平成20年11月18日
享禄3年1月3日(5月4日の説あり)(1530年1月31日)〜天正15年5月6日(5月23日の説あり)(1587年6月11日)
大分県大分市・JR大分駅前でお会いしました。
大友義鑑よしあきの長子。
天文19年(1550年)、宗麟廃嫡を企てた父・義鑑が重臣に殺害された『大友二楷崩にかいくずれの変』後、家督を継ぐ。
周防大内家家督を継いだ弟の義長が弘治3年(1557年)に毛利氏に討たれると、同氏に内応した豊前・筑前両国の領主らを制した。
永禄2年(1559年)豊前・筑前・筑後各国守護職を得、豊後・肥後・肥前と合わせて6ヶ国を守護。
将軍足利義輝から九州探題に任じられる。
元亀元年(1570年)毛利氏と和睦。
毛利軍の豊筑撤兵で大友氏は全盛期に入った。
天正4年(1576年)には家督を長子の義統よしむねに譲るが、実権は保持する。
翌年、洗礼を受け、ドン・フランシスコと名乗る。
同年の耳川合戦で島津氏に大敗し、以後、離反者が相次ぎ、急速に衰勢に向かった。
天正14年(1586年)の島津氏の侵攻で分国は崩壊、本拠地の豊後府内まで攻め込まれたが、翌年の天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州進攻に救われ、子・義統に豊後一国が安堵された。
同年病死。
大友宗麟公像 (大分県大分市・JR大分駅前) 日本芸術院会員 富永直樹 銘版揮毫 佐藤益美 (平成20年11月18日) |
碑文
16世紀半ば過ぎ世界地図のさいはて 日本列島の一つ九州が「ブンゴ」と記されていた頃 古代豊ノ国の名に恥じず「国も豊なれ 人も豊なれ」と念じて生きた男 その名を大友宗麟(義鎮)と号す
大友氏はその祖を源頼朝より出づると言われ約4百年に亘り 九州一円に覇を唱え 就中 宗麟公の時代にはその威九州6ヶ国に及び中国 四国をも風靡した
時恰も泰西文明の東漸にあたり ポルトガル イスパニアの商船我国に来るものあり
宗麟公 諸侯に先がけ神宮寺浦を開港し 盛んに通商を営みその文化輸入に努む
学校 病院 育児院をはじめ西洋劇 音楽 乳牛等あらゆる文物を摂取し 暗黒時代の日本に燦然たる西洋文明を移植し豊後府内の地を以って文化の中心 海外貿易の関門たらしめた
当時国崩しと呼ばれた大砲や鉄砲は宗麟公の輸入を以って始となす
而も宗麟公の雄図は海外に侍臣を派し亦 12歳の伊東ドン・マンショらをローマに派遣し日本人として初めて西洋の地を踏ましめその実態を見聞させし偉業は天正遣欧使節4百周年を迎える今日 炳として青史に輝きその流れは永く我が文化に貢献し「風光り水澄む郷」大分に今甦り 英傑大友宗麟公の雄姿を新産都の表玄関大分駅頭に建立し誇りある象徴となす
「緑あふれる豊かな人間都市大分」 そこに人材雲の如く此の地に起こり 青雲の志を持つもの一世を覆うの気概に燃え 世界をリードする者出づるを願い日本芸術院会員富永直樹先生に托し 宗麟公の像を茲に除幕する
昭和57年11月3日
大分市長 佐藤益美
平成20年11月18日
大分県大分市・神宮寺浦公園でお会いしました。
大友宗麟像 (大分市勢家町4丁目・神宮寺浦公園) (平成20年11月18日) |
碑文(1)
曩にこゝに建設されていた大友宗麟の像は第二次世界大戦の際金属回収の厄に遭って空しくその台座を留むる有様となっていたがその後更に中心市街と共にこの附近も戦火を蒙ったため惨胆たる廃墟となってしまった
私は終戦後初めて市長に公選されて以来この像の再建を念願したが思うに委せず荏苒今日に至ってしまったところが偶々その原型が作者日名子氏の御遺族の許に保存されている事を知り特にお願いして之を譲受け大方の御賛助を得てこの制作を県出身の彫塑家長谷秀雄氏に依嘱して茲に待望久しかった旧台座の上に昔日の英姿を再現する事が出来た次第である
昭和33年4月
大分市長 上田 保
碑文(2)
宗麟大友義鎮ハ豊後国守大友家第二十一世ノ英主ニシテ遠祖能直ハ源頼朝ニ出ズ
天文十九年封ヲ嗣グヤ戦国禍乱ノ世ニ処シテ四方ノ群雄ヲ循ヘ豊筑日肥伊豫ノ八州ニ百七十四城ヲ服シ鎮西ニ覇ヲ称ス時恰モ泰西文明ノ東漸ニ当リ葡萄牙西班牙ノ商舶連リニ我辺海ニ来ルモノアリ
宗麟諸侯ニ率先シテ之ヲ城下神宮寺浦即チ本銅像ノ脚下春日浦ニ導キ盛ニ通商ヲ営ミソノ文化輸入ニ努ム
学校 病院 育児院ヲ始メ科学教育宗教等百般ノ文化ヲ摂取シテ暗黒乱世ノ日本ニ燦然タル西欧文明ヲ移植シ豊後ノ地ヲ以テ文化ノ中心海外貿易ノ関門タラシメタリ
国崩シノ名ニ呼バルル大砲及鉄砲ハ実ニ宗麟ノ輸入ヲ以テ嚆矢トナス
而モ雄図ハ之ニ止マラズ■次待臣ヲ海外ニ派シ天正十年ニ至ッテハ鵬程萬里使ヲ遠ク羅馬ニ送リ法王グレゴリオ十三世ニ謁セシメソノ文化ヲ求ムルノ壮挙ヲ敢行セルガ是実ニ日本最初ノ遣欧使節ニシテ又日本ノ世界史上ニ登場セル濫觴タリ
天利アラズ鴻図中断シテ一空ニ帰シタリト雖遺業ハ炳トシテ青史ニ輝キ流風永ク我文化ニ貢献シ来レリ時聖代ニ会シテ人材雲ノ如クコノ地ニ起リ正ニ一世ヲ益フノ概アル又実ニ宗麟ガ遺芳ノ賚タラズンバアラス
大分新聞社長大津征夫乃チ先考淳三ノ遺志ヲ継ギ江湖有志ノ賛助ヲ得テ茲ニソノ銅像ヲ建設シ以テ遺徳ヲ顕彰スルト共ニ永ク郷党発奮ノ源泉タラシメン事ヲ期ス
像ヲ刻スルモノハ県出身ノ彫塑家日名子実三頌ヲ為ルモノハ大分新聞社顧問御手洗辰雄英風ヲ欽シテ千歳ニ伝フト云矢爾
昭和十二年三月二十一日
「神宮寺浦 南蛮貿易場跡」の碑 (大分市勢家町4丁目・神宮寺浦公園) (平成20年11月18日) |
碑文
天文十二年葡萄牙人来リ鉄砲ヲ国主大友氏ニ献ス
爾後西欧諸国ノ商船■至互市■盛ヲ極ム
天文二十年フランシスコザビエル来ル
宗麟引見其布教ヲ許ス
昭和六年四月一日
大分市制施行二十周年記念建之
大分市長 高山英明
大分市会議長 吉松辰雄
神宮寺浦公園 (大分市勢家町4丁目) (平成20年11月18日) |
平成20年11月18日
大分市・府内城でお会いしました。
大友宗麟像 (大分市・府内城) (平成20年11月18日) |
碑文
由緒深き府内城跡に聳ゆる大分文化会館に郷土出身の彫塑家長谷秀雄氏の制作による大友宗麟公の像を贈り大分ライオンズクラブ結成10周年記念事業として永遠に市民の温古に供したい念願である。
宗麟公(1530〜1587)は大友家第21代本名を義鎮、極めてハイカラな武将で壮にして九州の大半を手中にし■■かんたん湾を開港場として諸外国と交易し鉄砲火薬を輸入して戦力を強めた一面切支丹の信者ともなり天主堂教会建立を始め我国ではじめて数々の切支丹文化を花咲かしめた戦国の英傑であった。
いま、東九州文化の中心たるべき大分文化会館に公の像を建つるも所以なくはなしと考へる次第である。
1969.3.9
大分ライオンズクラブ建之
制作 長谷秀雄
【島津の「釣り野伏」戦術に大敗する】
島津は古くから日向ひゅうが・大隅おおすみ・薩摩の3ヵ国の守護であったが、それはこの地を全て支配していたということではない。
島津氏に従わない独立勢力(国人)がいたからだ。
島津義久は日向国(宮崎県)の独立勢力・伊東氏を駆逐し、名実ともに3ヵ国の支配者となった。
一方、命からがら日向を脱出した伊東氏は、豊後の大友宗麟に泣きつき日向回復を嘆願した。
宗麟にとっても悪い話ではない。
伊東氏を助けるという目的で出兵できるし、勝利の暁には日向に勢力を広げられる。
その上、将軍・足利義昭が「宗麟追討」の命令を発したという事情も重なった。
家臣の中には慎重論を唱える者もいたが、宗麟は押し切って日向攻めを決断した。
この時点で宗麟は島津義久を圧倒する兵力(6万対4万などの諸説あるが大友軍の方が多かったという点では一致している)を保持していたから、戦略的判断としては間違いとは言えない。
宗麟は不退転の決意を示すためか、外国人宣教師を呼んで洗礼を受け、正式にキリスト教の信者となった。
しかし、これは実は逆効果で、キリスト教に反感を抱く家臣たちの反発を強め、大友軍の結束を弱めたという見方もある。
一方、事態を予想していた島津義久は鹿児島城を出撃した。
天正6年(1578年)11月、両軍は激突し、大友軍は日向国耳川みみかわ付近で島津軍の巧みな戦略にあって壊滅状態となり敗走。
大友軍の兵の多くは雨で増水した耳川を渡り切れずに溺死し、宗麟もほうほうの体ていで豊後に逃げ帰った。
島津軍の大勝利である。
多くの精鋭(6千名といわれる)を失った宗麟は、これ以後攻勢に出る余裕はなくなり、守りを固めるしかなかった。
この時、義久が用いた戦術が「釣り野伏のぶせ」と呼ばれるもの。
見通しの悪い場所(たとえば山と山の間の狭い道)の両脇の山林などに伏兵(野伏)を配して、囮の部隊が正面から敵に攻撃をかけるのである。
囮部隊は、しばらく戦った後、敗走を装って敵を「釣り」出す。
狭い場所におびき寄せたところで伏兵部隊が退路を遮断すると同時に背後から攻めかかる。
騎馬武者でも槍や鉄砲を持った足軽でも背後からの攻撃には弱い。
慌てて反転し、態勢を整える前に、かなりのダメージを受ける。
しかも反転したところで囮部隊も反転し、またまた「敵の背後」から攻撃するというわけだ。
(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)
(令和元年9月13日 追記)
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