(通称号:菊8903部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
久留米 | 明治38年 | 第18師団 | ビルマ・ラングーン東北 |
明治38年、編成後は第14師団の隷下で満洲の警備につく。
明治40年10月、平時編制改正とともに新設の第18師団に編入される。
大正4年、第一次世界大戦で青島攻略戦に参加。
大正14年4月、軍縮による軍備整理で解体。
昭和12年9月、日中戦争の勃発により再編される。
第10軍(柳川兵団)の隷下で杭州湾上陸作戦に参加。
第18師団主力として金山衛城東方に上陸し、各地で激戦を重ね杭州に到着。
以後、杭州の警備に当る。
昭和13年10月、バイアス湾上陸作戦後は広州、広東と転戦。翁英作戦にも参加する。
昭和16年12月、大東亜戦争開戦とともにマレー侵攻作戦に参加(コタバルに上陸)。
シンガポール攻略戦ではブキテマ高地、シンガポール島西方要塞攻撃を担当。
シンガポール陥落後は、反転してビルマに向かう。
マンダレーを経てメイミョウに至り、メイミョウの防衛に当る。
昭和18年10月からウ号作戦、九号作戦に参加し、北部ビルマ各地を転戦。
昭和19年6月、第一次断作戦に参加。
昭和20年、メイクテーラー会戦に参加し、甚大な損害を受ける。
メイクテーラー会戦後は、後退してシッタン方面の防衛に当りながら戦闘に参加。
ニャンカン附近を防衛中に終戦を迎える。
『菊歩兵第56聯隊碑』 (福岡県久留米市・久留米城跡) 忘れまじ 異國に散りし 戦友偲ぶ 面影若く われ老けにけり (碑文より) (平成16年6月12日) |
碑文
歩兵第56聨隊は明治38年に創設
大正3年青島攻略戦には輝かしき武勲を樹てたが 大正14年軍備縮小により軍旗は宮中に安置された
昭和12年日華事変勃発するや第18師団の主幹部隊として再編成
同年11月5日杭州湾に敵前上陸 勇名をとどろかせ 爾来中・南支に転戦し菊兵団と呼称された
昭和16年12月8日大東亜戦争の宣戦布告と同時に マレー半島コタバル飛行場正面に激烈悲壮な上陸作戦敢行
疾風怒涛の如くマレー半島を席捲し 昭和17年2月15日難攻不落を豪語したシンガポールを攻略した
さらに時をうつさずビルマの戦野に駒を進め援蒋ルートを封鎖
中・印両国よりの連合軍の大陸反攻に対し 悪戦苦斗すること4年有余
昭和20年8月15日終戦の詔勅により ビルマ国シッタン河畔において終戦を迎えた
この間将兵は軍律厳しい中にも礼儀あり 情誼に厚くその奮闘振りは 蒋介石総統 チャーチル英首相 スチュ―ウエルビルマ連合軍司令官をして世界最強の部隊なりと激賞せしめた
この光栄は遠く異国の地に悠久の大義に生きて散華した多くの戦友によって得られたものである
われわれ九死に一生を得たる者相集い戦友の死を平和への礎とし部隊発祥の地に縁ある ここ篠山城跡に碑を建立し 以て戦友の霊を弔い光栄あるわが聨隊を永遠に記念するものである
昭和40年5月吉日
菊歩兵第五十六聨隊生存者一同建之
コタバル上陸作戦 |
太平洋戦争は日本時間の昭和16年(1941年)12月8日、ハワイの真珠湾攻撃と、マレー半島上陸作戦でその火ぶたが切られた。
【マレー半島上陸作戦の要旨】
@上陸部隊の兵力は、近衛師団、第5師団、第18師団を基幹とする第25軍(戦車・車輛・重砲部隊を除く約4万名)
A上陸地点はマレー半島の中央部東岸のタイと英領マレーの国境線付近の、シンゴラ(タイ領)、パタニ(タイ領)、コタバル(英領)の3ヶ所。
Bシンゴラとパタニ上陸部隊は、タイ領から英領に侵入し、マレー半島西岸側より英領マレーの要衝クアラルンプールを制圧、その後、シンガポール島を隔てるジョホール水道に向かう。
Cコタバル上陸部隊は付近の英軍航空基地を制圧後、半島の東岸伝いに南下し、クアンタン、トレンガヌ等の敵航空基地制圧後、ジョホール水道に至る。
【上陸軍の兵力】
@シンゴラ上陸軍
歩兵6個大隊、砲兵4個中隊、戦車3個中隊(27両)、航空関係部隊(基地要員)ほか。
Aパタニ上陸軍
歩兵3個大隊、砲兵2個中隊、戦車1個中隊(9両)、航空関係部隊(基地要員)ほか。
Bコタバル上陸軍
歩兵3個大隊、砲兵1個中隊、航空関係部隊(基地要員)ほか。
【使用輸送船】
@シンゴラ上陸軍=貨物船10隻、病院船1隻
Aパタニ上陸軍=貨物船6隻
Bコタバル上陸軍=貨物船3隻
【護衛部隊】
海軍第3水雷戦隊の一部(旗艦・軽巡洋艦「川内」、駆逐艦7隻)
陸軍航空部隊
重爆撃機2個飛行戦隊(54機)・戦闘機1個飛行隊(36機)
海軍航空隊
陸上攻撃機2個航空隊(116機)・戦闘機1個派遣隊(34機)
12月8日時点でコタバル付近の守備についていたイギリス軍の兵力は、インド兵を主力とするイギリス第8旅団(第10バルチ連隊第2大隊、第17ドグラ連隊第3大隊、第13国境軍第1大隊)合計6000名。
コタバル周辺の海岸一帯には防御陣地が構築され、海岸線から100メートル以内には縦横に鉄条網が張り巡らされ地雷も多数埋設されていた。
また、航空部隊としては、ロッキード・ハドソン双発偵察爆撃機1個中隊(12機)の一部がコタバル航空基地に派遣されていた。
日本軍はこの実態を十分に知らずにコタバル上陸作戦を展開することになった。
結果的にはコタバル上陸作戦は太平洋戦争における日本軍の上陸作戦の中でも、数少ない激戦の上陸作戦となる。
【コタバル上陸作戦に投入された輸送船】
@淡路山丸=9794総トン・19.9ノット・三井物産船舶部(のちの三井船舶)
A綾戸山丸=9788総トン・19.1ノット・三井物産船舶部(のちの三井船舶)
2隻は三井物産船舶部がパナマ運河経由のニューヨーク航路用に昭和14年(1939年)に建造した高速貨物船。
B佐倉丸(7126総トン・19.7ノット・日本郵船)
日本郵船が昭和14年に建造したパナマ運河経由ニューヨーク航路用の高速貨物船(三井のライバル)
重武装の対空火器を装備しているのは佐倉丸だけで、淡路山丸と綾戸山丸には数門の高射砲が装備されているだけだった。
ただ3隻とも磁気機雷対策として船体を一周する消磁回路だけは共通装備として早くから装備されていた。
佐倉丸は3隻の船団が航空攻撃を受けた時の主力防空砲台としての任務を持っており、防空船と名付けられた。
船首と船尾に大型の砲座が組み上げられ、そこにそれぞれ4門、合計8門の7センチ高射砲が配置されるという重武装であった。
【乗船区分】
@淡路山丸
コタバル上陸支隊司令部、歩兵第56連隊第1大隊および第5中隊、連隊砲1個中隊、支隊工兵1個小隊(合計1653名)
A綾戸山丸
歩兵第56連隊本部、第3大隊、連隊速射砲中隊、支隊工兵1個小隊(合計1700名)
B佐倉丸
歩兵第56連隊第2大隊、支隊工兵1個小隊(合計2100名)
この他に、上陸用舟艇の運用および荷役担当として独立工兵第14連隊の一部(402名)が3隻に分乗。
この輸送船団は上陸開始と同時に一度に合計48隻の上陸用舟艇を使い、2000名の兵員を上陸地点に送り込むことが可能で、ほぼ二往復半で兵員の全員の上陸が終了できた。
揚陸される予定の戦備品の中には、占領した航空基地に直ちに仏印基地から到着予定の陸軍戦闘機部隊用の航空燃料ドラム缶が多数含まれ、また、速射砲、野砲およびそれらの弾薬搬送車を牽引する若干の軽装甲車も含まれていた。
注目すべきは、揚陸された戦備品を移動し運ぶために多数の「リヤカー」が含まれていたことである。
12月7日、3隻の輸送艦は第3水雷戦隊の駆逐艦「綾波」に先導され、上陸地点のコタバル沖に向かう。
12月8日午前0時、3隻に搭載されていた全ての上陸用舟艇がデリックによって次々と海面に降ろされた。
午前0時55分、各輸送船の舷側に接舷している上陸用舟艇に向かって舷側から垂れ下げられた網バシゴを伝い兵員たちが乗艇を始める。
風速7m、波高1〜2mの中での乗艇は困難を極め、目測を失い海中に落下する兵員が増えたため、乗艇は各輸送船の風下側の舷側だけを使うことに変更。
このために迅速性を求められる乗艇に時間がかかる。
12月8日未明、午前1時35分、第1陣の大発24隻、小発21隻が海岸に向けて発進。(上陸兵約2000名)
各舟艇が上陸予定地点の海岸線から400〜500mの地点に達した頃から陸上から小火器による射撃を受ける。
海岸線一帯は1〜2mの巻波のため着岸に手間取る。
上陸地点は砂地の海岸であるが、クリークのような小さな入り江が無数に点在しており、これら障害地形を乗り越えて更に奥まで前進する間にイギリス軍の激しい射撃に遭遇、予想外の戦死傷者を出す激戦となる。
12月9日未明頃までにはコタバル一帯は制圧したが、上陸将兵5500名のうち戦死傷者の総数は700名に上った。
12月8日午前4時過ぎ、2機のロッキード・ハドソン偵察爆撃機が3隻の輸送船を攻撃。
投下された爆弾の1発が淡路山丸の船首の第2船倉ハッチ付近に命中して爆発。
この爆発によってハッチ付近に積み上げられていたガソリンドラム缶が引火爆発し、前部甲板は一瞬にして火の海となった。
綾戸山丸に投下された爆弾の1発は左舷付近の至近弾となる。
これにより、救命艇2隻が破壊され、船尾4番船倉用のデリックブームの鋼索が切断され、4番船倉からの荷揚げが出来なくなった。
この10分後、再び綾戸山丸が敵機2機の攻撃を受け、船尾の5番、6番船倉のハッチコーミング(甲板上のハッチの縁構造物)に爆弾が命中した。
12月8日午後6時30分、激しく燃え上がる淡路山丸を残し、綾戸山丸と佐倉丸はコタバルの北約150kmにあるタイ領パタニに一旦引き揚げ待機することにした。
この退避行動中にも、ロッキード・ハドソン双発機の断続的な攻撃を受け、綾戸山丸に2発、佐倉丸にも2発の小型爆弾の直撃を受けた。
12月9日午前0時過ぎ、修理後の2隻はパタニ沖を抜錨し再びコタバル海岸に向かう。
12月9日午前7時過ぎ、コタバル海岸に到着。
周辺の海岸に散乱している大発や小発の中から可動の艇を掻き集めると再び物資の揚陸を開始した。
コタバル上陸作戦は12月9日の時点で表向きは成功裡に終了したことになったが、実際は最優秀商船1隻損失、各種上陸用舟艇の過半数の25隻損失、上陸部隊将兵、輸送船乗組員、上陸用舟艇担当工兵、船舶砲兵など合計1100名戦死傷という予想外の大損害を受けたのである。
淡路山丸の燃え尽きた船体はそのまま放置されたが、12月12日、コタバル沖合に潜み込んできたオランダ海軍の潜水艦の雷撃で撃沈された。(太平洋戦争で失われた商船損失第1号)
(参考:大内健二著 『戦う民間船』 光人社NF文庫 2006年発行)
(平成23年5月28日追記)
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||