戦車第3師団工兵隊


戦車第3師団工兵隊慰霊碑 戦車第3師団工兵隊  慰霊碑

愛知県幡豆郡の三ヶ根山にある”殉国七士の墓”の駐車場の所にあります。

碑誌

我が戦車第3師団工兵隊(聯隊長栂野俊治大佐 聯隊本部 第一二三四五六中隊並びに整備中隊)は昭和17年12月14日中華民国内蒙古包頭に於いて創設された。
昭和19年3月 大陸打通作戦(京漢作戦湘桂作戦及び南部奥漢打通作戦に参加 中国大陸の中央部を約二千粁縦貫南下し 本作戦の終了後 昭和20年3月反転北上 華北北京周辺に駐屯中終戦に至った。
京漢作戦に於いては 師団(師団長山路秀男中将)主力に協力 機動力を駆使した快進撃激戦に次ぐ激戦の下 架橋 渡河 城壁 及び戦車壕の爆破 地雷の除去 道路の掘開等至難な作業を一致団結完遂し わが軍の勝利に貢献した 特に龍門高地の死斗 洛河河谷の追撃戦 難攻不落を誇る洛陽城攻略戦の突撃作業 霊宝会戦 函谷関の堅陣突破等に機甲工兵の本領を遺憾なく発揮した
湘桂作戦に於いては独立戦車第6旅団(旅団長佐武勝司少将)麾下として聯隊主力は補給難に基づく資材 糧食の■乏 在華米空軍の空襲等に苦しみながら 漢口 長沙を経て 長駆桂林 柳州の飛行基地攻略に参加し引続き南部奥漢打通作戦に従事した。
一方残留部隊は昭和20年3月 老河口飛行基地攻略作戦に従事した
この間我われら将兵一同は あらゆる困難に耐え ともに 喜びと悲しみを分ち合い ともに励ましつつ ともに戦った しかしながら百八十余名の戦友は勇戦奮斗も空しく 中国大陸の市街 山野 河谷に散華していった 戦後三十有余年 われら生存者一同は 相集い 相図り 亡き友の御霊よ永久に安かれと希って 太平洋を眼下に望む景勝の地三ヶ根山を選び ここに留魂慰霊の碑を建立した

昭和53年3月

*■はパソコン上で表示できない文字なので■で表示しました。

*”京漢作戦”は「コ号作戦」と略称されています。


戦車第3師団

編成当時

師団長:西原一策中将
戦車第5旅団(戦車第8連隊・戦車第12連隊)
戦車第6旅団(戦車第13連隊・戦車第17連隊)


「一号作戦」当時

師団司令部(師団長:山路秀男)
戦車第6旅団司令部(旅団長:佐武勝司少将)
戦車第13連隊(連隊長:栗栖英之助中佐)
戦車第17連隊(連隊長:渡辺謙太郎大佐)=千葉県津田沼の戦車第2連隊残留部隊で編成
戦車連隊は軽戦車1個中隊(九五式軽戦車)・中戦車3個中隊(九七式中戦車改)・中戦車1個中隊(九七式中戦車)・整備中隊の正規編成。
戦車73輛、自動車27輛。
捜索隊(隊長:福島甚三郎中佐)
軽戦車2個中隊・中戦車1個中隊・乗車1個中隊・整備隊
機動歩兵第3連隊(連隊長:吉松喜三大佐)=千葉県習志野の騎兵第14連隊を改編
歩兵3個大隊(1個大隊=3個中隊・1個機関銃中隊)・連隊砲1個中隊(四一式7.5センチ山砲)・整備中隊
人員約1,900名、戦車22輛、自動車(トラック)280輛
機動砲兵第3連隊
機動野砲大隊(九〇式7.5センチ野砲12門)・機動榴弾砲大隊(九一式10センチ榴弾砲12門)・整備隊
機動工兵連隊
速射砲隊(一式47ミリ対戦車砲)
防空隊
整備隊
野戦病院
患者輸送隊

戦車第3師団は昭和17年12月に編成を開始しましたが、完結したのは昭和18年の秋でした。
「コ号作戦」では「焼くな・殺すな・犯すな」の規律が徹底され、更には洛陽などの古跡や名刹の保全にも特別の配慮をした戦い方をしました。


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