平成21年11月4日

石川啄木 いしかわ・たくぼく

明治19年(1886年)2月20日〜明治45年(1912年)4月13日

岩手県盛岡市・「丸藤」の前でお会いしました。


本名は一はじめ
岩手県出身。
明治35年(1902年)カンニング事件で盛岡中学を中退し、上京。
与謝野寛(鉄幹)の知遇を得て『明星』ほかに詩を発表。
明治39年(1906年)、生活のため小学校代用教員となり、以後、地方紙の記者として北海道各地を点々とする。
再び上京して小説家を志すが失敗。
失意の思いを短歌に表し「一握の砂」を書く。
生活に根ざす文学を唱えて評論「食ふべき詩」を発表。
明治43年(1910年)大逆事件の報道に衝撃を受けて社会主義に興味を持ち、自然主義文学批判の評論「時代閉塞の現状」を書く。
明治44年(1911年)、詩風も変化し、「果てしなき議論の後」などを創作。
翌年、肺結核で没す。27歳。
没後、歌集「悲しき玩具」が刊行された。


北風に立つ少年啄木像

北風に立つ少年啄木像
(岩手県盛岡市大通2町目・丸藤)

新しき明日の来るを信ずといふ
 自分の言葉に
  嘘はなけれど
              啄木
(碑文より)

(平成21年11月4日)

北風に立つ少年啄木像

昔この辺りは、不来方城菜園の跡地である。
中学生の頃の啄木にとって、この畦道と、城址は詩情の泉であった。
与謝野鉄幹、晶子夫妻の魅力にひかれ、希望に胸ふくらませて、はげしい北風に立ち向かう彼の姿である。

昭和52年9月29日
丸藤創立者古希を祝い建之

(碑文より)


石川啄木歌碑



石川啄木歌碑
(岩手県盛岡市・盛岡城二の丸跡)

『不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心』



(平成21年11月7日)

啄木歌碑

少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。
その当時盛岡中学は内丸通りに在り、岩手公園とは200メートルと離れていなかった。
この歌碑は、昭和30年10月、啄木誕生70年を記念して盛岡啄木会の協力で建てられたものである。
かつては、ここから岩手山を遠望することができ、盛岡市内も見おろせる風光の地であった。
歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書である。

(説明板より)


啄木新婚の家



啄木新婚の家
(岩手県盛岡市中央通3−17−18)





(平成21年11月6日)

石川啄木新婚の家

詩人石川啄木は、明治38年(1905年)5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版しそれをみやげに帰郷の途についたが、金策の必要から途中仙台に下車して土居晩翠をその居に訪ねた。
仙台医学専門学校には郷友、猪狩見竜、小林茂雄らが在学中で、彼らと遊んで滞在すること10日におよんだ。
その間、盛岡市帷子かたびら小路八番戸の借家には月末の30日に結婚式を挙げるべく婚約者の堀合節子がその帰宅を待ちわびていた。
しかし啄木は遂に姿を見せなかった。
そこでその夜級友上野宏一(画家)の媒酌で珍妙な「花婿のいない結婚式」がおこなわれた。
それがこの家である。
仙台をたった啄木は盛岡駅を素通りして渋民に行き、ようやくこの家に顔を見せたのは6月4日だった。
ここではじめて新婚の夫婦と両親、妹光子の5人が揃って家庭をもったのである。
時に啄木は20歳。
この家で稿を起こした随筆「閑天地」は連日、岩手日報の紙上をにぎわし、「我が四畳半」はよく新婚の夢あたたかな情景を描いている。
ほかに「妹よ」、「明滅」、「この心」の作がある。
啄木一家がここに在ること3週間、6月25日には中津川のほとり加賀野磧かわら町四番戸に転居した。
現在、盛岡市内の啄木遺跡といえるのは「啄木新婚の家」だけである。

(説明板より)

望郷と漂泊の天才詩人・石川啄木
啄木は、明治19年2月20日、住職である父一禎と母カツの長男として、岩手郡日戸村(現盛岡市玉山区)の常光寺に生まれました。
翌年、隣村渋民村(現盛岡市玉山区)の宝徳寺に移り、渋民小学校卒業後の明治28年4月、9歳で親元を離れて盛岡市立高等小学校へ入学、さらに盛岡尋常中学校へと進学。
金田一京助・野村胡堂らとの親交から急速に文学への関心を深め、やがて堀合節子と出会い、恋が芽生えます。
文学への目覚めと節子への想いで学業がおろそかとなり、さらに試験の不正行為を契機に中学校を退学した啄木は、文学で身を立てる望みを抱いて上京します。
一時は病のために数ヶ月帰郷したものの、詩心は一気にあふれて開花し、文芸誌「明星」などの紙面を飾り、詩壇の注目を集めました。
明治37年には再び上京し、処女詩集「あこがれ」を出版。
希望に満ちて、年来の恋人節子と結ばれました。

明治39年4月母校渋民尋常小学校の代用教員として就職。
「日本一の代用教員」への新たな理想を掲げ、個性豊かな青年教師ぶりを発揮しましたが、その熱意も結局は報われることなく、教育刷新のストライキ事件で免職となりました。
その後、北海道に渡り、函館、札幌、小樽、釧路と新聞記者生活を続け、明治41年4月、単身上京。
創作活動に没頭しますが、作品出版のめどは立ちませんでした。
それでも啄木は多くの評論を書き、明治43年には処女歌集「一握の砂」を出版。
また、後に世に広く知られることとなる「ローマ字日記」を書き続けました。
明治45年4月初めに、歌集「悲しき玩具」の出版が決まりましたが、それを見ることなく、同月13日、肺結核のため27歳の若さで波乱多い人生を閉じました。
望郷と漂泊の天才詩人・石川啄木。
その27年の短い生涯のうち、文学に夢をはせ、恋に目覚め、新婚生活を送り、最も華やいだ青春時代を過ごしたまちが盛岡です。

(展示パネルより)

 (展示写真より)

石川啄木の妻節子愛用の箏




石川啄木の妻節子愛用の箏






(平成21年11月6日)

【一はじめと節子の恋】

出会い〜新山しんざんグループ
のちに妻となる堀合節子ほりあいせつことの出会いは、自身で「小生は専心詩筆をとれり。又、この自覚によりて、早く一四才頃(註:数え年)より続けられし小生と節子との恋愛は、小生に取りて重大なる意義を有するを意識するに至れり。」(盛岡高等小学校時代の1年先輩小笠原謙吉宛書簡)と記すように、盛岡中学2年生頃であった。
はじめが寄寓していた帷子小路かたびらこうじの姉サダの家と節子の実家は、近い位置にあった。
それに、一はじめの渋民尋常小学校時代の級友・金矢のぶ子が一年遅れで盛岡高等小学校に入学し、節子と同級になったこと、一方、当時堀合家に下宿していた盛岡中学生の宮崎廉平と一はじめが親しかったことが、知り合うきっかけとなったと言われている。
はじめと節子の恋を育てたのは、新山グループの存在であった・・・・。
二人の近くに住む盛岡中学生を中心にした親睦会(新山グループ)に一はじめが所属し、節子やのぶ子ら女学生も参加して、カルタ取りにうち興じたことで、お互いの恋心を深めていくことになる。
新時代の波が立ち始めた明治30年代の盛岡にあって、明るく開放的な雰囲気の中で二人の恋は育ち、その思いが啄木(以後一はじめを改める)の創作意欲をいっそう駆りたてていった。

結婚まで
順調に育った啄木と節子の恋も、結婚に関しては決して順調ではなかった。
古い時代のなごりをみせる明治中期にあって、名門盛岡中学に入学したとはいえ5年生で中退し、定職もない平民の啄木と士族の娘節子の結婚である。
啄木の姉サダらの協力を得て、明治37年(1904)2月結納という形で結実する。
明治38年5月3日、東京の小田島書房より処女詩集「あこがれ」を刊行し、啄木は独身時代にけじめをつけた。
5月12日、父一禎が二人の婚姻届提出。
節子との結婚のために東京から盛岡に向かった啄木は、仙台で途中下車し10日間過ごしている。
啄木からの連絡がないまま結婚式の準備をして待つ節子に、仲人役である上野広一と佐藤善助がこの結婚を断念するよう迫る。
即答をさけた節子は、二人に宛てた書面と啄木からの長い恋文を添えて、その決意を伝えている。
「過去二三年の愛を御認め下され候吾れはあく迄愛の永遠性なると云ふ事を信じ度候。」と。
また封筒の裏には、「石川せつしるす 明治三十八年六月二日」と。
宝徳寺を罷免され、すでに盛岡に移住していた父母妹とともに、6月4日盛岡市帷子小路8番戸(現啄木新婚の家)で新婚生活が始まった。
啄木が節子のことを、後に「渋民日記」にこう記している。
「取り出したのは、百幾十通といふ手紙の一束!/あゝ、これが乃ち自分の若き血と涙との不磨の表号、我が初恋―否一生に一度の恋の生ける物語であるのだ、自分と妻節子との間の!」(明39「12月中」)

(展示パネルより)


石川啄木像 (平成22年5月25日)

北海道函館市・「啄木小公園」でお会いしました。

石川啄木像
石川啄木像
(北海道函館市日乃出町25・「啄木小公園」)

昭和33年10月
石川啄木記念像建設期成会

製作者 本郷 新

(平成22年5月25日)

碑文

潮かをる北の浜辺の砂山の
かの浜薔薇はまなす
今年も咲けるや

啄木

歌碑


歌碑

(北海道函館市日乃出町25・「啄木小公園」)




(平成22年5月25日)

碑文

砂山の
 砂に腹這ひ
   初恋の
いたみを遠く
 おもひ出づる日

啄木

啄木小公園

この辺りは、かつて砂丘があって、ハマナスが咲き乱れていた。
啄木が好んで散歩した所であり、歌集「一握の砂」に「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」と歌われている。
詩集「あこがれ」を左手に持ち、もの思いにふける啄木の座像(本郷新作)は、昭和33(1958)年に建てられた。
隣の石碑は、後年啄木の墓を訪れた詩人西条八十が啄木に捧げた自筆の歌碑である。
啄木が函館に来たのは明治40(1907)年5月のことで、7月には離散していた妻子を呼び寄せ、久しぶりに親子水入らずの生活を営んだ。
弥生小学校の代用教員を経て、函館日日新聞の記者となって間もなくの8月25日、函館は未曾有の大火に襲われた。
新聞社も焼失し、啄木は職を求めて、妻子を残したまま函館を去った。
函館滞在の4か月余りは、彼の一生のうちで、最も楽しい期間であったといわれている。

函館市

(説明板より)


石川啄木像 平成22年5月26日

北海道札幌市・大通公園でお会いしました。

石川啄木歌碑



石川啄木歌碑
(北海道札幌市・大通公園・西3丁目)




(平成22年5月26日)

【碑文】

石川啄木歌碑
    札幌市長 板垣武四

しんとして 幅廣はばひろき街まち
秋の夜の
玉蜀黍とうもろこし焼くるにほひよ


蓋平館別荘跡



蓋平館がいへいかん別荘跡

(東京都文京区本郷6−10−12・太栄館)





(平成18年3月11日)

石川啄木ゆかりの蓋平館がいへいかん別荘跡
(文京区本郷6−10−12 太栄館)

石川啄木(一はじめ・1886〜1912)は、明治41年(1908)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館せきしんかん(オルガノエ場内・現本郷5−5−6)に下宿した。
小説5篇を執筆したが、売り込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。
前の歌碑の『東海の・・・・・』の歌は、この時の歌である。
赤心館での下宿代が滞とどこおり、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。
三階の三畳半の室に入ったが「富士が見える、富士が見える。」と喜んだという。
ここでは、小説『鳥影ちょうえい』を書き、東京毎日新聞社に連載された。
また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人めいぎにんとなった。
北原白秋、木下杢太郎もくたろう吉井勇などが編集のため訪れた。
東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2−38−9)の喜の床とこに移った。
ここでの生活は9か月間であった。
蓋平館は、昭和10年頃太栄館たいえいかんと名称が変わったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。

父のごと 秋はいかめし
母のごと 秋はなつかし
家持たぬ児
(明治41年9月14日作・蓋平館で)

文京区教育委員会
昭和56年9月

(説明板より)

新坂



新坂
(太栄館の側の坂道)





(平成18年3月11日)

新坂

区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。
『御府内備考』に、「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其そのきわまる所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。
名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。
このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館がいへいかん別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。
この坂は、文人の逍遥しょうようの道でもあったと思われる。

昭和63年3月
東京都文京区教育委員会

(説明板より)


歌碑

歌碑
(東京都中央区銀座6丁目6−7朝日ビルディング前)

京橋の瀧山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな

啄木

(平成18年6月26日)

碑文

石川啄木が瀧山町の朝日新聞社に勤務したのは 明治42年3月から45年4月13日27歳でこの世を去るまでの約3年間である
この間彼は佐藤真一編集長をはじめとする朝日の上司や同僚の厚意と恩情にまもられて 歌集「一握の砂」「悲しき玩具」詩集「呼子と口笛」など多くの名作を残し 庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した
銀座の人びとが啄木没後満60年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建立したのはこの由緒によるものである

昭和48年4月1日
日本大学教授 文学博士 岩城之徳

”京橋の瀧山町の”由来

京橋の名は 維新後の明治11年に新たに制定された区名で 昭和22年に現在の中央区に改められる70年の間 都民にしたしまれてきた区名です
瀧山町の名は 江戸開府ののちこの地を開拓した名主瀧山藤吉の名を偲ぶもので 昭和5年銀座西6丁目に改称されるまで徳川時代から続いた由緒のある町名です
現在は中央区銀座6丁目と又新しく表示されております

昭和48年4月1日


啄木一族の墓


啄木一族の墓

(北海道函館市・立待岬の近く)



(平成22年5月24日)
啄木一族の墓


啄木一族の墓

(北海道函館市住吉町16)



(平成22年5月24日)

石川啄木一族の墓

明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。
啄木が函館に住んだのは明治40(1907)年5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は苜蓿社ぼくしゅくしゃ(文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。
「死ぬときは函館で・・・・」と言わせたほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年4月病魔におかされ27歳の生涯を東京で閉じた。
大正2(1913)年3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月彼の後を追うかのようにこの世を去った。
大正15年8月、義弟にあたる歌人宮崎郁雨や、当時の函館図書館長岡田健蔵の手で現在地に墓碑が建てられ、啄木と妻をはじめ3人の愛児や両親などが、津軽海峡の潮騒を聞きながら永遠の眠りについている。

函館市

(説明板より)

墓所から見た景色 (墓所から見た景色)


石川啄木



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