2.戦車第2師団と第23師団の戦跡

(ウルダネタ・キャンプ3・イリサン・旧日本人墓地)


平成24年(2012年)10月16日・2日目

今日はバギオに向けて一気に走る。
午前8時、ホテルをチェックアウトして出発。

今回の旅行も、いつもと同じく運転手付きの車とガイドの“ステラさん”を指名しての旅を考えていたが、この車代が結構高い。(笑)
というわけで、当初の予定を変更して、バスで移動し、バギオで車を手配して翌日は走り回り、途中からまたバスでマニラに戻るほうが安いだろうということになり、そのつもりでいたが・・・
日本の旅行社の社長が現地と電話で打ち合わせ中、ちょうど同席していたフィリピン人の女性が、自分の弟と車を使ってくれていいと申し出てくれたらしい。
旅行社の社長が「どうでしょうか?」と言ってきた。
私は面識がない方だが、ご好意に甘えて、車を使わせて頂く事にする。
これで旅がかなり楽になる。
やはりバスでの移動では自由が利かないので、これは大いに助かる。
費用はガソリン代と高速道路代だけでいいというが、そうもいくまい。
3日間のドライブなので、食事代、ホテル代もこちらが負担するのは当たり前・・・
それでも現地旅行社からの提示額よりかなり安く済みそうである。
ラッキーである。
感謝、感謝・・・・

ただ、気になるのは、運転のテクニックで・・・(大笑)
前回の4月の時のドライバーのように、お話にならない下手糞では困る。(笑)
それだけが唯一の心配である。

待ち合わせ時間前に、ドライバーの“ラオルくん”が、ちゃんと迎えに来てくれた。
この“ラオルくん”との打ち合わせは事前に“ステラさん”にお願いしておいた。
私の旅行の目的や、旅行のやり方を伝えておいてもらってくれたようなので安心・・・・
なかなかの好青年、何が良いって、前回のドライバーのように無駄口を叩かない。(笑)
生活が大変だからもっとカネが欲しいとか・・・暗に高額のチップを求めるようなことは言わない。(大笑)
「女を紹介しようか?」と、他の日本人と同じような扱いをするという私を見下したような発言もしない。(大笑)
OK!OK!・・・こりゃ、良いドライブが出来そうである。(笑)

まずは市内でガソリンを満タンにする。
約3000ペソ(約6000円)を約束どおり私が支払い、他に高速代として事前に1000ペソ(約2000円)を渡す。

高速道路入口

この「スービック・クラーク・タルラック高速道路」は2008年に日本の援助で作られた新しい高速道路である。
フィリピンの国旗と日本の国旗が描かれた大きな看板が料金所の上に載っている。
ちなみに・・・高速道路の料金所の係員は若い女の子が多く、なぜか皆さんかなりの美人である。(大笑)
日本もこいう美人ばかりを料金所の係員に採用したら、用もないのに高速道路を使いたがる人が増えて“売り上げ”が上がるのではあるまいか?(大笑)
目の保養・・・目の保養・・・(大笑)

お昼頃・・・ウルダネタという町の入り口に到着!
マニラから178km地点である。

ウルダネタの町の入り口

マニラから178km、ウルダネタの中心まであと4km地点
「CITY OF URDANETA」のゲート

このウルダネタという町は、一時期、我が戦車第2師団が配置された場所の一つである。
昭和20年1月9日、ここから西のリンガエンにマッカーサー率いる米軍が上陸した。
それに対して『ウルダネタ地区隊』として戦車第7連隊主力がここに配置された。
昭和20年1月14日頃のことである。

まもなく、町の中心部に到着。
十文字の地点で車を降り、写真を撮影する。
ドライバーには交差点の向こう側まで移動してもらい、私は徒歩で写真を撮りながら移動する。

ウルダネタの十字路

交差点から西を見る。

この道の向こう側(西)から米軍がやって来た。
この道の先には戦車第7連隊第3中隊(実光大尉・九七式中戦車11両、九五式軽戦車1両)の和田小隊(たぶん戦車は3両だったと思う)が配置されていた。
その後ろには戦車第7連隊第5中隊の一部(橋詰中尉・九七式中戦車4両)が配置され、そのさらに後ろに戦車第7連隊の連隊本部が配置されていた。
写真左のビルが建っているあたりに連隊本部があったのではなかろうか?
この他に機動歩兵第2連隊の1個中隊(丸山中尉)や機動砲兵第2連隊(長尾少佐・10センチ榴弾砲4門)主力、工兵1個小隊などが配置されていたようである。
1月17日朝、米第6師団の米歩兵第1連隊が戦車約20両を先頭にをウルダネタを攻撃してきた。
この時、和田小隊は、あえて挺進攻撃をせず、戦車を壕に入れて砲塔を擬装し待ち構えた。
まともに真正面から戦車戦を挑んでもムダなのである。
日本の戦車の徹甲弾は、米軍のM4シャーマン戦車に対して、70mまで近づかねば撃破できなかったという。
こうなると、近づく前に逆にやられてしまうので、擬装して隠れ、敵戦車が70mまで近づくのを待つという待ち伏せ攻撃をせざるを得なかったのだろうと思う。

ウルダネタの十字路

交差点から北を見る

この道路は昔は「国道3号線」と言われていた。
この道を真っ直ぐ北上するとバギオに至る。
この交差点の右側(写真の右側)に戦車第7連隊第1中隊の主力(永渕大尉・九七式中戦車8両)、道の左側(写真の左端)に第3中隊の主力(実光大尉)が展開していた。
米軍の攻撃に対し、この2つの中隊はここから「機動反撃」をしたという。
「機動反撃」とは、、米軍に向かって突撃したということだろう。
この時に実光大尉は、ここで戦死している。

1月17日の夜・・・・
『ウルダネタ地区隊』は、戦車9両と約100体の遺体を残してサンマニュエルへ撤退したという。

ウルダネタを出発して北上、約1時間後、ロザリオという町の手前のレストランで食事をする。
時刻は午後1時・・・

昼食を食べたレストラン
昼食

今回の旅では、基本的に食事代は含まれていない。
食事代は現地で直接私が支払うことになっている。
私とガイドの“ステラさん”、ドライバーの“ラオルくん”の3人で約600ペソ(約1200円)ぐらいだったと思う。
下手に食事代が旅費に含まれてしまうと、自由が利かない・・・
現地払いにしておけば、皆と一緒に好きなものが食べられる。(笑)
というわけで・・・私は基本的に食事代は含めないようにしてもらっている。
“ステラさん”は「食事代はいくらぐらいを考えていますか?」と私の予算を気にするのだが・・・
私は経済観念のない“お坊ちゃま”である。(笑)
「いくらでもいいよぉ~!食べたいものを食べようよ!」と答えるので、彼女は毎回、食事の内容に苦慮してる。(大笑)

レストランの前の道

写真の向こう(北)へ向かって進む

まもなく山道に入る。
この道路は、「ケノン道路」と呼ばれている。
アメリカのケノン大佐が、この道路の開削の指揮をとったので、その名が付けられたのである。
バギオに向かうこの道路の開削には、多くの国の労働者が投入された。
フィリピン人、中国人、カナダ人、ハワイアン、メキシコ人、インド人、チリ人、ペルー人、スペイン人、イタリア人、ロシア人、ドイツ人、フランス人、ポルトガル人、スウェーデン人・・・等々・・・
しかし、どこの国の労働者を使っても上手くいかなかったそうで、最終的に日本人移民労働者が、これに当たり、多くの犠牲者(700名といわれている)を払って、1905年(明治38年)に、この道路が開通したのである。
日本側は戦時中、この道路を「ベンゲット道」もしくは「国道11号線」と呼んでいた。
バギオはベンゲット州なので、ベンゲットと名付けたのだろう。
「ケノン道」とは言わない・・・・
“ステラさん”が「アメリカの大佐の名前が付いている道路だから嫌だったんですかね?」と笑う。
多分、そうだろうなぁ~(笑)

山の斜面を削って道路を作ったのだろうが、今ではかなり広く良い道路になっている。
が・・・一部、まだ狭いところもあり、また、工事中のところが何箇所もあり片側通行の場所も多い。
私が、昨日マニラに一泊したのは、実は、このためなのである。
マニラに到着してから真っ直ぐバギオに向かっても行けない事はないのだが、この山道に達した頃には真夜中近くになる。
こんな崖の斜面を走る道路を夜間には走りたくない。(大笑)
ひとつ間違えれば、奈落の底に転落する。
実際、時々事故も起こっているようである。
命をかけてまで急ぐ旅ではないので・・・(大笑)
マニラに1泊して、午前中に出発するという旅程にしたのである。

キャンプ・スリーという場所に日本軍の慰霊碑がある。
歩兵第71連隊会が昭和57年3月16日に建立したものである。
山の麓からキャンプ・ワン、ツー、スリーと上に向かって“キャンプ”という名称が残っている。
たしか・・・キャンプ・セブンまであったと思う。
これは、多分、この道路を開削する労働者のキャンプ(日本流で言えば飯場)の名残なのかな?

慰霊碑がある場所(車が止まっている所) 慰霊碑

慰霊之碑
昭和五十七年三月十六日
鹿児島歩兵第七十一連隊会建之
遥かな故国
から
永久の
鎮魂と
平和を
常に祈念して
いるのです
DEDICATION
WE, THE LIVING TAKE PRIDE
AND HONOR IN ERECTING
THIS MARKER AS A MONUMENT
FOR THE VALIANT PEOPLES OF
JAPAN AND THE PHILIPPINES,WHO
FOUGHT AND PERISHED IN THIS
PLACE, CAMP 3, FOR THEIR
RESPECTIVE LOYALTIES IN THE
LAST PACIFIC WAR.
MAY IT FITTINGLY SERVE NOW
AS A REMINDER OF THE FAR
MORE REACHING IDEAL PLEDGED
BETWEEN OUR GOVERNMENTS
FOR MUTUAL COOPERATION AND
TRUE FRIENDSHIP.
WORLD WAR Ⅱ VETERANS ASSO-
CIATION OF JAPAN

ERECTED: MARCH 16, 1982

このキャンプ・スリー周辺には、第23師団(旭兵団)の歩兵第71連隊がバギオ防衛のために展開していた。
鹿児島の兵達である。
バギオは日本で言う所の軽井沢のような場所で、避暑地である。
戦前には、フィリピン政府は夏はここへ移動して、バギオで政務を行っていたという。
現在ではエアコンが完備されているから猛暑のマニラから政府が移動するということはないだろうが・・・(大笑)
ダバオにはフィリピン防衛の指揮をとる山下奉文大将の第14方面軍が移動していた。
このバギオを攻撃するために米軍が山を登ってくる・・・
(主力は米歩兵第136連隊だったと思う)
それを途中で迎撃するのが歩兵第71連隊の任務・・・・
この連隊の他にも第23師団隷下の部隊もこのあたりに展開していたようである。

キャンプ・スリーの第3橋梁

キャンプ・スリーの橋梁地区に第23師団工兵第23連隊の一部が配置されていた。
(ということは・・・このあたりかなぁ~という気がする)
昭和20年3月17日の夜、ここ地区の手前に展開していた第23師団歩兵第64連隊の正面に米軍が攻撃を仕掛けてきた。
これに対して工兵隊は斬り込みを敢行・・・
敵の戦車数両を破壊し敵兵数十名を殺傷したが、斬り込みを敢行した工兵隊員は全員戦死した。

ここキャンプ・スリーは激戦地だったのである。

時刻は午後2時・・・
バギオのホテルには午後2時半に到着予定でいたが、ちょっと間に合いそうもない。(汗)

午後2時半にバギオのホテルで、以前ガイドとして一緒に行動を共にしたバギオ在住の“ドミンさん”と待ち合わせを予定しているのだ。
“ステラさん”を通して事前に連絡をしてもらっていたが・・・
当初、彼の携帯の電話番号が変わったのか、連絡がとれないと言う。
旅行社や“ドミンさん”の親戚などと連絡を取ってもらい、ようやく連絡がついたので、今回の再会が実現する。(喜)

“ドミンさん”は、私が初めて一人でフィリピンに来た時にガイドを勤めてくれた“おじいちゃん”である。
もうあれから11年も経つのか・・・・
が・・・平成17年の旅行以来、彼には会っていない。
この時に、一緒に北部ルソンの私の祖父の陣地跡を訪ね山を登ったが、途中で“ドミンさん”が心臓発作を起こしたのである!
この時は、さすがに、私もビックリした・・・(大汗)
その後、ルソン島に引き続き、レイテ島に渡った時には再発することはなかったが・・・
レイテ島では、車で移動中に“ドミンさん”は居眠りのしっぱなしで、ドライバーからも「これでガイドなのか?」と呆れられた。(苦笑)
高齢だから、もう一緒に行動するのは無理だろうと思い、それからはガイドを“ステラさん”に変えたのである。

というわけで・・・“ドミンさん”とは7年ぶりの再会である!(喜)
予定より30分も遅れ午後3時にホテルに到着。
“ドミンさん”はホテルの外に立って待っていてくれた!
「おお!ドミン!久しぶり!」(笑)

まだチェックインには時間があるので、“ドミンさん”を乗せて一緒にイリサンという場所へ向かう。
バギオでの目的の一つに、このイリサンへの訪問を入れておいた。
イリサンに向かう山道・・・バギオから下る感じになるのだが・・・

まだチェックインには時間があるので、“ドミンさん”を乗せて一緒にイリサンという場所へ向かう。
バギオでの目的の一つに、このイリサンへの訪問を入れておいた。
イリサンに向かう山道・・・バギオから下る感じになるのだが・・・

バギオには大きく三方向から町に入る道路がある。
1本は、我々が通ってきた、南からバギオ市内に入る「ベンゲット道」(国道11号線)
もう一つは北からバギオ市内に入る「ボントック道」(国道11号線・バギオ市内を貫いている)
そしてもう一つは西からバギオ市内に入る「ナギリアン道」(国道9号線)である。
我々は、この「ナギリアン道」を下り、イリサンに向かう。

このイリサンという場所のカーブのところで、我が戦車第2師団隷下の戦車第10連隊の戦車2両が、車体の先端に爆薬を装着し、敵のM4シャーマン戦車に体当たり特攻を敢行したのである。
その現場を確認したいというのが、今回、バギオに来た目的の一つである。

“ドミンさん”の案内で、その現場に到着。
彼は「ここが、その特攻をした場所だ」と言うのだが・・・

ナギリアン道

“ドミンさん”は「ここだ」と言うが・・・・

なんとなく地形は似ているが・・・腑に落ちない・・・・
私の資料では、イリサン川に架かる橋を渡り、その先の通称「コブ山」というのが道の左側にあり、その先のカーブが現場のはずだが・・・
橋を渡った記憶がない・・・(苦笑)
確かに左側に「コブ山」っぽい小山があるが・・・私の勘が納得しない・・・(笑)
「ドミン!ここは違うんじゃないか?」
「いや、ここだ」と“ドミンさん”が言い張る。
いや、いや、違うな・・・ここは違う!

ドライバーに、もっと先まで行くように言う。

約5分ほど走ると、前方に橋らしきものが見えたので、ここで車を止め徒歩で確認する。

IRISAN BRIDGE(イリサン橋)

見つけたぞ!(喜)
これがイリサン川にかかる「イリサン橋」である!
標識にもそう書いてある!
ということは・・・この先だな・・・
橋を渡った先の正面に見える小高い山は日本軍の陣地跡である。

山肌に説明板が貼りつけられていた。
WORLD WAR Ⅱ
HISTORICAL LANDMARK
On October 30, 1944 and in this vicinity, the USAFIP
NL, guerrilla combat division of the infantry operating in
North Luzon, bloodlessly rescued then Commonwealth of
the Philippines First Lady Esperanza L. Osmena and party
from Japanese custody and control. They were escorted by
the guerrillas of the 66th Infantry (Composite) along the foot
trails of the Central Cordilleras and safely encamped in
thatch huts among the forested highlands of Kapangan
town, Benguet, untill she and children Ramon, victor and
Rosie were safely reunited in February 1945 with her
husband , then President Sergio Osmena Sr. somewhere in
Central Luzon after the American Liberation Forces
reconquered the province of Pangasinan.
(建立者名等は省略)
イリサン橋を渡って振り返る。

米軍は写真手前から向こう(橋)に向かって進撃。
橋の右側、家が建っているところ、橋の左側の山、いずれも日本軍の陣地跡である。
日本軍はこの橋の周辺を防衛線として、頑強な抵抗をした。

車を適当な場所に停めて、私は徒歩で探すことにする。

“ステラさん”からは、危ないから車で行こうと言われたが・・・・
車に乗って一気に坂を下られたのでは、見つかるものも見つからない。
ここは徒歩で探さねばなるまい。
彼らの忠告はありがたいが、お断りをして、道路を歩く・・・(大笑)
渋々、“ドミンさん”と“ステラさん”が後からついてくる。

2分ほど歩いたら・・・見えた!
まさしく「コブ山」である!(喜)

道路左側にあるのが、通称「コブ山」

“ステラさん”の話によれば、日本から来る慰霊団は、この「コブ山」のところで慰霊祭をしているという。
しかし、戦車による特攻が行われたのは、正確にはこの場所ではない。
この先のカーブの頂点で敵戦車に体当たりをしたのである。
何でここで慰霊祭をしているんだろう?
“ステラさん”は「バスが停めやすい場所だからじゃないでしょうか?」と言う。
カーブのところでは危ないから、便宜上、ここで・・・ということなのだろうか?

問題は、この「コブ山」から先である。
生還者が書き残した当時の説明地図では、この先は大きくS字にカーブしている。
しかし、目の前の道は直線・・・・
別の資料では、戦後、直線に変えたというのだが・・・
山側にあるはずの当時の古い道(旧道)を探したら、細い道が山の中に向かって1本見つかった。
が・・・州政府の管理区域らしく立ち入り禁止らしい立て看板が出ていた。
奥をのぞいてみると、鉄扉と、どうも何かの施設らしき建物が見えた。
とりあえず、ここは後で調査するということにして先を急ぐ。

資料に従えば、「コブ山」の先の一番最初のカーブが体当たりの現場ということになるから・・・
この先に見えるカーブがそうなのかもしれない。
カーブの頂点辺り・・・・
ここが体当たりの現場ではなかろうか?

このカーブからU字型に道路があったはずなので、山側に旧道がないかと見たが、何も見当たらない。
こうなると、果たしてこの資料自体が正しいのかどうか・・・・
生還者もしくは関係者の記憶違いというのもあり得るからなぁ~
少々不安になる。

ここで体当たり特攻を行ったのは、我が戦車第2師団の戦車第10連隊第5中隊の戦車である。
通称「桜井中隊」・・・・
連隊からバギオの第14方面軍に派遣され、方面軍直轄部隊(従来の連隊からの命令ではなく、方面軍の命令で直接動く)となった部隊である。
当時のバギオは、フィリピンのゲリラが多くいて、各所でゲリラ攻撃をしていた。
これに対し、戦車1個中隊があれば、ゲリラは戦車を嫌がるので、彼らの動きを制することが出来るだろうということでバギオに派遣されたらしい。
この第5中隊は、フィリピンに来た時、輸送船が撃沈され戦車を全て失っている。
兵達は海から助け上げられたようだが、戦車がないので、フィリピンで補充を受けたが、台数は少なかったようである。
昭和19年12月5日にバギオに到着し、守備に着く。
この時の兵力は九七式中戦車3両、九五式軽戦車2両しかなかった。
昭和20年4月15日、この中から戦車特攻として九七式中戦車1両と九五式軽戦車1両が選ばれた。
特攻隊員は11名・・・・この中には17~18歳の少年戦車兵も含まれていた。

昭和20年4月17日午前9時半ごろ、山道をやってくる米軍に対して特攻を敢行する。
「第1車」は九五式軽戦車・・・・
「第1車」が突撃をした時、敵の先頭の戦車は慌てて方向転換をしようとして、誤ってこのカーブから崖下に転落した。
「第1車」は次の戦車の脇を通り抜け、その後ろの戦車に体当たりを敢行!
車外員という戦車の上に乗っていた兵2名は、体当たりの寸前に戦車から飛び降り、蒲団爆弾という座布団のような形をした爆弾を抱えてM4シャーマン戦車に突入することになっていたが、そのうちの一人、中山誉雄兵長(17才)は敵戦車の砲弾を浴びて爆発した砲塔と一緒に飛ばされ、奇跡的に生き残った。
「第1車」の操縦手、平野伊孝軍曹は燃え上がる戦車から飛び出し、敵中に飛び込んでいったが敵の機関銃弾を浴び戦死した。

「第2車」は九七式中戦車・・・・
崖下に転落した戦車のすぐ後ろにいた戦車に体当たりを敢行する。
「第2車」の操縦手、平野国雄軍曹は、燃える戦車から日本刀を抜いて飛び出し、敵陣に突っ込んだが、彼も敵の機関銃弾を浴びて戦死したという。
車外員2人のうちの一人、道清茂軍曹は、突撃前に敵の弾を受け、負傷したので、その場に置かれて、近くにタコツボを掘って待機していた「肉攻班」(これも蒲団爆弾を抱えて突っ込む予定の歩兵たち)に収容され、生き残っている。

戦車特攻の編成は以下の通り。
(第1車:九五式軽戦車)
車長:丹羽治一准尉
操縦手:平野伊孝軍曹
銃手:末吉清一伍長
車外員:黒川利美伍長
車外員:中山誉雄兵長(生還)
(第2車:九七式中戦車)
車長:西利良曹長
操縦手:平野国雄軍曹
砲手:浜野音蔵軍曹
銃手:四方驥兵長
車外員:道清茂軍曹(生還)
車外員:田村平一兵長

特攻隊員11名のうち9名がこの体当たり攻撃で戦死した。

沿道にタコツボを掘って敵の戦車に体当たりをする予定の「肉攻班」は、敵の猛烈な機銃掃射を受け、頭も上げられない状態のため、特攻を諦めたそうであるが・・・
壮絶な特攻を目の当たりに見て逃げ出したという話をどこかで聞いたか読んだかした記憶がある。
この特攻攻撃で、米軍のバギオ進入は、かなり遅れたそうである。
時間稼ぎにはなったが、犠牲は大きかった・・・
このイリサンでは約6日間に亘って攻防戦が展開されたらしい。
バギオから、とにかく健康な兵士を1500名以上送り出したそうだが、戦場に到着した兵は500名程度だったらしい。
はて?・・・その他の兵達はどこへ行ってしまったのだろうか?(大汗)

カーブの頂点から、西方向(米軍がやって来た方向)を見る。

当時は今より道路幅は狭かったと思うが・・・・
やって来たのは、M4シャーマン戦車を先頭にした米歩兵第148連隊の2個中隊の車列だったと思う。
この道にズラリとトラックが並んだのだろう。

気になるのは、体当たりをした戦車のことである。
道路上には炎上する日米両戦車4両が道を塞いでいたはずである。
これを撤去するとすれば、崖下に突き落とすという方法を取ったのではあるまいか?
ブルドーザーとかM4シャーマン戦車で押して・・・・
もし、そうなると、このカーブの崖下に日本軍の戦車が今でもあるという可能性があるのではあるまいか?
車内には戦死した戦車兵の遺骨が今も残っているのではあるまいか?
道路上で戦死した戦車兵の遺体も崖下に投げられた可能性もある。
戦後、戦車を崖下から引き上げるなんていう面倒なことはしなかったのではあるまいか?
そう思うと、今も崖下の樹林の中に眠っているような気がしてならないのである。
確かめる術はないだろうか・・・・

念のため、このカーブの先までずっと歩いてみる。
もしかして、同じような景色があったら、私の勘違いということになる。
が・・・小さな集落が現れてきたので、やっぱり“現場”はさっきのカーブのところだろう。
で・・・戻ろうとしたら・・・・
どうやら“ステラさん”が携帯電話で運転手と連絡をとったらしい。
車が迎えに来た!
もうこれ以上、歩かされたら堪らん・・・ということなのかな?(大笑)

帰り道、歩きながら旧道を探したかったのだが・・・・
車が迎えに来たのでは無視はできない。(涙)
やむなく、車に乗り、バギオ方面へ坂道を登る・・・
一気に走るので、やはり車内からは確認できなかった・・・・(涙)
また機会があったら、もう一度訪れて再調査したいと思う。

バギオ市内に向かってナギリアン道を登る・・・・
市内に入る手前に「日本人墓地」がある。
明治の末に、ベンゲット道建設のため移住し、病や事故で亡くなった方々が葬られている場所である。
ここにも立ち寄ることにした。
9年ぶりの再訪問である。

ナギリアン道からみた旧日本人墓地

当時は「日本人墓地」と呼ばれていたが、現在では現地人の墓が増え、日本人の墓石はわずかに残るのみである。
現在では『パブリック墓地』となっている。
当時の「日本人墓地」の規模がどのくらいだったのかは知らないが、この墓地も激戦地である。
ここは、バギオ市内に入る米軍を阻止する“最後の砦”だった。

慰霊堂と日本人の墓所

慰霊堂の説明文・・・・

 1903年(明治36年)日本からの最初の
移住者達は 各国の労務者と共にケノンロード
の建設にあたった。一時は総勢千五百名にも達
した日本人労務者の 三分の一も死亡するほど
の筆舌に尽し難い困難を乗り越えて、遂にこれ
を開通させ、バギオ市の発展に大いに貢献した。
 ケノンロードの完成後は、フィリピン各地に
開拓移民として定住し、殖産興業に努めた。
このようにして、第一次、第二次世界大戦前に
この国に定住した邦人と、道路建設なかばに
他界した日本人が、フィリピンの人々と共に
いかに生き、彼等の福祉にいかに貢献したかを
永久に語り伝え、その精神を継承するために
この慰霊堂を建立した。

1983年2月19日

現在残っている「日本人墓地」は、この狭い一画のみである。
墓石は戦前のものである。
ここには「先亡同胞諸精霊菩提塔」というのが建っている。

先亡同胞諸精霊菩提塔

この塔には大正11年5月1日にバギオ日本人会によって建立されたと刻まれている。
が・・・更に・・・
「内閣総理大臣 陸軍大将 男爵 田中義一閣下 寄建」とも刻まれている。
田中義一総理大臣が寄贈したということなのだろうが・・・
大正11年の時点で、田中義一は陸軍大将ではあったが、総理大臣ではない。
陸軍大臣を務めていたが、大正10年に辞任している。
彼が軍人から政界へ転じたのは大正14年になってからで、昭和4年になって内閣総理大臣となっている。
ということで・・・建立したとされる日付と合わない・・・(汗)
これは昭和に入ってから再建したということか、それとも後から総理大臣の名前を拝借して刻み込んだのか?

ナギリアン道のイリサンにおける戦車特攻とイリサン橋周辺の戦闘で、米軍は約1週間ほど足止めを食ったらしいが、米軍は日本の防衛線を撃破して更に進撃してきた。
ベンゲット道のキャンプ・スリーで戦っていた歩兵第71連隊は、第23師団(旭兵団)の命令により、昭和20年4月19日、イリサン方面に転用される。
が・・・この段階では既にイリサン方面の戦闘は最終段階・・・
結局、バギオの防衛戦に投入されることとなる。

戦車特攻を行った、我が戦車第2師団(撃兵団)の戦車第10連隊第5中隊(桜井中隊)は、昭和20年4月23日に、第14方面軍の命令により、この「日本人墓地」に出撃した。
この時の桜井中隊の手元にあった戦車は、九七式中戦車2両、九五式軽戦車1両の合計3両・・・
しかし、九五式軽戦車は故障のため使えず、結局九七式中戦車2両だけの出撃となった。
情けないことに、この、たった2両の戦車がバギオ防衛の切り札なのである。
対する米軍のM4シャーマン戦車は60両ほどが進撃してきたという。
悲壮な出撃と言わざるを得ない・・・
桜井中隊長は、中隊の総力をもって出撃することを決し、戦車に乗らない中隊員約60名は、蒲団爆弾を抱えて敵戦車に肉弾特攻をすることとなった。
これら「肉攻班」は白鉢巻を締め、自動貨車(今で言うトラック)2台に分乗して出撃したという。

途中で、キャンプ・スリーから撤退してきた歩兵第71連隊の「肉攻班」を指揮下に入れる。
この肉弾特攻をする歩兵たちは第10中隊(中隊長:大山正一中尉)の兵達である。
彼らも従えて、車体に火薬入りのドラム缶を括り付けた戦車2両が「日本人墓地」に向かって進む。
昭和20年4月22日の朝・・・
米軍がナギリアン道の周囲、崖の斜面などに対して砲撃を開始する。
道路の脇、崖の斜面に蒲団爆弾を抱えて待機している「肉攻班」がいると見ての砲撃だったのだろう。
22日の夜になり・・・
桜井中隊以下の特攻隊は、「日本人墓地」にまで進出して露営していた米軍に対して特攻攻撃を敢行!

この時、桜井中隊長は、部隊を2つに分けた。
右側を進むのが中隊長車の戦車1両と「右肉攻班」・・・・
左側を進むのは、もう1両の戦車と「左肉攻班」・・・

この時、桜井中隊の中隊長、桜井隆夫大尉は戦車に乗らず、白鉢巻と背中には十字に白襷をして徒歩で戦車の前を歩き、後続してくる右側を進む戦車と「右肉攻班」の指揮をとった。
夜間の戦車の移動は難しく、徒歩で誘導したほうが良いと見てのことだったのだろう。
そして・・・「日本人墓地」に突っ込み乱戦となる。
桜井中隊長は、左胸に敵弾を受けて戦死・・・
桜井大尉の遺体を2両の戦車のうちの1両、中隊長車の上に乗せて、更に突っ込む。
左側を進むもう1両のほうは、途中で穴に落ちて動けなくなり、その場所から戦車砲と機銃を撃ちまくったという。
この戦車に乗っていたのが誰だったのかは資料が残っていないので残念ながら不明である。

桜井中隊長の遺体を乗せたまま走り回ったのは・・・このあたりか?
向こうに見える家の建っている小山は日本軍の防衛陣地跡である。

桜井中隊長の遺体を乗せた「右攻撃隊」の戦車は、「日本人墓地」からナギリアン道へ出て逃げるM4シャーマン戦車を追った。
この時に、山の裾野に隠れていたM4シャーマン戦車に至近距離から横っ腹を撃たれ、桜井中隊長の遺体を乗せたまま炎上したという。
この戦車を指揮していたのは松下康治少尉・・・・残念ながら、その他の乗員の名前は資料が残っていないのでわからない。

旧・日本人墓地の入り口
「日本人墓地」の入り口から見た墓地の前の道(ナギリアン道)
この道の先のほうで、桜井中隊長の遺体を乗せた中隊長車が敵の攻撃を受け炎上した。

もう少し、この周辺を散策して、更には、このナギリアン道を歩いて調べてみたかったのだが・・・
“ステラさん”が嫌な顔をするのである。(苦笑)
私に万が一のことがあっては・・・と心配するのである。
墓地の中でも現地人が何人も寄ってきて、物乞いしたり、何かを売りつけようとしたりと大変であった。
“ステラさん”としてはサッサと車に乗ってもらいたいらしい・・・
私としては、寄ってくる現地人を怖いとは思っていないので、別に平気なのだが・・・
それより徒歩で調べねば、当時の状況がわからないではないか。
もう生還者がこの地を案内してくれるなどということはあり得ないのだ。
自分の足で調べねばと思うのだが、それをなかなか許してもらえないのには閉口した。(涙)
車もピタリと私に寄り添うようにして走る・・・
写真を撮るのに邪魔になるから付いて来るなと命じて・・・
「もう少し先まで、ちょっと歩いてみるから・・・」と言うと、みんながギョッとした顔をして・・・その後、呆れ顔になる。(大笑)
何がそんなに楽しいのか・・・と思っているのだろうが・・・
私の頭の中に浮かんでくるのは昭和20年の当時の様子しかないのである。(笑)

左側から攻撃を仕掛けた「左肉攻班」は藤田秀史少尉(戦後生還)であるが、敵の銃火が激しく動きが取れない。
多分、敵の戦車に近づくことが出来なかったのだろう。
夜が開けてしまったら全滅は必至であるので、夜のうちに闇にまぎれて撤退した。
この時の残存兵力は約40名・・・・
桜井中隊長以下約20名が戦死したため、第14方面軍司令部から原隊(戦車第10連隊)への復帰を命じられた。
生存者たちは自動貨車2両に分乗して「山下道」を使い、北部ルソンのアリタオへ向かう。
「山下道」は第14方面軍の山下奉文大将が作らせた補給路だったので、その名が付いた。
アリタオには兵站基地や病院があった。
この道は、以前は、車も通れないほど荒れ果てて獣道のようになっていたようであるが、最近、車が通れるように道が整備されたという。
いつか、この道を走ってみたいと思う。
「山下道」を使いアリタオに到着した残存兵は、原隊である戦車第10連隊の本隊がサラクサク峠で戦っていることを知り、戦闘に堪えられるもの約20名で現地に向かったらしい。
この頃、サラクサク峠では戦車第10連隊の原田連隊長と、捜索第10連隊長である私の祖父が、共同で米軍と戦っていたのである。
この約20名の第5中隊の残存兵達が無事にサラクサク峠に到着したのか、その後どうなったのか・・・資料が残っていないのでわからない。
少なくとも祖父の部隊に配属になったという話は聞いたことはない・・・


  


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