野砲兵第20連隊

(通称号:満洲818部隊)

編成地 編成時期  
熊本
のち宇都宮に移転
明治38年 昭和19年2月
師団改編によりチチハルで連隊を廃止

日露戦争末期に熊本で編成に着手し、小倉で編成を完結して参加。
戦後、姫路に帰還し、のちに宇都宮兵舎に移転する。
大正8年、シベリアに出兵。
昭和2年、満洲に駐剳。
昭和7年、上海事変に出動。
支那事変で動員下令、石家荘作戦、徐州会戦に参加。
昭和14年、ノモンハン事件に備え満洲へ移動予定だったが、事件終結のため復員する。
昭和15年、満洲に派遣。
関東軍直轄部隊としてチチハルに駐屯する。
昭和19年、南方転進が下令され、隷属する第14師団は島嶼作戦用に海洋師団に改編される。
このため連隊内の各砲兵大隊を歩兵連隊に配属することとなり、連隊は廃止された。
師団の各砲兵隊(旧・野砲兵第20連隊各大隊)は、師団とともにパラオ諸島に派遣された。





慰霊
宇都宮第14師団・照集団
野砲兵第20連隊之碑
遺家族・戦友一同
栃木県護国神社



(平成22年10月14日)

【碑文】

野砲兵第二十連隊は明治三十八年満洲で創立凱旋後第十四師団砲兵として宇都宮に駐屯し茨城・栃木・群馬・長野四県より選ばれた壮丁で構成。
昭和十五年三十余年練武の地宇都宮からチチハルに移駐し関東軍の中核としてソ連軍の侵攻に備えた。
昭和十九年二月師団に動員下令。
島嶼作戦に適応した編成装備に改変し、水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊に砲兵各一ケ大隊を配属、高崎第十五連隊には個々に転属、編成外人員は全員他部隊に転出、馬匹はチチハルに残置し連隊は栄光に満ちた四十年の歴史を閉じた。
三月大連出航、制空制海権共になき海域を奇跡的に無事パラオ到着。
本島に照集団司令部・歩十五連隊主力等を置き歩二連隊をペリリュー島、歩五十九連隊をアンガウル島に配備、硬いさんご礁に苦しみながら陣地構築に励んだ。
七月二十日歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
九月六日機動部隊来襲ペ・ア両島を猛爆艦砲射撃も加え連日続行された。
米戦史によれば上陸前三日間に十七万トンの砲爆弾を使用し島形変じ地上物件すべて飛散した。
九月十五日中川州男守備隊長以下一万の守備するペ島に上陸開始、大隊長小林与平中佐・常持良二大尉・天童隆大尉・大橋栄一大尉率いる各中隊の砲兵は第一波の海兵隊を猛射千名に壊滅的打撃を与え緒戦は勝利したが装備物量の差に加え四倍の敵に対し複郭陣地に依り抗戦、九月二十三日歩十五連隊は砲兵より転属した新井道彦大尉以下五九名を含む飯田大隊の逆上陸救援作戦も効果なく軍旗を奉焼して十一月二十四日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕した。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
ア島には九月十七日来襲、後藤丑男守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し配属砲兵中隊長芝崎省三郎大尉以下一九七名高射機関砲隊柏原中尉以下三〇名も一致団結よく敢闘したが十月十九日玉砕せるものと推察される。
本島の近藤大隊・丸山・谷口両中隊では飢餓との戦いにより三三名・砲兵団神山大隊・小宮山中隊他二ケ中隊で六二名の犠牲を生じた。
遠い南海の孤島で家族の安泰と祖国日本の弥栄を念じつゝ激闘の末若い尊い命を捧げた亡き戦友達の霊を慰め其の業績を永く後世に伝えるべく遺家族・戦友の有志相集い深い感謝を込めここに慰霊碑を建立し御霊の安穏を祈念し奉る。

                                   平成十九年十月 建之


砲兵隊慰霊碑




砲兵隊慰霊碑
(パラオ共和国・ペリリュー島)




(平成22年9月12日)

追悼

此処ペリリューの地に砲兵小林与平中佐以下六百六十有余名並びに飯田大隊所属砲兵永遠に眠る
野砲20連隊明治38年創立
宇都宮の地より満洲818部隊としてチチハルに駐屯
昭和19年2月動員編成により第14師団各歩兵連隊砲兵隊として分割配属となる
同年4月24日パラオ島到着
歩兵2連隊砲兵大隊としてペリリュー島守備の任に就く
9月6日米軍来襲
15日上陸
守備隊は連日激斗を展開
11月25日全員玉砕す
戦後48年我等老境に入るも憶は深く未だ亡き戦友の面影は消えず
この度ベラウ共和国ペリリュー島の皆様の理解と協力を得砲兵隊生還者並びに関係者有志相寄り供養の碑を建立
亡き戦友の霊に捧ぐ

平成4年11月
照集団パラオ砲兵隊慰霊碑建立会

(碑文より)




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