重巡 羽黒 はぐろ


軍艦羽黒戦没者慰霊碑


軍艦羽黒戦没者慰霊碑
(長崎市佐世保市・佐世保東山海軍墓地


昭和46年3月建之



(平成20年11月23日)

軍艦羽黒

昭和4年三菱長崎造船所に於て当時最新鋭重巡として進水
帝国海軍の精鋭として常に我が国海上防衛の第一線に在り
大東亜戦争勃発するや比島攻略戦に従事
以来スラバヤ沖海戦珊瑚海々戦第二次ソロモン海戦ブーゲンビル島沖海戦等主要海戦に従事し赫々たる武勲を樹たり
然れども昭和20年5月16日このとき日本艦隊既に影なく羽黒は駆逐艦神風を従へ陸海の将兵が孤立するアンダマン諸島に輸送作戦中戦艦を含む30余隻の英国機動部隊と交戦
緒戦克く駆逐艦を轟沈し志気いよいよ旺んなるも羽黒も又雷撃を受け操艦意の如くならず勇戦奮斗1時間有余
衆寡敵せず遂にその勇姿を橋本第5戦隊司令官杉浦艦長以下8百余名の将兵とともに波高き印度洋に没せり
時将に午前3時35分

併記
戦後交戦せし英国司令官をして日本海軍の精華なりと称賛せしめたりと謂う

(碑文より)

軍艦羽黒舷窓枠




軍艦羽黒 舷窓枠






(平成20年11月23日)

軍艦羽黒舷窓枠

西暦2006年3月 福島県いわき市 堀 龍一氏ら世界的ダイバーグループによって、マラッカ海峡ペナン島南西48浬 水深64mに 戦没している軍艦羽黒 艦橋前方左舷側上甲板より、60年振りに引き揚げられたものです。
(素材真鍮・内径31cm・重さ約9kg)

軍艦羽黒会

(説明板より)

軍艦羽黒戦没者慰霊碑

一等巡洋艦
妙高型1万トン重巡4隻中の4番艦として昭和4年4月25日三菱長崎造船所で竣工。
同日付で佐世保を本籍と定められた。

大東亜戦争が勃発すると、比島攻略戦、スラバヤ沖・珊瑚海・第二次ソロモン・ブーゲンビル島沖・マリアナ沖及びレイテ沖の各海戦に参加して活躍。
昭和20年5月14日、羽黒は第5戦隊司令官橋本中将が座乗し、駆逐艦神風を率いて輸送物資を搭載してアンダマンに向けシンガポールを出撃。
15日正午過ぎに敵哨戒機に接触される。
午後1時30分には敵艦隊出現の情報電も入手した。
このため一時退避することとしてペナンの方向に向首。
16日午前零時10分、間もなくマラッカ海峡に入ろうとする時、敵(英国)駆逐隊と至近距離で遭遇。
直ちに左砲戦。
主砲の二斉射目が敵の1番艦に命中して、これを轟沈。
2番艦に目標を変えようとした時、前部砲塔下に魚雷を受けた。
速力が急速に落ち、艦は左に30度傾斜。
敵弾は絶え間なく命中し、機械室にも魚雷が命中して航行不能となる。
敵駆逐艦3隻は停止中の羽黒の周囲を廻りながら砲火を浴びせた。
ついに前甲板は海中に没し、左に大きく傾斜。
総員退去が令せられたが乗員は勇を振るって最後まで射撃を続けていた。
5月16日午前3時25分、ペナン沖合ムカ岬の南西48浬の地点で沈没。
320名が神風に救助されたのみで、橋本司令官、杉浦艦長以下800余名は艦と運命をともにした。
碑は昭和46年5月16日に建立。
平成17年3月ペナン沖水深64メートルの海底から引き揚げられた羽黒の艦橋左舷舷窓枠が慰霊碑正面に装着されている。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


【妙高型】

巡洋艦の排水量を1万トンに抑えたワシントン条約会議の翌年、条約巡洋艦である1万トン巡洋艦が発足した。
これが妙高型である。
主砲は20センチ砲10門を5砲塔に収め、防御は古鷹型とよく似ているが更に重防式を取り入れた。
速力は35ノットで米英のものより高速。
魚雷発射管12門は中甲板に置かれた。
妙高型は強度、復原性も良好であった。

(要目)(妙高・昭和16年)
公試排水量:1万4984トン
機関出力:13万2830馬力
速力:33.88ノット
航続力:14ノットで7463海里
乗員数:891名
兵装:20.3cm連装砲×5
    12.7cm連装高角砲×4
    25mm連装機銃×4
    13mm連装機銃×2
    61cm4連装魚雷発射管×4
飛行機:射出機×2、偵察機×3

(同型艦)

妙高(昭和4年7月31日竣工〜終戦時残存・海没処分)
那智(昭和3年11月26日竣工〜昭和19年11月5日戦没)
足柄(昭和4年8月20日竣工〜昭和20年6月8日戦没)
羽黒(昭和4年4月25日竣工〜昭和20年5月16日海没)

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)
(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


羽黒

南方作戦においてセレベス方面攻略作戦支援隊の一艦として参加。
昭和19年(1942年)2月27日、スラバヤ沖海戦において、重巡那智と共同して英重巡エクゼター、米重巡ヒューストン、その他を撃破。
珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦に参加。
比島沖海戦には、栗田部隊の一艦としてサマール沖海戦に参加し奮戦した。
昭和20年(1945年)5月16日、ペナン沖にて英空母シャーの搭載機による爆撃を受けて損傷したのち、英駆逐艦群5隻の攻撃により魚雷3本が命中して午前2時32分沈没。
生存者は320名。
神風に救助されてシンガポールに着く。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


スラバヤ沖海戦

昭和17年(1942年)2月27日〜28日

日本軍 艦隊編制
 第5戦隊 司令官:高木武雄少将
重巡洋艦 那智 羽黒
駆逐艦 潮 漣 山風 江風
第2水雷戦隊 司令官:田中頼三少将 
軽巡洋艦 神通
駆逐艦 雪風 時津風 初風 天津風
第4水雷戦隊 司令官:西村祥治少将
軽巡洋艦 那珂
駆逐艦 村雨 五月雨 春雨 夕立 朝雲 峯雲
別働隊(蘭印作戦主隊) 司令官:高橋伊望中将
重巡洋艦 足柄 妙高
駆逐艦 雷 曙
第3航空戦隊 司令官:角田覚治少将
空母 龍驤
駆逐艦 敷波
輸送船:38隻

スラバヤ沖海戦・2月27日の昼戦(16時12分〜17時15分)

日本軍:第5戦隊・第2水雷戦隊・第4水雷戦隊
連合軍:ABDA打撃艦隊(米・英・蘭・豪)

16:12、英・駆逐艦『エレクトラ』が東部ジャワ攻略部隊を発見。
彼我艦隊の巡洋艦同士の砲戦が始まり、続いて雷撃戦が展開。
17:15、蘭・駆逐艦『コルテネール』が真っ二つに折れて轟沈。
18:00、英・駆逐艦『エレクトラ』が沈没。
18:20頃、高木司令官は追撃を中止し、輸送船を掩護しながら、夜戦に備えて陣形を整える。

ABDA打撃艦隊は、戦闘中に自艦の爆雷が落下して爆発し艦尾を損傷した蘭・駆逐艦『ウイッテ・デ・ウィット』を大破した英・重巡洋艦『エクセター』の護衛に付けてスラバヤへ向わせた。
米駆逐艦4隻は、昼戦で離れ離れになり主隊と合流できず、魚雷を使い切り燃料も少なくなってきたため、独自にスラバヤ行きを決める。
英・駆逐艦『ジュピター』は、味方が敷設したと思われる機雷で沈没。
英・駆逐艦『エンカウンター』は米・重巡洋艦『ヒューストン』が人道的見地から打ち上げた照明弾のおかげで、沈没した蘭・駆逐艦『コルテネール』の生存者113名を救助し、スラバヤへ向う。

スラバヤ沖海戦・2月28日の夜戦(23時00分〜23時47分)

日本軍:重巡洋艦『那智』『羽黒』
連合軍:米・重巡洋艦『ヒューストン』、蘭・軽巡洋艦『デ・ロイテル』『ジャワ』、豪・軽巡洋艦『パース』

23:00、巡洋艦4隻となったABDA打撃艦隊は『那智』と『羽黒』に遭遇、砲戦が開始された。
23:22、『那智』『羽黒』の両艦は計12本の魚雷を発射。
旗艦である蘭・軽巡洋艦『デ・ロイテル』と同じく蘭・軽巡洋艦『ジャワ』が被雷して沈没。
指揮官のドールマン少将は艦と運命を共にする。
米・重巡洋艦『ヒューストン』と豪・軽巡洋艦『パース』はバタヴィアに向って離脱。

この海戦での日本側の損害は、駆逐艦『朝雲』が大破したのみ。

その後

スラバヤへ逃げ込んだ英・重巡洋艦『エクセター』は応急修理ののち、英・駆逐艦『エンカウンター』と米・駆逐艦『ホープ』とともにセイロン島への脱出を試みるが、3月1日、日本艦隊・別働隊(重巡洋艦『足柄』『妙高』駆逐艦『雷』『曙』)に捕捉され、昼過ぎまでに全艦が撃沈された。

バタヴィアに逃げ込んでいた米・重巡洋艦『ヒューストン』と豪・軽巡洋艦『パース』は、再編成のためチラチャップへ向う。
途中で発見したバンタン湾の日本の大輸送船団(輸送船56隻)の攻撃に向ったが、日本側の迎撃により3月1日に両艦とも撃沈された。(バタヴィア沖海戦)

(参考:『歴史群像 2012年8月号』)

(平成25年10月21日 追記)




 トップページに戻る   陸海軍部隊リストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送