歩兵第157連隊

(通称号:鵄3064部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
千葉県佐倉 (第1次)昭和12年
(第2次)昭和15年
第61師団 中国・上海

(第1次歩兵第157連隊)
歩兵第57連隊の留守隊で編成。
昭和12年9月9日、軍旗を拝受して早々、歩兵第103連隊(東京・麻布)とともに第2旅団(旅団長:工藤義雄少将)の下に配属され上海に出発。
蘊藻浜クリークの戦闘に参加。
10月16日、同クリークの強行突破を図り旅団主力が到着するまで3日間飲まず食わずで奮戦して突破。
中部李家橋、西部李家橋、膏家柳を落とし大場鎮へ進撃し、10月26日、大場鎮を占領。
昭和13年、杭州攻略戦、浦東の掃討戦に参加ののち上海付近の警備につく。
7月、盧山戦に参加。揚子江を遡って玉筋山を攻略し、東孤嶺に敵前上陸して激戦を展開。
12月、第1大隊は南獅嶺に進出。第2大隊は大嶺頭を陥れ上賜嶺の西側に進出。
連隊は重爆撃機の応援を得ながら徳安河を渡河し徳安攻略に成功する。
昭和14年、修水河渡河戦、南昌攻略戦に参加。
4月、高安北方地区より錦河線へ転進し、この地域の警備につく。
8月以降、かん湘会戦、瑞撫攻略戦に参加。
11月、上海に転進。
昭和15年、日本に凱旋し3月に軍旗を宮中に奉還した。

(第2次歩兵第157連隊)
昭和15年8月、歩兵第57連隊補充隊(留守隊)をもって歩兵第157連隊を再編。
12月4日、軍旗拝受。
昭和18年、華中に出征。
石臼湖・西横山付近の討伐、広徳作戦、脳山作戦に参加。
昭和19年、南陵湖東岸地区討伐、青龍山付近新四軍討伐などに参加。
昭和20年、光号作戦のため上海に移駐。
米軍の上陸に備え、上海西北地区一帯の防衛陣地の構築中に終戦。
昭和20年8月21日夜11時、真茹鎮において軍旗を奉焼。


佐倉兵営跡の碑

『佐倉兵営跡』碑
(千葉県佐倉市・佐倉城址公園自由広場)

昭和41年建立
国立歴史民俗博物館建設のため現在地に移転。
題字は歴代連隊長の今村均陸軍大将。



(平成18年8月30日)

副碑・碑文

こゝは、旧佐倉城二乃丸の入口で連隊になってからは、この前後に連隊本部及び兵舎十数棟があった。
佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和3年(1617年)完成以後延享3年(1746年)以来堀田氏の所領したものであるが、明治6年ごろ(1813年)建造物はすべて取りこわされた。
同7年歩兵第2連隊がおかれた。
後、明治42年第1師団歩兵第57連隊となり、以来昭和20年(1945年)8月15日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
本連隊乃主力は、昭和11年乃2.26事件以来満洲に移駐し、同19年7月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年11月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と50日にわたり激戦し玉砕した。
こ乃内第3大隊はグアム島において奮戦した。
別に第57連隊を母胎として動員編成された歩兵第157連隊は、昭和12年9月より福井部隊(後に南部、赤松)として上海に上陸、大場鎮、杭州、廬山、修水、南昌、高安、江南の中支戦線において活躍し、又別に歩兵第212連隊は、山口(信)部隊として昭和14年4月より中国山東省、山西省において房総健児の勇名を輝かせた。
このたび連隊関係有志相語らい、軍旗の下に祖国乃ため散華せられた方ゝ乃御めい福を祈り兵営跡が永久の平和公園としてよみがえる事を祈念し佐倉連隊乃いわれを伝えるものである。

昭和41年10月吉祥日

衛兵所跡


衛兵所跡

(千葉県佐倉市・国立歴史民俗博物館入口)

ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していました。

(説明板より)


(平成18年8月30日)

衛兵所跡古写真 (説明板より)


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