歩兵第215連隊

(通称号:弓6824部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
群馬県・高崎 昭和14年 第33師団 モールメン南方


昭和14年3月、水戸の歩兵第213連隊、宇都宮の歩兵第214連隊と同時に編成される。
編成完結直後の4月3日、新潟港から華中の武漢地区に向かい、咸寧、大冶、陽新付近の江南地区の警備につく。
以後、江南の武寧に転進して冬期攻勢戦に参加する。

昭和16年3月に第一次錦江作戦、第二次錦江作戦に参加。
華北に転進後は中原会戦でも活躍し、その後、徐州に駐留。
11月6日、第33師団が南方軍の戦闘序列に編入されたため、翌年の昭和17年2月、連隊はビルマ戦線に転進した。
タイのバンコクに上陸し、師団主力と共にラングーン攻略作戦、北ビルマ進攻作戦に参加し、日本軍は5月に全ビルマを制圧した。

昭和19年3月、インパール作戦に参加。
柳田師団長は麾下の連隊を右、中、左の3突進隊に分けて攻撃命令を下達。
笹原政彦大佐率いる連隊は、左突進隊としてマニプール河を渡り、インパールへの道を突き進んだが、順調に進捗したのは最初の1ヶ月間だけだった。
4月末にインパールの灯が遠く望めるビシェンプール、ガランジャール周辺に進出するや、水戸の連隊と共に英印軍の強烈な攻撃にさらされ、早くも苦境に追い込まれた。
損害は続出し、生存者は大隊は40名内外、中隊にいたっては7~8名という状況となる。
6月に入っても前進できず、食糧、弾薬が底をつく。
7月7日、この無謀な作戦は中止となり、前線部隊に退却命令が出されたが、物量豊富な連合軍の追撃作戦は執拗かつ熾烈を極めた。
各部隊の退却路は「白骨街道」と呼ばれたほど将兵の死体で埋まり、いたるところに骨と皮ばかりの傷病兵が倒れていた。
この退却行の昭和19年9月19日には、笠原連隊長が敵の砲撃で戦死する。

その後、連隊は更に悲惨な「盤」作戦、イラワジ会戦を戦い、南へ下がりながらタイの国境を目指し、モールメンを過ぎ、タイ国境を目前にしたところで終戦を迎えた。

(参考:『日本陸軍歩兵連隊』 新人物往来社 1994年10月 2刷発行)







 弓歩兵第215聯隊 奉納燈籠

 (群馬県護国神社




(平成26年11月16日)






 顕彰碑
 (高崎市・群馬音楽センター前の公園)






(平成26年11月16日)

顕彰碑

明治維新の大業成るや、明治6年旧高崎城内に兵営が置かれ、東京鎮台高崎分営となった。
郷土群馬を中心とした壮丁は徴されて兵士となり、国家防護の責に任じた。
ついで明治17年歩兵第15聯隊が創設され、以来太平洋戦争の終結まで60余年間、国民皆兵制度の下、郷土の健児はここに起居を共にして武を練った。
明治、大正、昭和を通してこれら健児が従軍した戦役は、明治維新の際をはじめとして熊本の乱、西南の役、日清戦役、北清事変、日露戦役、大正3年乃至9年戦役、済南、満洲上海事変、支那事変、太平洋戦争等枚挙にいとまないほどで、ことに太平洋戦争には東部第38部隊として、歩兵第15聯隊を始め、歩兵第115聯隊、同215、85、238、173、330、435、521聯隊の基幹部隊及び大小数十部隊を編成送り出した。
これら諸部隊の健児は、全国陸海空軍部隊に召された県出身将兵と共に、あるいは万里の波濤を乗り越した異郷に、あるいは国内の要所など広大な戦域にその身をささげ、ついに郷土関係戦没者は5万2千余名を算すに至った。
昭和20年8月15日戦争は終止を告げ平和がよみがえった。
その礎にはこれら健児の尊い犠牲があることを忘れてはならない。
すなわち県内外の生存者相寄り、これらの事績を顕彰しその英霊を慰めたく、明治百年の記念の年に際し、兵営跡に碑を建立し、永遠に伝えようとするものである。

昭和43年10月23日
元歩兵第15聯隊並郷土出身陸海空
戦没者合同慰霊祭実施期成連盟

(碑文より)




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