平成16年6月12日
1813年3月7日〜1864年7月21日
福岡県久留米市・水天宮でお会いしました。
筑後国久留米水天宮の祠官・真木旋臣としおみの長男。
名は保臣やすおみ、和泉は通称。
藩校明善堂で学び、江戸・水戸に遊学し尊皇攘夷を唱える。
帰藩後藩政改革の建白をして執政・有馬監物けんもつらの排斥を図るが失敗。
蟄居中に「大夢記」「義挙三策」などを著し、尊穣実践に理論的根拠を与えた。
文久2年(1862)、脱藩。
島津久光の挙兵上洛を機に倒幕挙兵を図るが、寺田屋騒動で捕らえられた。
翌年、許されて上洛。
尊穣派の中心人物として活動。
8月18日の政変後、七卿に従って西下し、その後は萩藩の尊穣派とともに行動した。
元治元年(1864)来島又兵衛、久坂玄瑞らと上洛して”禁門の変”を起こし、敗れて同志16人とともに自刃した。
水天宮
寿永4年3月壇の浦の合戦の後、女官按察使局あぜちのつぼね伊勢(のち千代と改む)が筑後川畔鷺野さぎのに遁のがれて始めて水天宮を祀る。
時に建久初年と傅う。
その後諸処に移転し慶安3年9月藩主有馬忠頼ただより公が社寺社殿を寄進して現在の所に遷し奉る。
此処は古いにしえの鷺野ケ原の故地にして、これより神威弥益に輝き水徳の神として水難、安産、火災、疫病、除災の霊験を以て知られ、海運、農漁、商業、の信仰篤く又、子供の守護神として筑肥一円の民は春大祭に子供を参拝せしむる習慣がある。
当社は往時全国唯一の禁裏ご祈祷所に仰付けられた名社にして全国水天宮の総本宮である。
東京の水天宮は藩主有馬頼徳よりのり公のとき文政元年ここから江戸にご分霊したもので、その全国所在の水天宮は皆当社を本宮とするご分霊社である。
かつて国軍隆盛を極めし頃、水上母艦千歳の守護神として艦内神社にご分霊を奉斉せられた事も当時郷土の誇りであった。
因に5月5,6,7日の春大祭川祭りは門鉄の管内三大行事として喧伝され8月5、6、7日の夏祭奉納花火は筑後花火の揺籃ようらんである。
境内には明治維新の先覚者前大宮司贈正四位真木和泉守保臣の命を祀る真木神社、水天宮の創建者按察使局を祀る千代松神社がある。
河童発祥地としても有名である。
久留米市
(説明板より)
水天宮境内の真木和泉像
真木和泉守保臣やすおみ(1813ー1864)は明治維新の中心的指導者である。
水天宮神職の家に生れ、早く父を失ったが、よく母に仕え、かねてから学問に励み、武道、音楽にも長じ、藩校明善堂から表彰をうけた。
傍らに流れる筑後川は菊地一族の誠忠を語り、少年の時に愛読した絵本楠公記は尊皇愛国の精神を培つちかい、長じては水戸学を中心に学識を深め、しかも身をもって実践した。
藩政改革を企ててならず、一時水田に蟄居ちっきょしたが、後に脱出して東奔西走、国事に盡し諸国の志士から「今楠公」と謳うたわれ、その中心的指導者と仰がれた。
彼は蘭方医らんぽうい工藤謙同と親しく、外国の事情にも通じ久留米の医学刷新さっしんに盡し、久留米藩医学館の生みの親といわれる。
また早くから薩長連合を唱えたが、時至らず、長州藩と共に倒幕の軍を起こし禁門の変に敗れ、同志16人と天王山に登り辞世の和歌を残して自刃した。
大山おおやまの峰みねの石根いわねに埋うめにけり
わが年月としつきの大和魂やまとだましい
(説明板より)
山梔窩について
真木和泉守保臣先生は同志と共に久留米藩を改革しようとして却ってこの地を南に去る十六粁水田村(現在の筑後市水田区)弟大鳥居信臣のもとに謹慎を命ぜられた。
その翌年庭の一隅に小さな家を建てゝ山梔窩と名づ自炊の生活を送りつゝ附近の子弟を教育し後には久留米から参加する者もあり多くの人材を養成した。
これからの門下生には後には幕末の動乱に活躍し国難に仆れたものが少なくない。
また平野国臣を始め諸国の同志の来訪もあり、これらと連絡して策を練り、朝廷に上書するなど、この山梔窩は尊皇倒幕の一大策源地となった。
幽居十一年時勢の急迫と共に
やがて世の春に匂はん梅の花
かた山里の一重なりとも
一首の和歌を書き残して脱出し、明治維新を目指して、その中心的指導者として活躍した。
この建物は史料により当時のものをこの地に模して建てたものである。
(説明板より)
御祭神
(説明板より)
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翠紅館跡 (京都市東山区高台寺南門通) (平成19年3月17日) |
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翠紅館跡 (京都市東山区高台寺南門通) 京都霊山護国神社に向かう道の右側が翠紅館跡です。 (平成19年3月17日) |
翠紅館すいこうかん跡
ここに、幕末の頃、西本願寺の別邸で、翠紅館と呼ばれる屋敷があり、たびたび志士たちの会合の場所となっていた。
文久3年(1863)正月27日には、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも、長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守らが集まった。
この数年前から攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩志士代表者の会議で、攘夷の具体的な方法が検討された。
世にこれを翠紅館会議という。
同年8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。
しかし8月18日に政変が起こって攘夷派は失脚、代って公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を加えていった。
京都市
(説明板より)
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