平成20年10月29日
文久3年2月23日(1863年4月10日)〜昭和5年(1930年)3月2日
長野県上田市・上田城でお会いしました。
東大卒。
病理学教室助手となり、ドイツに留学してベルリン大学のフィルヒョー教授に師事した。
明治28年(1895年)病理学教授に就任。
特に癌研究では日本の第一人者だった。
大正4年(1915年)、兎の耳にタールを持続的に塗布し、人工ガンを発生させた実験結果を発表し世界を驚かせた。
この業績で帝国学士院賞を受賞する。
大正12年(1923年)定年退職。
昭和5年(1930年)肺炎で逝去した。
山極勝三郎像 (長野県上田市・上田城) 癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩 曲川 (平成20年10月29日) |
癌発生学の先覚 山極勝三郎先生
御誕生百年式典に際し晩年の御尊像を御生地こゝ上田市に遺し不世出の醫学者を生んだ郷土の誇りとしたい。
本像の作者は藝術院會員 清水多嘉示氏である。
昭和43年7月18日
建設委員會長
長野縣醫師会會長 寺島清七
(碑文より)
山極勝三郎博士(1863〜1930)は、大正4年(1915)に世界で初めて人工ガンを発生させることに成功し、ガン研究に大きく貢献しました。
昭和4年、この研究に対してドイツから癌研究の最高賞ノルドホフ・ユング賞を贈られています。
この石碑は博士の功績を称えて昭和15年に建てられました。
胸像は昭和43年に造られ、台座には博士の句
「癌出来つ意気昂然と二歩三歩」
が刻まれています。
曲川は博士の俳号です。
なお本像は芸術院会員清水多嘉示作です。
(説明板より)
山極先生之碑 (長野県上田市・上田城) (平成20年10月29日) |
碑文
正三位勲一等醫學博士山極勝三郎先生碑
額 枢密顧問官従二位勲一等醫學博士 荒木寅三郎書
先生諱ハ勝三郎本姓ハ山本曲川ト號ス
文久三年二月二十三日信州上田ニ生ル
考諱ハ政策世々上田藩士タリ
母ハ林氏
先生幼ニシテ穎悟
東京ノ醫山極吉哉其ノ才ヲ愛シ養ウテ嗣トナス
明治二十一年醫科大學ヲ卒業シ病理學教室ニ入リ助手ヨり助教授ニ進ミ官命ヲ以テ獨逸ニ留學シ二十八年教授ニ任ジ醫學博士ヲ授ケラル
大正八年帝國學士員會員ニ推サレ十二年致仕シ東京帝國大學名譽トナル
職ニ在ルコト前後三十有六年ナリ
先生天資明敏博學達識勵精倦マズ我ガ國ノ醫學界ニ貢獻スル所極メテ多シ
就中家兎ノ耳翼ニ石炭■兒ヲ塗擦シテ癌腫ヲ發生セシメ以テ自ラ堅持セル刺戟ヲ立證シタル如キハ實ニ前人未■ノ偉業ニシテ内外醫者ノ賞歎シテ措カサル所ナリ
帝國學士員ハ賞ヲ授ケ獨逸國亦遥ニ最高ノ榮賞ヲ贈リ來ツテ其ノ學勲ヲ讃フ
而モ中道ニ■ニ犯サレシカ百折不撓遂ニ能ク其ノ研究ヲ完成セリ
嗚呼盛ンナル哉
昭和五年三月二日病ンテ歿ス
享年六十八
東京谷中ニ葬ル
配包子貞淑ニシテ才助ノ功多シ
四男三女アリ
長子夭シ次子継グ
本枝共ニ榮エ蓋シ先生精善ノ餘慶ニ由ル
頃者郷黨建碑ノ擧アリ
余ニ文ヲ嘱セラル
余先生ニ師事スルコト多年乏シキテ後任ニ承ク諠辞スヘカラス
乃チ先生ノ事歴ヲ略敍シ以テ景仰ノ誠ヲ表ス
昭和十五年六月
正三位勲一等醫學博士長與又郎撰
従七位勲八等堀内重義書
文久 3年 (1863) |
0歳 | 父・上田藩士山本順兵衛政策、母・とも の三男として生まれる。 |
薩英戦争 |
明治 6年 (1873) |
10歳 | 9月、上田第一番小学校(松平学校)に入学。 | 学制発布 |
明治10年 (1877) |
14歳 | 12月、上田第一番小学校卒業。 | 西南戦争 |
明治11年 (1878) |
15歳 | 1月、上田変則中学校(上田高校の前身)に入学。 漢学・数学・英学・理学を修業する。 |
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明治12年 (1879) |
16歳 | 1月、恩師の勧めで山極吉哉の養子となり入籍。 3月、中学卒業後上京。 私立ドイツ語学校に入学し、ドイツ語を修業。 12月、東京外国語学校に転じる。 |
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明治13年 (1880) |
17歳 | 11月、東京外国語学校卒業。 12月、東京大学医学部予科4級甲に入学。 |
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明治15年 (1882) |
19歳 | コッホ、結核菌を発見 | |
明治16年 (1883) |
20歳 | 6月、父逝去(55歳) 12月、東京大学医学部予科1級卒業。 |
コッホ、コレラ菌を発見 |
明治17年 (1884) |
21歳 | 1月、山極家長女包子と結婚。 12月、東京大学医学部本科に入学。 |
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明治19年 (1886) |
23歳 | 12月より特待学生となる。 | 帝国大学令公布 |
明治20年 (1887) |
24歳 | 最初の研究業績『唾液の作用』を発表。 | |
明治21年 (1888) |
25歳 | 11月、東京帝国大学医学部卒業。 病理学教室助手として勤務。 |
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明治22年 (1889) |
26歳 | 9月、東京医学会総会において研究報告。 | 北里柴三郎、 破傷風菌純粋培養に成功 |
明治23年 (1890) |
27歳 | 7月、肺ジストマ病の研究のため岡山県へ出張。 | コッホ、 ツベルクリンを創製 北里柴三郎、 血清療法を発見 |
明治24年 (1891) |
28歳 | 3月、医科大学助教授に就任。 4月、ドイツに留学。 コッホのもとでツベルクリンの研究をする。 |
北里柴三郎、 伝染病研究所を設立 |
明治25年 (1892) |
29歳 | 4月、ベルリン大学のウィルヒョウ博士のもとで、 病理学病理解剖学を学ぶ。 |
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明治27年 (1894) |
31歳 | ローマで開かれた第11回国際医学会に、 日本代表で出席。 5月、ドイツより帰国。 |
日清戦争 北里柴三郎、 ペスト菌を発見 |
明治28年 (1895) |
32歳 | 9月、医科大学教授に就任。 病理学病理解剖学第二講座を担当。 10月、『病理総論講義』刊行開始。 11月、医学博士の学位を受ける。 |
下関講和条約 |
明治29年 (1896) |
33歳 | 台湾総督・乃木希典の懇願により、 台湾にペスト研究のため出張。 |
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明治30年 (1897) |
34歳 | 志賀潔、赤痢菌を発見 | |
明治31年 (1898) |
35歳 | 1月、海軍大学校教授を嘱託される。 9月、『脚気病論』を刊行。 |
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明治32年 (1899) |
36歳 | 2月、肺尖カタル(肺結核)を発病。 5月、『ペスト病論』を刊行。 |
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明治34年 (1901) |
38歳 | 2月、『病的材料観察法』刊行。 | |
明治35年 (1902) |
39歳 | 1月、『病的材料観察法実習』刊行。 | ウィルヒョウ死去 |
明治37年 (1904) |
41歳 | 日露戦争 | |
明治38年 (1905) |
42歳 | 5月、『胃癌発生論』刊行。 | ポーツマス講和条約 |
明治39年 (1906) |
43歳 | 1月、海軍軍医学校病理解剖学教授を嘱託される。 4月、実母死去(72歳) |
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明治40年 (1907) |
44歳 | 渋沢栄一らの援助で癌研究会を設立。 | コッホ来日 |
明治42年 (1909) |
46歳 | 11月、義父死去。 | |
明治43年 (1910) |
47歳 | 4月、病理学病理解剖第一講座担任となる。 4月、京都で喀血して入院。 |
韓国併合 |
明治44年 (1911) |
48歳 | 第1回日本病理学会開催。 会長に就任する。 |
野口英世、 梅毒スピロヘータ純粋培養 成功と発表 |
大正元年 (1912) |
49歳 | 『脚気の研究について』を発表。 | |
大正 2年 (1913) |
50歳 | 市川厚一と人工癌の発生予備実験を開始。 | |
大正 3年 (1914) |
51歳 | 人工癌の本実験を開始。 | 第一次世界大戦 国産顕微鏡エム・カテラ誕生 |
大正 4年 (1915) |
52歳 | 5月、兎耳人工癌の発生を確認。 12月、東京医学会で人工癌の発生を報告。 |
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大正 5年 (1916) |
53歳 | 『上皮性腫瘍の発生に関する実験的研究第一報告』 を発表。 |
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大正 6年 (1917) |
54歳 | 米国のウェルチ、フレキシナー両博士来訪。 野口英世博士来訪。 |
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大正 7年 (1918) |
55歳 | 8月、米国癌研究会の名誉会員に推薦される。 帝国学士院にて人工癌の研究について一括報告。 |
野口英世、 黄熱病原体を発見 |
大正 8年 (1919) |
56歳 | 4月、帝国学士院となる。 5月、市川厚一と共に帝国学士院賞を授与される。 |
パリ講和会議 |
大正10年 (1921) |
58歳 | 12月、ノーベル生理学・医学賞候補に推薦 されることが報じられる。 |
ワシントン軍縮会議 |
大正12年 (1923) |
60歳 | 9月、東京帝国大学を定年退官。 海軍軍医学校において勅任官待遇となる。 |
関東大震災 |
大正13年 (1924) |
61歳 | 3月、東京大国大学名誉教授となる。 | |
大正15年 (1926) |
63歳 | 11月、ドイツのハレ学士院から会員に推戴される。 12月、ノーベル生理学・医学賞の受賞を逃す。 |
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昭和 3年 (1928) |
65歳 | ドイツから癌研究の最高賞ソフィ・ノルドホフ・ユング 賞を贈られる。 |
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昭和 4年 (1929) |
66歳 | 3月、ドイツ大使館においてノルドホフ・ユング賞 の伝達式。 |
フレミング、 ペニシリンを発見 |
昭和 5年 (1930) |
67歳 | 急性肺炎のため死去(67歳)。 遺言により遺体は病理解剖に付される。 |
ロンドン軍縮条約 |
(参考:上田市立博物館発行『山極勝三郎の生涯と業績』より抜粋)
【台湾のペスト】
ペスト(黒死病)は、日本領台後の明治29年5月、中国のアモイから台湾の安平港に入港した船舶から最初に検出され、すぐに台湾で大流行した。
ちょうどその折り、後に台湾総督府医学校の三代目校長となる堀内次雄が台湾を訪れたため、すぐにペスト検出の仕事に従事することとなった。
当時、台湾に派遣された医師の中で、顕微鏡操作ができ、細菌学を勉強した唯一の貴重な人材として堀内は周囲の期待を背負っていた。
しかし、堀内を中心に検疫に力を入れようとした医師団を阻んだのは、ほかでもない台湾人だった。
当時の台湾人は、検疫に対して強い抵抗感を持っていた。
医官が石灰や薬水で消毒することは、冷水で人を害することであり、死亡者を火葬する事は葬る地のない屍を燃やすことと同じ。
医官が屍体を解剖するなどということは、屍を毀傷きしょうすることである。
このように信じていた住民は、堀内らの疫病退治に抵抗した。
明治29年末、台湾総督府の要請を受け、東京帝大の病理学者・緒方正規教授や山極勝三郎助教授らが、台湾のペストを調査するため台湾へやってきた。
そして緒方は、堀内次雄とともに、ペスト感染過程の研究に没頭することになる。
彼らの努力によってペストが下火になり、ようやく撲滅されたのは大正6年頃である。
(参考:黄文雄著 『台湾は日本人がつくった』 徳間書店 2001年)
(平成23年6月25日追記)
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