第634海軍航空隊


瑞雲隊慰霊碑


第634海軍航空隊
瑞雲隊慰霊碑
海軍少佐田村与志男他戦没者霊位
(フィリピン共和国ルソン島バグサンハン・比島寺)



(平成18年11月2日)
比島寺



比島寺

(フィリピン共和国ルソン島・バグサンハン)


旅日記参照)


(平成18年11月2日)

昭和19年5月19日、航空戦艦『伊勢』と『日向』で第4航空戦隊が編成される。
同時に両艦に搭載する第634海軍航空隊が編成された。
基地は呉海軍航空隊。
16機で訓練を開始したが、2回ほど空中分解事故が発生する。
その後、空母『隼鷹』と『龍鳳』の2艦が第4航空戦隊に編入される。
戦闘第163飛行隊、戦闘第167飛行隊が第634海軍航空隊(634空)に配属となる。
昭和19年9月1日現在の実兵力は、水上偵察機瑞雲の「瑞雲隊」21機に彗星、九九式艦爆、天山などを加えて35機。
昭和19年10月12日の米機動部隊による台湾空襲により、634空は母艦から離れ、基地航空部隊として、第6基地航空部隊(第2航空艦隊)に編入された。
634空瑞雲隊は“比島決戦”に備えて九州に移動。
水上偵察機瑞雲で編成された偵察第301飛行隊(昭和19年7月編成・横須賀海軍航空隊所属)が634空に編入される。
実働20機内外で比島戦に突入し“キャビテ軍港”を基地として奮闘した。


【海軍第634航空隊】

昭和19年9月12日 クラークフィールド着
昭和19年11月 キャビテ移動、マニラ防衛
昭和20年1月9日〜3月25日 ツゲガラオへ移動、バリアグより徒歩、ツゲガラオ防衛隊編入
昭和20年9月14日 テイタイにて武装解除

(参考:村田三郎平著 『最前線爆雷製造部隊』 風媒社 1977年第1刷)

(平成23年10月22日追記)


航空母艦雲龍戦没者慰霊碑



航空母艦雲龍戦没者慰霊碑
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

碑文

航空母艦雲龍(174,840噸)は太平洋戦争愈々苛烈を極める中、昭和19年8月6日横須賀海軍工廠にて竣工し海軍機動部隊の主力である第一航空戦隊に編入された。
竣工するや否や海軍少将小西要人艦長のもと千5百余名の乗員一致団結祖国と民族の為身を鴻毛の軽きにおき日夜ひたすらに出撃に向けての訓練に励み昭和19年12月17日マニラ方面緊急輸送作戦に呉軍港を出撃東支那海大陸沿岸を一路激戦地のマニラに向かった。
12月19日1637時及び1651時敵潜水艦の雷撃を受け勇戦空しく海底深く沈んだ。
小西艦長はじめ乗組員将兵、便乗中の第634海軍航空隊将兵、陸軍滑空歩兵第1連隊将兵、比島方面へ赴任中の海軍将兵を含み3千名の多数が艦と運命を共にされ生存者は僅に142名であった。
童顔の15歳の少年兵も 学徒出陣の少尉もいた。
父、母に、兄弟姉妹に、最愛の妻や子にも別れを告げることもなく嵐の海にのまれてしまった。
あれから43年、今日のこの平和な繁栄は英霊の方々の尊き犠牲により築かれた。
このたびやっと遺族、生存者相つどい御魂らを慰め再び戦争の悲劇を繰り返さないことを希ってここ佐世保の海軍墓地に慰霊の碑を建立する。

御霊よ 安らかに 鎮まり給え   合掌

昭和62年12月19日
航空母艦雲龍戦没者慰霊碑建設委員長 森野 廣
元 雲龍航海士


【偵察第302飛行隊と634空】

第801海軍航空隊(旧・横浜海軍航空隊)から詫間航空隊へ所属がかわった偵察第302飛行隊(T302)は、さらに昭和20年5月24日、「634空」司令の指揮下に移った。
(「T302」の装備機は高速水上偵察機兼爆撃機の「瑞雲」)
フィリピンで苦戦を重ねた偵察第302飛行隊も既に第634海軍航空隊に所属し、台湾に下がって隊の整備をしていた。
そこへ「T302」が加わり、陣容を立て直した「634空」は、沖縄攻撃を実施しながら逐次九州へ帰還しつつあった。

ついに沖縄作戦は不成功に終わり、昭和20年6月23日、「634空」飛行長の古川明少佐が鹿島航空隊飛行長に転じたので、偵察302飛行隊長・伊藤敦夫少佐(海兵63期)が「634空」の飛行長となった。
部隊は唐津湾の北端に置かれた玄海基地(小富士基地)へ移り、海上護衛隊の零式水上偵察機48機も増強され、これには雷装を施して本土決戦に備えた。
しかし、その活躍を見ることなく昭和20年8月15日の終戦を迎えた。

(参考:雨倉孝之 著 『飛行隊長が語る勝者の条件』 光人社NF文庫 1999年11月発行)

(令和2年5月16日 追記)


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