長野県上田市二の丸・上田城跡公園
平成20年10月29日
上田城
上田城は、真田幸村(信繁)の父、真田昌幸によって天正11年(1583)に築城が始まりました。
その後まもなく、上田城は天下にその名を知られるようになります。
それは、真田氏がこの城に立てこもり、2度にわたって徳川の大軍の攻撃を受け、みごとこれを撃退したからにほかなりません。
最初の合戦は天正13年(1585)に行われました。
攻め寄せた徳川軍は7千人余り、これを迎え撃つ真田軍は2千人弱。
しかし、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗を喫し、1千3百人余りの死者を出しました。
これに対して真田方の死者は40人ほどであったと伝えられています。
慶長5年(1600)、上田城は再び徳川軍の攻撃を受けます。
豊臣方についた真田昌幸・幸村父子は、関が原に向かう徳川秀忠率いる3万8千の大軍を、わずか2千5百の城兵で迎え撃ちます。
この時も、徳川軍は上田城攻略に手間取り、数日間釘づけにされます。
そのあげく、関が原の決戦に遅れるという大失態を演じてしまいます。
上田城は、石垣も少なく、一見したところそれほど要害堅固な城には見えません。
しかし、実際には、周囲の河川や城下町を含めた全体が、きわめて優れた構造となっていたことが、現在の学術的研究によって明らかになってきました。
全国に数多い近世城郭の中で、2度も実戦を経験し、しかもこのような輝かしい戦果をあげた城は、ほかに見ることができません。
上田城は関ヶ原の戦いの後、徳川軍の手で取り壊されましたが、寛永3年(1626)、上田に入った仙石氏により、真田氏時代の姿に近い形で復興され、その後松平氏の時代になってもほとんど変化はありませんでした。
廃藩置県後の明治7年(1874)、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城になります。
この際、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎氏は、明治12年(1879)、松平神社(現真田神社)創建にあたり、本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで、明治26年(1893)には、残りの土地を遊園地用として寄付しました。
これが現在の上田城跡公園の始まりです。
三の丸一帯は、藩主屋敷のあった上田高校付近を除いて、市街地となっていますが、本丸・二の丸には土塁・堀跡などが残り、本丸の三基の隅櫓は当時の姿を留めています。
(説明板:「歴史いきづくロマンのまち信州上田」より)
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南櫓 | 北櫓 |
長野県宝 上田城三櫓(南櫓・北櫓・西櫓)
種別 建造物
所在地 上田市二の丸
指定年月日 昭和34年11月9日
上田城は、真田昌幸によって天正11年(1583)から築城が開始された平城である。
城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵あまがふちに面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防御陣地としている。
この上田城の特性は、天正13年(1585)と慶長5年(1600)の2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。
しかし、真田氏の上田城は、関ヶ原の合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓すみやぐらや石垣は、寛永3〜5年(1626〜28)にかけて、仙石忠政によって新たに築き直されたものである。
仙石氏による上田城再築は、忠政の病死により中絶し、堀や石垣などの普請ふしん(土木工事)は完成したものの、櫓や城門を建てる作事さくじ(建築工事)は本丸のみの未完成に終わった。
本丸には、天守は建てられず、7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられたことが、絵図などの記録と発掘調査によって確認されている。
上田城は仙石氏の後、松平氏によって受け継がれ明治維新を迎えた。
現存する3棟の隅櫓のうち、本丸西虎口こぐち(城郭の出入口)に建つ1棟(西櫓)は、寛永期の建造当初からのものであるが、本丸東虎口の2棟(南櫓・北櫓)は、明治初期に民間へ払い下げられ、市内に移築されていたものを市民の寄付により買い戻し、昭和18〜24年にかけて現在の場所に復元したものである。
これら三棟の櫓は、江戸時代初期の貴重な城郭建造物として、昭和34年に長野県宝に指定された。
三櫓の構造形式はいずれも共通で、二層二階、桁行けたゆき五間、梁間はりま四間の妻入り形式である。
屋根は入母屋いりもや造りで、本瓦を葺き、外廻りは白漆喰塗籠大壁しろしっくいぬりごめおおかべで、腰下見板こししたみいた張り、内部は白漆喰塗りの真壁しんかべとなっている。
窓は白漆喰塗りの格子こうし窓で、突き上げ板戸が付いている。
なお、本丸東虎口櫓門と袖塀は、明治10年頃に撮影された古写真と、石垣の痕跡、発掘調査の結果などをもとに、平成6年に復元したものである。
櫓門と同時に整備された本丸東虎口の土橋どばしには、両側に武者立石段むしゃたていしだんと呼ばれる石積が設けられ、本丸大手口としての格式を示している。
平成11年3月 上田市教育委員会
(説明板より)
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真田石 (北櫓) (平成20年10月29日) |
真田石
真田昌幸(幸村の父)が上田城築城の際、太郎山から掘り出したこの大石を「真田石」と名付けた。
その子信之は松代へ移封のときこの石を家宝として持っていこうとしたが微動だにしなかったと、伝えられる。
以来、文字通り上田城にそなわった礎石である。
(説明板より)
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櫓門 (平成20年10月29日) |
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明治5年奉還当時の上田城正門 (中央は多聞櫓 左は辰巳櫓撤去後の石垣) (展示パネルより) |
本丸大手口(東虎口)の櫓門と隅櫓
明治7年(1874)に払い下げとなり、取り壊しが進んでいた頃の貴重な写真。
現在の櫓門は、この写真をもとにして、平成6年に再建(復元)された。
(古写真説明文より)
(展示パネルより)
妓楼ぎろうとなった城櫓
明治維新後、払い下げられた櫓は解体され、消えていったが、2棟だけは明治11年、上田市街の北郊太郎山麓に設置された上田遊郭ゆうかくに移建され、金秋きんしゅう楼と万豊まんぽう楼という娼妓屋として使われた。
現在の上田城南櫓と北櫓は、これを再移築したものである。
(古写真説明文より)
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上田城模型 (平成20年10月29日) |
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左:上田藩主松平家纏 上端の出し(飾り物)は3方面を向く五三桐の定紋。 馬簾は猩々緋。 右:上田藩主松平家小馬印 僧侶・修験者の持つ杖である錫杖をかたどるとともに、馬の毛の束を飾りとしてつけている。 (説明文より) |
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上田公園史
明治7年、政府は全国の城の民間払い下げを布告しました。
上田城は現存した三櫓のうち西櫓一棟を残したのみで、櫓二棟と1750本の立ち木も個々に払い下げられました。
将来、本丸が変貌するのを恐れた丸山平八郎氏は、老杉数本を残しただけの本丸付近を一括して買い取り、後世に残す為、まず、各種の植樹をして、誰でも自由に出入りして憩える庶民の遊園地に変えました。
三百余年の武家の城郭が庶民の遊園地に生まれ変わったことは、まさに画期的であり民間の公園の始まりでもあります。
その後、明治12年と26年の二度に分けて本丸は丸山氏から神社に寄付され、それ以来、公園として神社が守り管理してきました。
大正14年、市の懇望により本丸一帯は神社から上田市へ永久に公園としての条件で無償寄付され、これにより民による公園は、50年で幕を閉じました。
しかし、上田の人々は親子数代にわたり公園の恩恵に浴してきました。
本丸を自費で守り、庶民大衆に数々の思い出を作り、今後も作り続けていくであろう上田公園、その基礎を築いた丸山氏こそは、上田市民のための公園設立の一番の功労者といえましょう。
眞田神社
(説明板より)
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戊辰役上田藩従軍記念碑 子爵 松平忠正 書 (平成20年10月29日) |
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上田城本丸北東隅櫓跡 (平成20年10月29日) |
上田城本丸北東隅櫓跡
上田城は、真田昌幸によって天正11年(1583)に築城が開始され、徳川氏の攻撃を二度にわたって退けるなど、近世城郭としては稀有けうな戦歴を誇る名城でしたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後に徳川氏配下の諸将によって徹底的に破壊されてしまいました。
廃城同然となっていた上田城を現在の姿に復興したのは、真田氏の次に上田藩主となった仙石忠政です。
忠政による再築城は、寛永3〜5年(1626〜1628)にかけて行われ、基本的な縄張りは真田氏時代の形を継承しながら、各虎口こぐち(出入口)には石垣を築き、本丸には7棟の二層隅櫓すみやぐらと2棟の櫓門やぐらもんが建てられました。
本丸の北東部には2棟の隅櫓が建てられていたことが江戸時代のさまざまな絵図によって知られていましたが、平成6年度と7年度に発掘調査が行われ、正確な位置や大きさが確認されました。
発掘調査の結果、隅櫓は石垣を築かずに土塁どるいの上に直接建てられていたことがわかりました。
また、隅櫓の規模は現存する西櫓などと同じく桁行けたゆき5間、梁間はりま4間と推定され、北側の隅櫓は東西方向に、南側の隅櫓は南北方向に棟の方向が向いていたことが確認されました。
現在、この場所には隅櫓の中心に建てられていた芯柱しんばしらの礎石そせきがそれぞれ残っていますが、いずれも明治時代以降に動かされ、本来の位置とは少しずれています。
【鬼門除け】
上田城の本丸と二の丸の土塁と堀は、北東の隅が直角ではなく、内側に折れて切り欠き設けられています。
北東(丑寅うしとら)の方角は「鬼門きもん」と呼ばれ、古来より災わざわいや物の怪けが侵入してくる方角と考えられてきました。
北東の隅に切り欠きを設けて鬼門を封じる風習は京都御所の土塀などにも見られ、真田昌幸による縄張りの遺構と考えられています。
昌幸はさらに城下の北東の地(上田市新田)に八幡社はちまんしゃを建立し、上田城と城下町を鎮護ちんごしています。
上田市教育委員会
(説明板より)
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上田城本丸北西隅櫓跡 (平成20年10月29日) |
上田城本丸北西隅櫓跡
仙石忠政によって復興された上田城には、本丸に7棟の二階隅櫓と2棟の櫓門が建てられていました。
本丸の東西の虎口(出入口)には、一対の石垣が築かれ、櫓門と2棟の隅櫓が建てられ、北東部の土塁上には2棟、北西部の土塁上には1棟の隅櫓が建てられていました。
本丸北西部の隅櫓は二の丸西虎口の正面に位置し、西側から侵入してくる敵に備えた櫓でした。
これらの建物は、明治維新後に政府によって民間に払い下げられ、現在の西櫓以外の建物は取り壊されたり、移築されたりしてしまいました。
その後、昭和17年に2棟の隅櫓が上田市民の寄付金によって買い戻され、昭和18〜24年にかけて現在の南櫓と北櫓として復元されました。
また、平成6年には本丸東虎口に櫓門が復元され、往時の姿を取り戻しました。
本丸北西部の隅櫓跡は、平成6年度に発掘調査が行われ、土塁の上に直接建てられていた建物であったことが確認されました。
現在、地上に露出している礎石は、隅櫓の中央に建てられた芯柱をすえるためのもので、円形の柱座はしらざが彫られており、芯柱は直径約50cmの丸太材の柱であったことがわかります。
この礎石の周囲には約2mの範囲で栗石ぐりいしが残っており、本来の位置を留めていることがわかりました。
また、建物の基礎材をすえるための栗石列や小礎石も検出され、この隅櫓が現存する西櫓などと同じく南北5間、東西4間の規模を有する建物であったことが確認されました。
【金箔瓦】
平成3年度に行われた本丸堀の浚渫しゅんせつ工事の際に、堀底より大量の屋根瓦が出土しました。
これらの瓦には、五七桐紋鬼瓦や菊花紋軒丸瓦など豊臣氏にゆかりの深い文様を持つ瓦が含まれており、豊臣秀吉に臣従していた真田昌幸によって建てられた建物に使用されていた瓦であることがわかりました。
真田氏時代の上田城の様子は、絵図などの史料が乏しくほとんどわかっていませんが、城内の各所から出土する真田氏時代特有の瓦によって、瓦を葺いた建物が城内に多数存在していたことが推測されます。
中でも北西隅櫓跡の西側の堀底からは金箔の付着した鯱鉾しゃちほこの破片が数点出土し、真田氏時代にはこの付近に黄金色に輝く鯱鉾の載った建物が存在していたことが推測されます。
上田市教育委員会
(説明板より)
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真田神社 (平成20年10月29日) |
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真田神社 (平成20年10月29日) |
智恵の神社
眞田神社の由緒
当社は戦国時代の天正11年(1583)上田にこの平城を築き城下町を造った真田父子を主神とし、江戸時代に民政に尽くした仙石・松平の歴代藩主を祭神とする、神社であります。
殊に十数倍の大軍を二回に亘り撃退して日本一の智将と謳われた真田幸村の神霊は、今も智恵の神様として崇められています。
眞田神社
(説明板より)
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兜松 (真田神社) (平成20年10月29日) |
真田幸村公牌材
信玄公兜松(かぶとまつ)由緒
天文17年、甲斐の武田信玄公、坂城葛尾城主村上義清公と雌雄を決すべく砂原峠を越えて馬を上田原に進め給う。
途次、山上の松の大木に目を止め
「勝木なり(立派な木だ)」
と賞し給う。
その松の形、四方に枝を広げ、さながら甲冑の兜に似たり。
以来、里人
「信玄公兜松」と呼びならわす。
以来四百数十年、諸行無常の習いとて近年遂に枯死し、伐採のやむなきに至れり。
心ある人、その切り株の上に■製の兜の形を飾り、またその材を以って牌を作り、当神社御祭神真田幸村公の御名を記してここに奉斎す。
真田家の祖幸隆公は、信玄公の配下に入りて祖父の地真田の郷を奪還し、三男昌幸公、この地に上田城を築城し給う。
昌幸公次男幸村公大坂城にて赤備えを以って武名を天下に輝かす。
この赤備えこそ武田二十四将の中にも勇名高き飯富兵部虎昌公より伝わりしものという。
また、幸村公の御名「信繁」は、信玄公の信頼最も厚き弟君典厩信繁公にあやかるべく昌幸公の付けられたものといわれ、まことに両雄の由緒浅からぬものあり。
信玄公命名の古木を以って茲に幸村公の牌となし当社御参拝の諸賢に歴史の流れを伝えんとするものなり。
真田神社
平成12年4月吉日
(説明板より)
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真田井戸 (真田神社) (平成20年10月29日) |
真田井戸
この井戸からは、抜け穴があって城北の太郎山麓の砦に通じていた。
敵に包囲されてもその抜け穴より兵糧を運び入れるにも、城兵の出入りにも不自由しなかったという。
上田市木 一位の木 製
(説明板より)
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長野県宝 上田城 西櫓
上田城西櫓は、江戸時代初期の寛永3〜5年(1626〜1628)にかけて真田氏の後に城主となった仙石せんごく氏によって建てられ、上田城で建築当初のままに残されている唯一の建物です。
建物の大きさは、1階が桁行けたゆき9.85m(5間けん)、梁間はりま7.88m(4間)の大きさで、2階は桁行8.64m、梁間6.66mと少し小さくなっています。
外壁は、雪の多い地方で用いられる腰下見板こししたみいたが張られ、壁の上部から軒廻りにかけては防火のために白漆喰で柱などを塗りごめた大壁おおかべ造りとなっています。
また、壁に設けられている穴は、弓矢や鉄砲を撃つためのもので、長方形の弓狭間はざまと、方形の鉄砲狭間があります。
窓は縦格子こうしの付いた突き上げ板戸です。
建物の内部は、中央に丸太材の芯柱が立ち、仙石氏の「仙」の字の焼印が押されています。
壁は柱を残して漆喰を塗った真壁しんかべ造りで、幕末期に補強のために取り付けられた筋交すじかいが見られます。
屋根は、丸瓦と平瓦で葺ふいた本瓦葺きで、鬼瓦には最後の城主となった松平氏の五三桐紋がついています。
なお、鯱しゃち瓦は昭和3年に徴古館ちょうこかんとして改修された際に寄付されたもので、江戸時代の上田城の櫓には鯱瓦は無かったようです。
西櫓は、上田城本丸の西虎口こぐち(出入口)を固める重要な櫓でしたが、戦争のなかった江戸時代には、もっぱら倉庫として使用されていました。
また、櫓の名称も江戸時代には特になく、「西櫓」の名称は、南櫓と北櫓が復元された後につけられた新しい名称です。
上田城西櫓は、昭和18〜24年に移築復元された南櫓、北櫓とともに、長野県内では数少ない江戸時代初期の城郭建築の貴重な遺構として、昭和34年に長野県宝に指定されました。
上田市教育委員会
(説明板より)
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明治30年頃の上田城跡 手前の桑畑は現市民会館の敷地。 奥に残されたただ1基の櫓(西櫓)が見える。 (古写真説明文より) |
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お堀の移りかわり
けやき並木のこの場所は上田城二の丸の堀の跡です。
二の丸をかぎの手に囲んで、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の固い守りに役立っていました。
その後、昭和3年5月上田温電北東線が開通し、この地を電車が通っていました。
しかし、昭和47年2月電車が廃止され、現在に至っています。
(説明板より)
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南櫓下の石垣について
南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。
中段石垣は、長雨により一部崩落したことから修復工事を実施しました。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、原形に基づきモルタルで修復しました。
(説明板より)
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1代 | 真田昌幸 | 天正11年(1583年)〜 |
2代 | 真田信之 | 慶長5年(1600年)〜 |
3代 | 仙石忠政 | 元和8年(1622年)〜 |
4代 | 仙石政俊 | 寛永5年(1628年)〜 |
5代 | 仙石政明まさあきら | 寛文9年(1669年)〜 |
6代 | 松平忠周ただちか | 宝永3年(1706年)〜 |
7代 | 松平忠愛ただざれ | 享保13年(1728年)〜 |
8代 | 松平忠順ただより | 寛延2年(1748年)〜 |
9代 | 松平忠済ただまさ | 天明3年(1783年)〜 |
10代 | 松平忠学たださと | 文化9年(1812年)〜 |
11代 | 松平忠優ただます(忠固ただかた) | 天保元年(1830年)〜 |
12代 | 松平忠礼ただなり | 安政6年(1859年)〜明治2年(1869年) |
(参考:上田・城下町活性会「上田城」リーフレット)
真田氏 2代 40年間
天正11年(1583) | 真田幸村、上田城築城開始。 |
天正13年(1585) | 第1次上田合戦(神川合戦)。 |
真田勢、7千人余の徳川軍を撃退。 | |
慶長 5年(1600) | 第2次上田合戦。 |
西軍に属し上田に籠城した昌幸・幸村父子 中山道を西上中の徳川秀忠軍(3万8千人)を退ける。 |
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真田信之、上田城主となる。 | |
上田6万5千石、沼田3万石、計9万5千石。 | |
昌幸・幸村父子は高野山に流される。 | |
慶長19年(1614) | 真田幸村、大坂城へ入り真田丸を築き活躍。 |
元和元年(1615) | 真田幸村、大坂夏の陣で奮戦の後、戦死。 |
元和 8年(1622) | 真田信之、松代(長野市)へ移封となる。 |
仙石氏 3代 85年間
元和 8年(1622) | 仙石忠政、小諸より入封。(6万石) |
寛永 3年(1626) | 仙石忠政、上田城復興工事に着手。 |
寛文 9年(1669) | 分知により上田藩領5万8千石になる。 |
宝永 3年(1709) | 仙石政明まさあきら、但馬国出石(兵庫県)へ移封。 |
松平氏 7代 166年間
松平氏は三河在住時代からの徳川家の分流の一つ藤井松平氏で、初めて上田藩主となった忠周ただちかと幕末期の藩主忠優ただます(忠固)の2人は幕府の老中を勤めています。
宝永 3年(1706) | 松平忠周ただちか、出石(兵庫県)より入封。(5万8千石) |
松平忠周は老中も勤める。 | |
享保15年(1730) | 分知により上田藩領5万3千石になる。 |
宝暦11年(1761) | 大百姓一揆(宝暦上田騒動)起こる。 |
嘉永元年(1848) | 松平忠優ただます、老中になる。開港問題に活躍する。 |
明治 4年(1871) | 廃藩置県。 |
(参考:「上田城と市立博物館」リーフレット)
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大手門跡 (長野県上田市大手1丁目・大手門公園) (平成20年10月29日) |
大手門公園
上田城は真田幸村(信繁)の父、昌幸によって天正13年(1585)に一応の完成をみたものと考えられる。
現在、上田市内に多く見られる鉤の手状の街路は城下町としてのなごりをとどめるものであり、特にこの場所には大手門があった。
大手門とは城の正面であり、上田城では門の枡形を構成する石垣と、その前南北に堀があっただけで城門は造られていなかったといわれている。
(説明板より)
(説明板より)
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上田市指定文化財
上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁
種別 史跡・建造物
所在地 上田市大手1丁目4番33号
所有者 長野県
指定年月日 昭和44年5月9日
上田藩主の居館は、真田氏・仙石氏・松平氏の各時代を通して、現在の長野県上田高等学校の敷地となっている場所にあり、「御屋形(おやかた)」と呼ばれていました。
居館の遺構である表門・土塀・濠等に往時の姿をとどめています。
表門は、藩主松平忠済(ただまさ)時代の寛政2年(1790)にその前年焼失した居館とともに再建されたものです。
前面には、4本の太い角柱が並び、中央間には大板扉を釣り、左右には潜りの扉がつけられ、後部の控柱は十六面に削った通し梁でつないでいます。
創建当時の様式がよく保たれており、長野県下最大規模の薬医門として貴重な存在です。
土塀は江戸時代末期の構築ですが、濠と土塁は真田氏時代の面影を残し、全体として江戸時代の大名屋敷の外廻りを知る良い例です。
但し、土塀の下部と濠の周囲の石積みは、崩落防止のために最近施工されたものであり、濠の幅も道路の拡張により狭められています。
上田市教育委員会
(説明板より)
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藩主居館跡 (長野県上田市・長野県上田高校) (平成20年10月29日) |
藩主居館
上田城三の丸内の現上田高校の敷地は、真田氏以降、仙石せんごく氏、松平氏と続いた上田藩主の居館であり、「御屋形」と呼ばれていた。
周囲に堀と土塁をめぐらした陣屋の構えを取っていた。
堀を含めた敷地の広さは、東西が74間3尺(135.5m)、南北が74間2尺であった。
屋形の基本的な構成は、当初から大きな変化はなかったものと見られるが、松平氏時代の様子のあらましは次のようだった。
屋形は入口側から、御表・勝手・御奥の三つの殿舎群に分けられていた。
御表は、藩主の公的な生活の場で、大書院・大広間等があった。
勝手は、藩主の居間で小書院・表居間など、また、御奥には藩主の寝室・側室の部屋などがあった。
(案内板より)
案内板より
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上田藩文武学校 明倫堂跡 (長野県上田市・第二中学校) (平成20年10月29日) |
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桝形 (長野県長野市常磐城3丁目) (平成20年10月29日) |
桝形ますがた
城下町の道は、必ず所々で直角に折れ、進むようになっている。
この折れ曲がった地点は桝形とよばれ、戦いの際守備面で重要な役割を果たした。
この他、掲示場や番所が作られた。
(説明板より)
【関ヶ原の戦い】
関ヶ原の合戦に際して、真田昌幸、信繁のぶしげ(幸村)父子は西軍に与することとなった。
このため中山道なかせんどうから関ヶ原に向った徳川秀忠軍3万8000の軍勢は昌幸に帰順を促したが、昌幸はこれを拒否。
このため慶長5年(1600年)9月6日に上田城攻めが開始された。
秀忠軍の牧野康成やすなり隊が刈田かりたを行うと真田軍が城外へ攻め出し、秀忠軍の本多忠政隊がそれを攻めると真田軍は城内へ撤収。
それを追う秀忠軍が上田城に押し寄せると、城内から鉄砲が一斉射撃され、秀忠軍は大混乱に陥った。
秀忠は一旦、兵を引き、作戦を練り直す最中に、家康より美濃へ急行すべしとの命があり、上田城攻めを中断して美濃へ向かう。
しかし、時既に遅く、秀忠軍は関ヶ原に間に合わなかった。
上田城は関ヶ原合戦後に破却。
その後、新たに入封にゅうほうした仙石忠政によって、寛永3年(1626年)より再建された。
現在残る遺構は、この時以降のもので、関ヶ原合戦当時の遺構は残されていない。
(参考:『歴史街道 2012年3月号』)
(平成25年8月29日 追記)
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