屋根は入母屋いりもやにしている。
この櫓で、藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車だし行列などをご覧になった。

(説明板より)

下乗げじょう

本丸と二の丸を結ぶ橋で、この橋の二の丸側に下馬札げばふだがあり、藩士は馬から降りるように定められていた。
築城当初、橋の両側は土留板だったが、文化8年(1811)に石垣に直したものである。
以前は擬宝珠ぎぼしが十二支をかたどったものであった。

(説明板より)

武者屯御門跡




武者屯御門跡
(本丸)





(平成21年11月2日)

武者屯むしゃだまり御門跡

長勝寺構ちょうしょうじがまえの黒門と同様の高麗門こうらいもん形式で、門扉は2枚扉であった。
番所があり更に門の両脇に袖塀そでべいがあったことが古い写真からわかる。
二の丸と下乗橋で区画され、本丸に連絡路で続くこの一郭が「武者屯むしゃだまり」で、合戦の際には大将が軍装を整えて号令を発する場所である。

(説明板より)

天守閣

重要文化財
弘前城天守
建築年代   文化7年(1810)
         9代藩主 津軽寧親やすちか
指定年月日 昭和12年7月29日
棟高      16メートル

弘前城は、津軽を統一した津軽為信ためのぶが計画し、2代藩主信枚のぶひらが慶長16年(1611)に完成させた。
当初の天守は五層で本丸西南隅に構築されていたが、築城から16年後の寛永4年(1627)に落雷により焼失した。
現在の天守は、江戸時代末期の文化7年(1810)9代藩主寧親により、本丸辰巳櫓を解体新造したものである。
建築年代は新しいが、濠側の東・南両面には鉄扉窓をつけず、矢狭間だけとし、また一・二層にはその中央に張り出しをつけ切妻破風、石落しを設けるなど古形式になっている。
江戸時代に建築され、現存する天守としては、東北地方唯一のものであり、小規模ではあるが、全国の城郭天守の中でも代表的なものである。

弘前市

(説明板より)

本丸御殿御玄関礎石
本丸御殿御玄関礎石

この礎石に玄関の柱が建てられていた。
御殿は日常の事務を行う表おもてと、藩主が政務を行う中奥なかおく、藩主の日常生活の場の大奥に大別される。
また、本丸には能舞台や御武芸所など敷地の7割ほどに各種の建造物があった。

(説明板より)

(平成21年11月2日)
御金蔵跡
御金蔵跡
(本丸)

寛文13年(1673)の絵図にすでに記載があるが、延宝8年(1680)に建設されたともいわれている。
元禄4年(1691)には屋根が瓦葺かわらぶきであった。
入口前には番所も置かれ、有名な古木として五つ葉のヒメコマツがあったという。また「牛こなかせ」とよばれた小高い場所であった。

(説明板より)

(平成21年11月2日)
御日記蔵跡
御日記蔵跡(本丸)

弘前藩庁御国日記と呼ばれる日記は、寛文元年(1661)に4代藩主津軽信政の初入部以降、明治に至るまで綿々と書き続けられ、津軽藩政のみならず近世幕藩体制を知る重要な資料となっている。
この日記は、現在4200冊余が残されているが、これを保管した蔵がここにあった。

(説明板より)

(平成21年11月2日)
本丸未申櫓跡
本丸未申櫓跡

ここには、築城当時は五層の天守閣があったが、寛永4年(1627)に落雷で焼失したために、隅櫓が建設された。
元禄7年(1694)に石垣を修理した際、不動明王の梵字ぼんじを刻んだ石が出土し、最勝院に保存されている。
櫓の方角を十二支で示したもので、未申ひつじさるは南西に当たる。

(説明板より)

(平成21年11月2日)
本丸戌亥櫓跡
本丸戌亥いぬいの櫓跡

城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、元禄3年(1690)に柿葺こけらぶきの葺替えが終了している。
また同9年には、櫓下にあった番所の修復も行われており、北の郭くるわから櫓台下、本丸への通路があった。

(説明板より)

(平成21年11月2日)
御宝蔵跡
御宝蔵ごほうぞう(本丸)

この御宝蔵には、青山と呼ばれた琵琶や、小野小町が持っていたと伝えられる琴があったといわれる。
このほか本丸には、政庁や藩主の居住区の役目をした御殿や能舞台、藩主の武芸所などがあり、御金蔵や西の御土蔵、御日記土蔵と呼ばれた蔵も建てられていた。

(説明板より)

(平成21年11月2日)
本丸跡




本丸跡






(平成21年11月2日)
本丸
籾蔵跡




籾蔵もみぐら(北の郭)





(平成21年11月2日)

籾蔵跡

ここには、4代藩主信政の生母である久祥院きゅうしょういんの屋形やかたがありましたが、宝永元年(1704)以降は宝蔵たからぐらや籾蔵もみぐらが建てられ、廃藩の頃には籾蔵が建ち並んでいました。
平成12年〜13年度の発掘調査で、籾蔵を構成する礎石列そせきれつが確認されました。
礎石は約1m間隔で並び、東側および南側は後世の建物のため失われていましたが、12間×4間(約24m×8m)の規模であることがわかりました。
この籾蔵が建てられた時期は、19世紀前半と考えられます。
発掘された礎石は盛り土により保護しました。
その上に石を配置し、区画内の舗装の色を変えることにより、籾蔵の跡を表示しました。

弘前市

(説明板より)

子の櫓跡




の櫓跡(北の郭)





(平成21年11月2日)
子の櫓礎石




子の櫓礎石






(平成21年11月2日)

の櫓跡

北の郭くるわ北東隅すみの土塁どるい上には、藩政時代を通して三層の櫓がありました。
櫓の中には、武具の他に藩庁日記なども保管されていました。
子の櫓は廃藩以降もその姿を留めていましたが、明治39年(1906)に花火のため焼失してしまいました。
平成13年度の発掘調査により、正方形に並ぶ櫓の礎石そせきと石段が確認されました。
櫓の礎石には、石切いしきりの際の矢穴やあなや柱を据えた凹くぼみのあるものがあり、中央には束石つかいしがあります。
櫓の規模は4間×4間(約8×8m)であり、二の丸に現存する三棟の櫓と同規模となります。
櫓の基礎及び石段については、発掘調査え確認されたままの状態で表示しました。

弘前市

(説明板より)

北の郭




北の郭






(平成21年11月2日)
天守閣
鷹丘橋
館神跡




館神たてがみ
(北の郭)





(平成21年11月2日)

館神たてがみ

館神は、2代藩主信枚のぶひらが太閤秀吉の木像を御神体として安置した場所でした。
ここでは、藩主や城内の安全などにかかわる加持祈祷かじきとうがとり行われており、ここへ出入りできたのは、藩主や神官やその家族などごく限られた人でした。
平成11年〜12年度の発掘調査では、鳥居の礎石や本殿の柱穴、柵列さくれつ跡等の遺構が確認されたほか、藩政時代の陶磁器や土器が多数出土しました。
発掘された遺構は盛り土により保護し、その上に鳥居の礎石及び柱、本殿の柱、柵列の柱を表示しました。
また、通路は遺構の配置や絵図を参考に設定しました。

弘前市

(説明板より)

二の丸丑寅櫓




二の丸丑寅うしとらの






(平成21年11月2日)
二の丸丑寅櫓

重要文化財
弘前城二の丸丑寅うしとらの

城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、銅板葺(当初はとち葺)となっている。
軒下や出格子でごうしの木部は素木しらきのままで飾り気がないが、独特の美しさを見せる。
櫓の方角を十二支で示したもので、丑寅は北東に当たる。

(説明板より)

賀田御門跡
賀田よした御門跡
(三の丸)

築城当初は北門が城の表玄関で、ここにあった賀田門は、三の丸の北門として旧賀田城(岩木町大浦城)の大手門を移築したと伝えられる。
門の内外は直進できないように折れ曲がった桝形ますがたが造られていて、堅固な備えを見せている。

(説明板より)

(平成21年11月2日)
東門




三の丸東門






(平成21年11月2日)
傘立て




傘立て






(平成21年11月2日)

この傘立てに使用している鋳物の甕かめは4代藩主信政が元禄12年(1699)に弘前城三の丸に建設した三の丸御殿の跡地から出土した素焼きの大甕を模して約3分の2に縮小し作製したものです。
この大甕は、大きさに比して極めて薄手であり、その用途は水甕などの貯蔵用としてよりも能楽堂や舞台の床下に埋設し音響効果を高めるために使用した甕に類するものであろうと考えられています。
なお、この甕の前面にある紋は七つ葉の杏葉牡丹ぎょうようぼたんといい津軽家の家紋であります。

(説明板より)

四の丸




四の丸






(平成21年11月2日)
北門




北門(亀甲門)
(四の丸)





(平成21年11月2日)
北門(亀甲門)

重要文化財
北門(亀甲門)

移築年代   慶長16年(1611)
         二代藩主 津軽信枚
指定年月日 昭和12年7月29日
棟高      12.7メートル

弘前城には、現在5棟の城門が残されているが、この北門は、これらの中でも特に規模が大きく、また形状も異なり最古の形式を呈する城門である。
北門は、もと大光寺城(現在の南津軽郡平賀町)の城門を慶長16年2代藩主信枚が築城にあたり弘前城追手門として移築再建したもので、昭和33年の保存修理工事に当たって、柱などから多数の矢傷跡が発見されている。
弘前城は、築城以来実戦の経験がないため、この北門が城郭内で唯一の実戦の痕跡をとどめる貴重な城門である。
また、棟の両端にある鯱も他の門のものより古い形式のものである点、矢狭間、鉄砲狭間のない点など、見るべきところが多い門である。

弘前市

(説明板より)


【築城と町割り】

弘前城を築いたのは、二代信牧だが、築城計画はすでに為信の代からあった。
実際に為信は、慶長8年(1603年)ごろ、新城の縄張、城下町の町割りの青写真を作り、幕府に新城の許可を求めている。
しかも、その3年後には、弘前(当時は高岡)への移住を奨励し、移住した者には飯米・材木を支給するなどした。
しかし、幕府の許可はなかなか下りず、そのうちに為信が没してしまった。

築城の工事は慶長15年2月に始まり、翌16年5月に竣工、信牧は堀越城から移った。
城郭が完成すると、引き続き城下の町割り工事が進められた。
信牧は軍事的視点と領民の精神的統一を兼ね、領内の寺社をできるかぎり城下に移転させた。
茂森禅林しげもりぜんりんはそうした措置によって茂森山に集中移住させられた禅林三十三ヶ寺の総称で、その中心となったのは藩主の菩提寺・長勝寺である。
茂森山は弘前城大手門のすぐ南に盛り上がる高台で、城下との間は堀と土居、すなわち長勝寺構がまえによって区切られていた。
いってみれば、茂森禅林と長勝寺構は、弘前城が陥落した場合、ただちに第二の城に早変わりする城砦じょうさいとしての役割を負わされていたわけで、これほど見事に構成された例は珍しいといわれる。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月7日 追記)




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