重巡 妙高 みょうこう


軍艦妙高戦没者慰霊碑



軍艦妙高戦没者慰霊碑

(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

建碑のことば

軍艦妙高は昭和4年 最新鋭の重巡洋艦として世界注視の中に横須賀海軍工廠で建造
その秀れた性能とシャープな艦型は まさに日本刀の鋭さと美しさであった
国運を賭けた大東亜戦争が起こると比島作戦を始め スラバヤ 珊瑚海 ミッドウェー アリュウシャン ソロモン サイパン等々の大海戦に参加し スラバヤ沖海戦では英重巡エクゼター及び駆逐艦2隻を屠る赫々たる戦果をあげた
だがマララグ湾では米軍機の爆撃によって40余名が戦死傷し シブヤン海及びサイゴン沖では米軍機米軍潜水艦の雷撃をうけて多数の戦死者を出した
昭和20年終戦をむかえ連合軍の命によってマラッカ海峡で注水しその勇姿を永久に海底に没したのである
時に昭和21年7月14日
以来28有余年これらのことも今や既に国民の脳裏から消えようとしている
ここにおいて我々は妙高の輝やかしい武勲を伝え国に殉じた70余名の戦友の霊を慰さめ かつは祖国日本の永久平和を祈念するため ここにこの碑を建てるものである
艦よ 英霊よ 静かに眠れかし

昭和48年9月15日
軍艦妙高生存者一同
各界有志一同

(碑文より)

軍艦妙高戦没者慰霊碑

一等巡洋艦
妙高型重巡4隻のネームシップ。
昭和4年7月31日横須賀工廠で竣工。
昭和9年11月15日呉から佐世保に移籍された。

妙高は支那事変中は海南島攻略作戦などに従事し、大東亜戦争ではスラバヤ、珊瑚、ミッドウェー、アリューシャン、ソロモン、サイパン、比島沖などの各海戦に参加して戦果を挙げた。
昭和19年10月24日のレイテ沖海戦では栗田中将の第1遊撃部隊に属してレイテ湾に迫った。
艦隊は午前10時過ぎから敵艦載機群の猛攻を受ける。
10時29分、妙高は右舷から雷撃を受け、後部に命中。
発電機室、右舷機械室などが満水し、傾斜も15度になり、速力は18ノット以下に落ちた。
この時、23名の戦死者を出している。
妙高はレイテに向かうことを中止し、コロンを経てブルネイに入り、更にシンガポールに向かって同地に11月3日入港。
妙高はセレター軍港で修理復旧に従事した結果、片舷だけで20ノットは出せるようになる。
あとは内地で本格的修理に従事することになり、駆逐艦『潮』の護衛のもと佐世保に向かい、昭和20年2月22日に出港。
翌23日、マレー半島に沿って北上中の夕刻、敵潜『バーガル』の雷撃を受け、魚雷は5番砲塔の後の水線下に命中、後部が切断される。
この時、12名の戦死者が出た。
妙高は機械、舵とも利かず錨を下ろし、3日間は火災と浸水遮防に努めなければならなかった。
28日早朝、僚艦の『羽黒』が救援に駆け付け、同艦に曳かれて再びセレターに入港。
入港したものの被害は余りに大きく、また工作部の修理能力以上であったため、遂に本艦は海上戦闘に復帰することを断念。
陸揚げ可能な武器はすべてセレターの各砲台などに揚げられ、乗組員の大部分は陸戦隊となって日夜陣地構築と訓練に励んだ。
やがて終戦となり、妙高は英海軍の指令により海没処分されることになる。
昭和21年7月5日、マラッカ海峡最深部に引き出され、錨鎖を一杯伸ばして投錨。
まず注水され、上甲板線まで沈んだところで爆薬に点火された妙高は次第に沈下した。
時に昭和21年7月14日午前0時14分。
碑は昭和48年9月15日建立された。
戦没者90余名を祀る。

碑歌

泣くにあらず 悲しむにあらず
若き日の命捧げし 君よ 武人の鑑なる
今平和甦る日に 過ぎし戦場の惨烈を想い
水漬く屍の君を憶ふ
潮騒と倶に 尽くることなし

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

 佐世保東山海軍墓地休憩所展示写真


【妙高型】

巡洋艦の排水量を1万トンに抑えたワシントン条約会議の翌年、条約巡洋艦である1万トン巡洋艦が発足した。
これが妙高型である。
主砲は20センチ砲10門を5砲塔に収め、防御は古鷹型とよく似ているが更に重防式を取り入れた。
速力は35ノットで米英のものより高速。
魚雷発射管12門は中甲板に置かれた。
妙高型は強度、復原性も良好であった。

(要目)(妙高・昭和16年)
公試排水量:1万4984トン
機関出力:13万2830馬力
速力:33.88ノット
航続力:14ノットで7463海里
乗員数:891名
兵装:20.3cm連装砲×5
    12.7cm連装高角砲×4
    25mm連装機銃×4
    13mm連装機銃×2
    61cm4連装魚雷発射管×4
飛行機:射出機×2、偵察機×3

(同型艦)

妙高(昭和4年7月31日竣工〜終戦時残存・海没処分)
那智(昭和3年11月26日竣工〜昭和19年11月5日戦没)
足柄(昭和4年8月20日竣工〜昭和20年6月8日戦没)
羽黒(昭和4年4月25日竣工〜昭和20年5月16日海没)

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)
(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


スラバヤ沖海戦

昭和17年(1942年)2月27日〜28日

日本軍 艦隊編制
 第5戦隊 司令官:高木武雄少将
重巡洋艦 那智 羽黒
駆逐艦 潮 漣 山風 江風
第2水雷戦隊 司令官:田中頼三少将 
軽巡洋艦 神通
駆逐艦 雪風 時津風 初風 天津風
第4水雷戦隊 司令官:西村祥治少将
軽巡洋艦 那珂
駆逐艦 村雨 五月雨 春雨 夕立 朝雲 峯雲
別働隊(蘭印作戦主隊) 司令官:高橋伊望中将
重巡洋艦 足柄 妙高
駆逐艦 雷 曙
第3航空戦隊 司令官:角田覚治少将
空母 龍驤
駆逐艦 敷波
輸送船:38隻

スラバヤ沖海戦・2月27日の昼戦(16時12分〜17時15分)

日本軍:第5戦隊・第2水雷戦隊・第4水雷戦隊
連合軍:ABDA打撃艦隊(米・英・蘭・豪)

16:12、英・駆逐艦『エレクトラ』が東部ジャワ攻略部隊を発見。
彼我艦隊の巡洋艦同士の砲戦が始まり、続いて雷撃戦が展開。
17:15、蘭・駆逐艦『コルテネール』が真っ二つに折れて轟沈。
18:00、英・駆逐艦『エレクトラ』が沈没。
18:20頃、高木司令官は追撃を中止し、輸送船を掩護しながら、夜戦に備えて陣形を整える。

ABDA打撃艦隊は、戦闘中に自艦の爆雷が落下して爆発し艦尾を損傷した蘭・駆逐艦『ウイッテ・デ・ウィット』を大破した英・重巡洋艦『エクセター』の護衛に付けてスラバヤへ向わせた。
米駆逐艦4隻は、昼戦で離れ離れになり主隊と合流できず、魚雷を使い切り燃料も少なくなってきたため、独自にスラバヤ行きを決める。
英・駆逐艦『ジュピター』は、味方が敷設したと思われる機雷で沈没。
英・駆逐艦『エンカウンター』は米・重巡洋艦『ヒューストン』が人道的見地から打ち上げた照明弾のおかげで、沈没した蘭・駆逐艦『コルテネール』の生存者113名を救助し、スラバヤへ向う。

スラバヤ沖海戦・2月28日の夜戦(23時00分〜23時47分)

日本軍:重巡洋艦『那智』『羽黒』
連合軍:米・重巡洋艦『ヒューストン』、蘭・軽巡洋艦『デ・ロイテル』『ジャワ』、豪・軽巡洋艦『パース』

23:00、巡洋艦4隻となったABDA打撃艦隊は『那智』と『羽黒』に遭遇、砲戦が開始された。
23:22、『那智』『羽黒』の両艦は計12本の魚雷を発射。
旗艦である蘭・軽巡洋艦『デ・ロイテル』と同じく蘭・軽巡洋艦『ジャワ』が被雷して沈没。
指揮官のドールマン少将は艦と運命を共にする。
米・重巡洋艦『ヒューストン』と豪・軽巡洋艦『パース』はバタヴィアに向って離脱。

この海戦での日本側の損害は、駆逐艦『朝雲』が大破したのみ。

その後

スラバヤへ逃げ込んだ英・重巡洋艦『エクセター』は応急修理ののち、英・駆逐艦『エンカウンター』と米・駆逐艦『ホープ』とともにセイロン島への脱出を試みるが、3月1日、日本艦隊・別働隊(重巡洋艦『足柄』『妙高』駆逐艦『雷』『曙』)に捕捉され、昼過ぎまでに全艦が撃沈された。

バタヴィアに逃げ込んでいた米・重巡洋艦『ヒューストン』と豪・軽巡洋艦『パース』は、再編成のためチラチャップへ向う。
途中で発見したバンタン湾の日本の大輸送船団(輸送船56隻)の攻撃に向ったが、日本側の迎撃により3月1日に両艦とも撃沈された。(バタヴィア沖海戦)

(参考:『歴史群像 2012年8月号』)

(平成25年10月21日 追記)


レイテ沖海戦

【昭和19年10月24日】

「右舷艦尾に被雷。ワレ最大速力15ノット」
重巡「妙高」が魚雷にやられた。
15ノットでは艦隊から離脱せざるを得ないだろう。
米軍の第一次攻撃は20分ほど間断なくつづき、ようやく11時前になって引き揚げていった。
被雷した「妙高」はコロンを経てブルネイへの帰投が命ぜられた。
「妙高」の被害はその後次第に増大し、運転可能の推進軸は1軸となり、速力はさらに低下していった。
同艦に同乗していた橋本第5戦隊司令官は、旗艦を「羽黒」に移し「妙高」は単独反転せざるを得なかった。
艦内では必死の応急処置がつづけられ、注水により傾斜も6.5度まで復原し、速力も18ノットまで回復した。

(参考:小島精文 著 『栗田艦隊』 1979年4月・2版発行 図書出版社)

(平成27年7月29日・追記)




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