平成18年2月25日
天保8年9月24日(1837年10月23日)〜昭和3年(1928年)4月22日
東京都港区虎ノ門・ホテルオークラ本館正面玄関前の大倉集古館でお会いしました。
若くして江戸に出て乾物店を営んだ後、幕末の政情に着目して慶応元年(1865年)大倉屋銃砲店を開業。
横浜の外国商人から仕入れた銃砲を幕府・諸藩に売りさばいて巨利を得た。
明治6年(1873年)大倉組商会を設立して貿易業に着手し、翌年の台湾出兵、日清・日露戦争で軍御用達商として活躍した。
朝鮮・中国での利権獲得にも積極的に乗り出し、満州に本渓湖煤鉄公司ほんけいこばいてつコンスを合弁で設立するなど、内外に事業を拡張し、大倉財閥を築いた。
教育・文化事業にも関心を持ち、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)や大倉集古館などを設立した。
大倉喜八郎寿像 (大倉集古館) 1913年 武石弘三郎 作 (平成18年2月25日) |
「大倉鶴彦(喜八郎)翁之略伝」碑 (大倉集古館) 1913年建立 (平成18年2月25日) |
「大倉(喜八郎)翁之墓銘」碑 (大倉集古館) 1916年建立 (平成18年2月25日) |
大倉集古館 (東京都港区虎ノ門2−10−3) ホテルオークラ本館正面玄関前 (平成18年2月25日) |
大倉集古館の沿革
大倉集古館は大倉喜八郎(1837〜1928)が創立した美術館である。
翁は明治維新以来、新興日本の産業の振興、貿易の発展に力を尽くし、育英、慈善事業にも功績が多かった。
一方文化財の海外流出を嘆いてその保護とわが国文化の向上に努めた上、50余年にわたって蒐集した多数の文化財、土地、建物及び基金を挙げて寄付し、大正6年(1917)8月に財団法人大倉集古館が誕生した。
わが国では最初の私立美術館である。
しかし、大正12年関東大震災により、当初の建物と陳列中の所蔵品を失ったが、幸い倉庫は無事であったため、残された優品を基本とし、伊東忠太博士の設計による耐震耐火の陳列館を建築して、昭和3年(1928)10月再び開館し、その後所蔵品も増加して復興の成果を挙げた。
さらに長男喜七郎(1882〜1963)がその遺志を継いで、館の維持経営に絶大な援助を与え、また自ら多年蒐集した名品、特に近代絵画多数を寄付することで館蔵品の充実を計った。
第二次世界大戦に際しては幸いにも空襲の難を免れ、昭和35年に財団法人大倉文化財団と改称、同37年に第一次の改装工事を、また平成9年には創立80周年を記念して、全館の復元と設備の近代化を計るため大改修工事が行なわれた。
建物は中国の古典様式を生かした名作として平成2年に東京都の歴史的建造物に選定され、平成10年には国の登録有形文化財となった。
所蔵品は日本をはじめ東洋各地域の絵画、彫刻、書跡、工芸など広範にわたり、「普賢菩薩騎象像」(平安時代)「随身庭騎絵巻」(鎌倉時代)「古今和歌集序」(平安時代)の国宝3点、12点の重要文化財及び44点の重要美術品をはじめとする美術品約2000点に35000余冊の漢籍を保管している。
中でも著名な「普賢菩薩騎象像」は常時陳列されており、近隣の大使館やホテルオークラに滞在の多くの外国人にも、東洋美術の粋にふれる好機を与えている。
入場料 一般800円 小・中学生無料
観覧時間 10:00〜16:30(入館は16:00まで)
休館日 月曜日(休日の場合は開館)、展示替期間、年末年始
交通案内 (地下鉄)東京メトロ・南北線 六本木1丁目より5分
【大倉集古館の設立と一般公開】
明治維新のさい、江戸在住の何百という大名や旗本たちは、長い間住んだ家屋敷を手放さねばならず、たいへんな騒ぎとなった。
そのため貴重な美術品が捨てられ、あるいは安値で売られた。
金屏風を焼き、金蒔絵を壊して純金を取る者もいた。
西洋人は珍しい美術品を買いあさって本国にドンドン送った。
これを嘆いた大倉喜八郎は、それらの文化財を買い取って国外への流出を防ごうと、その蒐集を始めたのである。
たとえば、維新のすぐあとに、徳川家の御霊屋おたまやの一つ、徳川3代将軍家光の側室で、5代将軍綱吉の生母「桂昌院けいしょういん」の荘厳を凝らした御霊屋で、東京の「芝増上寺」に建立されていたものが、ドイツ人のシーボルトに払い下げられようとした。
これを聞いた喜八郎は、外国人が買い取ると跡形もなく取り崩されかねないと見たので、高利の借金をして3万円を用意し、先手を打って買い取ってしまった。
明治維新までは神社にもたくさんの仏像や仏画が安置されていたが、朝廷から「神仏分離」の命令が出たため、神社にあった仏像やお寺にあった御神体が、それぞれ取り壊されることになって、これが古物の市場にたくさん溢れた。
名匠の手になる古い仁王像を買い取った外国人が、運ぶのが大変だとわかってストーブの焚まきにしたという話まであった。
喜八郎は「この貴重な美術品を粗末に扱っては罰が当たる。これを保存してこそ初めて神仏の冥加みょうがにかなう」と考えて、仏像彫刻を熱心に集め始めた。
明治31年(1899年)に中国(清国)で「義和団の乱」が起こった。
この時の混乱で中国の多くの美術品が、外国人の手で略奪されたり、安く買われる事態が起こった。
あるロシア商人が、美術品を満載した船をもって長崎に寄港し、「日本で買い手がなければアメリカへ持って行く」という話があった。
それを聞いた喜八郎は、その船の美術品を一品も残さず全部買い取ることにした。
これがきっかけで、喜八郎は「支那のために、東洋のために」と考えて中国や朝鮮、インド、チベット、はてはビルマ、タイなどの方面からも、仏像を中心に蒐集し始めたのである。
また、大倉喜八郎は、極めて早い時期に蒐集品の公開に踏み切っている。
明治32年(1899年)には、赤坂葵町の本邸に隣接して、当時の新聞によれば「宏壮美麗なる西洋風の二階家」の「大倉美術館」を新築し、「珍蔵するところの古今の美術品を陳列して、来賓に縦覧せしむる」ことにした。
集めた美術品を秘蔵せずに、大勢の人々に楽しんでもらおうとした喜八郎は、男爵の位を拝受したのを機会に、さらに一歩進めて美術品全部を公共に寄付することを決意し、大正6年(1917年)8月、「財団法人大倉集古館」を設立した。
そのおりの美術館は3700点余、書物1万5600冊、その評価額はおよそ600万円といわれ、これに敷地4825坪、陳列館1050坪、維持基金50万円が加えられ、その一切が財団に寄付されたのである。
「大倉集古館」は大正7年(1918年)5月1日に開館した。
午後2時から行われた開館披露に招待された『時事新報』によれば、中国、朝鮮、シャム、チベットの、古いところから近世に至るまでの仏像がすこぶる豊富で、桃山、江戸の諸道具なども逸品に富み、とくに雪舟の書や宗達そうたつの六曲屏風に招待者の人気が集中した。
一般公開は5月4日からで、入場料は10銭。
「なぜ金を取るのか」との記者の質問に、同館の古谷主事は「観覧人を限定する必要からです。入場料のあがりは慈善事業に提供します。また、当館は将来講演会や特別陳列をして、美術界に寄与したいと思っています」と答えている。
しかし、その開館からわずか5年後、「関東大震災」に見舞われる。
1号館から3号館までの収蔵品はことごとく焼失し、50余年にわたって集めた多くの貴重な宝物が灰燼に帰した。
建物は木造と煉瓦造りだった。
何があっても愚痴をこぼさない喜八郎も、この時ばかりはすっかり気を落としてしまった。
幸い土蔵にあったものは焼失を免れた。
書画200点、能衣裳、小道具200余、古器物100余点、唐本1万冊、浄瑠璃丸本450余、その他である。
喜八郎は、更に蒐集を続ける一方で、25万円の復興資金を財団に寄付し、耐震耐火の建物を新築することにした。
設計は、東洋および日本建築史の権威、東大教授の伊東忠太に依頼した。
これが東洋風デザインの、現「大倉集古館」の建物である。
喜八郎の生前、昭和2年(1927年)に再建が成ったが、公開が復活したのは、彼の死後の昭和3年(1928年)10月だった。
(参考:砂川幸雄 著 『大倉喜八郎の豪快なる生涯』 草思社 2012年第1刷発行)
(令和2年1月17日 追記)
【投機せず、銀行持たずの用心深さ】
「三井」も「三菱」も「住友」も「安田」も銀行を持ち、大衆から預かったお金を傘下の企業に投入し、グループを拡大させた。
しかし喜八郎は「事業家の大倉が借金をして仕事をしながら、その一方で金貸しをすることができるか。貧乏人と金持ちの使い分けが一人でできるはずがない。俺は銀行などまっぴらだ」と言って、自らの銀行は作らなかった。
高橋是清もこのことを大倉の「非常な見識」と称えている。
そもそも喜八郎は、銀行から金を借りることにさえ慎重だった。
「大倉商業学校」の卒業式(大正2年)では生徒にこう話している。
「若い人がロックフェラーに、どういう心掛けで世の中に立ったらよろしゅうございますかと問うたら、若い人の頭をなでて彼は、大人になっても借金はするなよ。借金をすると頭が狂ってくる。頭が狂えばよい分別ができない、と戒められた。これはまことに金言であります。諸君においても忘れないように願います」
韓国のソウルに作った「善隣商業学校」では、次のような訓話をしている。
「他人の金をあてにしてそれで事業をやっていくのでは駄目です。自分で働いて儲けて、一寸儲ければ一寸だけ、一尺儲ければ一尺だけ、次第次第に大きくなるのが良いのです。よく覚えていてくださいよ。覚えていなければ何にもなりませんよ」
また、喜八郎は株の売買や相場などには一度も手を出さなかった。
多くの会社の株を持った(投資した)が、値上がりで利益を得ること(投機)はしなかった。
だから関係会社が増資によって資本規模を大きくするにつれて、持ち株比率は減り、「東京電力」などの優れた会社が次々と喜八郎の手から離れていった。
しかし、あくまでも「自分は虚業家ではなく、実業家でありたいから」ということで、喜八郎はこの方針を生涯貫いたのである。
(参考:砂川幸雄 著 『大倉喜八郎の豪快なる生涯』 草思社 2012年第1刷発行)
(令和2年1月17日 追記)
【大安寺建立】
大倉喜八郎と安田善次郎との出会いの場である日本橋の近くに小伝馬町がある。
江戸時代、牢屋敷があったことで有名な場所だ。
安政の大獄の際、吉田松陰の処刑もここで行われた。
明治の世になって牢屋敷が廃止された後も、“たたりがある”として市民が近寄らなかったため、この地は荒廃したままだった。
このままにしておいてはいけないということで安田善次郎たちが立ち上がった。
霊を慰めるための寺を建てようということになり、安田善次郎と大倉喜八郎が資金を提供。
明治15年(1882年)、二人の姓から一字ずつとった大安寺が建立される。
現在、中央区日本橋小伝馬町3丁目に大安楽寺と名を変えて残っている。
(参考:北康利 著 『銀行王 安田善次郎〜陰徳を積む〜』 新潮文庫 平成2年6月発行)
(令和元年5月10日 追記)
【大成建設】
大倉喜八郎は大倉組を率いて公共事業に腕をふるっていたが、明治20年、我が国最初の法人建設業である日本土木会社を藤田伝三郎や渋沢栄一とともに設立した。
その後、大倉土木組に統合された。
現在の大成建設である。
そして大成建設が芙蓉グループの中核会社の一つになったのは、実に大倉喜八郎と安田善次郎の深い関係が背景にあったのである。
(参考:北康利 著 『銀行王 安田善次郎〜陰徳を積む〜』 新潮文庫 平成2年6月発行)
(令和元年5月10日 追記)
【東京経済大学創立者】
明治33年(1900年)、大倉商業学校(のちの東京経済大学)の設立趣旨。
「条約改正が実現し、内地雑居が近く行われる。しかしわが国の商業者の知識は昔と変わらない。このままで進むと、対等条約と内地雑居の実施の結果、わが国の商業界は外国人に独占されることになろう。自分が外国に支店を設けて有為の青年を派遣してきたのは、外国人に対抗するためである。そこで、自分の還暦と結婚満25年を記念して、商業学校を設けて多数の商業者を育成し、世のために尽くしたい」
最晩年の昭和3年(1928年)に大倉高等商業学校(当時)で行なった最後の訓話。
「“責任”を重んじ、約束を違えないことから“信用”は生まれる」
(参考:『歴史街道 2011年10月号』)
(平成25年10月2日 追記)
東京経済大学発祥の地 (東京都港区虎ノ門2丁目・新日鉱ビル) (平成18年2月25日) |
東京経済大学発祥の地
1900年 この地に大倉商業学校開校
1920年 大倉高等商業学校となる
1945年 戦災により校舎焼失
1946年 国分寺市(当時国分寺町)へ移転
1949年 東京経済大学となる
1990年10月 東京経済大学
(碑文より)
大倉喜八郎墓所 (東京都文京区・護国寺) (平成18年12月23日) |
大倉喜八郎墓(左) (東京都文京区・護国寺) 右は夫人のお墓です。 (平成18年12月23日) |
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大倉喜八郎 大倉財閥 武器商人 ホテルオークラ 東京経済大学
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