桜花


【特別攻撃機「桜花おうか」】

昭和19年(1944)に海軍航空技術廠が設計した機体。
大田正一海軍少尉の提唱により、陸上爆撃機「銀河」を担当した三木忠直技術少佐が設計した日本初のロケット推進の航空特攻兵器。
昭和19年8月の設計開始から1ヶ月で1号機が完成した。
しかし、航続距離が短く、母機の一式陸上攻撃機の問題もあり、戦果はわずかだった。

採用時期:昭和19年(1944)
製造:海軍航空技術廠(空技廠)
搭乗員:1名
発動機:四式1号20型(火薬ロケット・推力800キロ)×3
最大速度:648キロ/時
飛行距離:37km
武装:爆弾(爆薬)1200kg
生産機数:755機

(参考:『歴史読本』 2012年8月号)

(平成29年4月6日 追記)


桜花 平成18年11月22日

ロケット特攻機『桜花11型』

ロケット特攻機「桜花」は、大東亜戦争末期において海軍が開発した特攻機である。
母機ぼきである一式陸上攻撃機の爆弾倉に懸吊けんちょうされた状態で目標近くまで運ばれる。
この間に桜花操縦士は母機搭乗員との打ち合わせを済ませ、桜花に移乗し待機する。
桜花の搭乗席と母機との間にはモールス信号の装置があり、準備完了後、『・・・−・ トントントンツートン』の合図と同時に投下される。
桜花は機首を下げながら暫時ざんじ加速し、高度が1000メートル落ちたあたりで、最良滑空速度(最も遠くまで飛べる速度)の250から260ノットに達する。
その後、飛行距離の延伸えんしんまたは増速などの必要に応じて尾部の火薬ロケットに点火して噴進ふんしんし(燃焼時間9秒のロケットが3本)、敵艦の吃水きっすい線あたりを狙って操縦士もろとも突入する。
弾頭の1200キログラムの徹甲弾てっこうだんは戦艦や航空母艦の装甲を貫いて艦体内部で爆発するように極端な遅動信管ちどうしんかんが装備されており、1発でこれらの大型艦船を撃沈できるとされていた。
尚、実戦使用にはいたらなかった「桜花43型」では、ジェットエンジンも採用された。

(説明板より)

桜花11型 MXY8 (特別攻撃機)

全巾 5.00m
全長 6.066m
全高 1.16m
兵装 高性能爆薬 1.2t
馬力 推力800kg.×3 4式1号20型火薬ロケット
最大速度 473kt
航続距離 37km.
総重量 2.14t

桜花11型



桜花11型
(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)
桜花11型



桜花11型
(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)

 平成18年11月11日

ジオラマ



ジオラマ
(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)

神雷部隊沖縄の米艦隊攻撃ジオラマ

昭和16年12月8日、わが国は米国及び英国に対し戦を宣し大東亜戦争に突入した。
緒戦においては、中部太平洋から印度インド洋に亘わたる広大な地域で赫々かくかくたる戦果を挙げたが、連合軍の態勢は次第にわが国に不利に傾き、遂に昭和19年には内南洋うちなんようの要衝ようしょうを占領され、遠からず日本本土での決戦が予想される深刻な事態となった。
当時、わが国は戦争遂行に必要な資源も漸ようやく枯渇こかつしてきたばかりでなく、人材の喪失そうしつによって部隊の練度れんども逐次低下をきたしていたのに反し米軍は航空母艦を基幹とする大機動部隊を擁ようし、上陸作戦用艦艇も益々増強整備されつつあった。
わが海軍は、このような劣勢を挽回するため、通常兵力の増強を図る一方、苦悩の末、一人克く1艦、1船を屠ほふるため、必死の水中、水上、航空各種特攻兵器を採用し、19年8月全海軍航空隊から、その操縦士を極秘裡に募集、同年10月、作戦部隊として第721海軍航空隊を新編した。
本航空隊は、神雷部隊の別称を持ち、桜花機とその懸吊けんちょう母機一式陸上攻撃機、これを掩護えんごする零式艦上戦闘機の各飛行隊の他、これらと連帯して作戦する彗星すいせい艦上爆撃機隊及び地上部隊によって構成され、その作戦の成否は、祖国の命運を左右するものとして期待された。
神雷部隊は、連合艦隊直率じきそつのもと、当初比島方面作戦に使用される予定であったが、機会を失し、後に、西日本防衛のため編成された第5航空艦隊の麾下きかとして、20年3月、九州方面に来襲した敵機動部隊に対し、第1回神雷桜花攻撃を敢行した。
爾後じご沖縄攻防戦から終戦に至るまで爆装ばくそう零戦特攻機と共に神雷桜花攻撃を反復実施し、その凄絶せいぜつな戦法は、米軍将兵を戦慄せんりつさせた。
本ジオラマは、沖縄本島周辺の米艦隊に突入する神雷特別攻撃隊の状況を表現したものであり、祖国の為、又、同胞どうほうの為、一身の犠牲を顧かえりみず、敢然として死地に赴おもむいた。
至純、至高の若者達への鎮魂ちんこんの碑である。

昭和54年3月21日
海軍神雷部隊戦友会

(説明板より)


斜め前から見た桜花 桜花11型

(茨城県鹿嶋市・住友金属鹿島製鉄所近くの「櫻花公園」内)

真横から見た桜花
真正面から見た桜花
桜花は掩体壕の中に展示されています。 掩体壕

櫻花

「櫻花」は頭部に爆弾を充填し尾部に推進ロケットを装備する高速滑空機で操縦者1名が搭乗する有人ロケット爆弾です。
戦局が悪化を極める昭和19年9月に試作機が完成しています。
「櫻花」は一式陸上攻撃機を母機とし、その腹下に懸吊されて運ばれ、敵部隊近くになると、櫻花隊員が母機から口型の乗入口を通って「櫻花」に移り、敵艦船との距離一万メートル最低高度三千メートル上空で、母機より離れロケットを噴射しつつ滑空して敵艦船に体当たりを行いました。
展示は実戦に使われた櫻花一一型です。
神之池基地での訓練に使われた練習機K−1は同型ですが色はオレンジで着陸用のソリを装備していました。
練習は練習機に爆弾と同重量の水を載せ母機離脱後空中に放水しながら滑空し着地用のソリで草の上を滑走するという危険なものでした。

櫻花一一型
全長 6.07メートル
全幅 5.00メートル
全高 1.16メートル
全備重量 2140キロ(内 爆弾1200キロ)

(説明板より)


訪問記
最初に”鹿島メッセ”という建物のある「桜公園」に行ってしまいました。
「桜公園」と「櫻花公園」は別です。ご注意ください。
「櫻花公園」は製鉄所の正門と西門の間の道路沿いにありますが、看板が出ていないので見過ごしてしまうかもしれません。
桜花は掩体壕の中に展示されていますが、この掩体壕は公園の奥にあります。
ちょっと気がつかないかも知れません。案内板(矢印?)でもあればいいのにねぇ。
桜花公園 ここが「櫻花公園」です。

住友金属鹿島製鉄所があるところは海軍航空隊神之池基地があったところです。

【桜花】

初陣は昭和20年3月、米機動部隊が四国沖に姿を現したときである。
しかし、母機の一式陸上攻撃機が敵空母へ近づく前に、グラマンF6F戦闘機に包囲され、全機がやられてしまった。
昭和20年中、3ヶ月に9回出撃したが、戦果は全く僅少であった。

昭和20年4月13日
駆逐艦「スタンリー」(損傷)
体当たりせるも爆発せず艦首を貫通。3名負傷。

昭和20年4月13日
駆逐艦「マナート・L・アベール」(轟沈)
体当たりにより前部煙突付近で船体切断。73名戦死。それ以前に零戦特攻機が命中。

昭和20年4月13日
駆逐艦改造掃海艇「ジェファーズ」(損傷)
至近距離に落下、爆発のショックで上甲板に皺が生ず。

昭和20年5月30日
駆逐艦改造敷設艦「シーア」(大破)
体当たりで35名戦死、91名負傷。航行は可能。

昭和20年5月30日
掃海艇「ゲィエティ」(小破)
至近距離に落下、2名負傷。

昭和20年5月30日
駆逐艦「ヒュー・W・ハッドリー」(大破除籍)
至近距離に落下、それ以前に零戦特攻機が命中。

たったこれだけの戦果で「桜花」搭乗員55名、母機の搭乗員368名を失っている。

爆薬を半減して、機体を軽くし、高速双発機「銀河」に抱かせようという改良型が出現した。
この「桜花」21型は、第722航空隊として昭和20年2月に開隊した。

また、山腹に隠して、秘密のカタパルトから射出する「桜花」43型も作られた。
これはジェット・エンジンで、従来型の7倍も飛ぶことが出来た。
しかし、滋賀で開隊はされたのだが、昭和20年7月だっため、実戦には間に合わなかった。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月21日 追記)


極限の特攻機 桜花
内藤初穂[ないとう・はつほ]著  中公文庫  1999年発行  762円+税


(解説)
敗色濃厚な太平洋戦争末期、最新の技術を結集し、米軍をも驚愕させるロケット推進式小型高速機が送り出された。
散華を前提に設計された人間爆弾・桜花ー。
開発を命じられた技術者達は、躊躇[ためら]いながらも非情の兵器を完成させ、敗勢挽回を信じて志願した若者たちは、短い生を輝かせて出撃の時を待ったー。
特攻の実像を描く歴史ノンフィクション。


コメント
”桜花”の発想者、大田正一氏は戦時中に戦死したと書いてある書物もありますが、現実には戦後も生存されていて、平成6年(1994年)12月8日に癌でお亡くなりになったということです。

航空母艦雲龍戦没者慰霊碑



航空母艦雲龍戦没者慰霊碑
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

碑文

航空母艦雲龍(174,840噸)は太平洋戦争愈々苛烈を極める中、昭和19年8月6日横須賀海軍工廠にて竣工し海軍機動部隊の主力である第一航空戦隊に編入された。
竣工するや否や海軍少将小西要人艦長のもと千5百余名の乗員一致団結祖国と民族の為身を鴻毛の軽きにおき日夜ひたすらに出撃に向けての訓練に励み昭和19年12月17日マニラ方面緊急輸送作戦に呉軍港を出撃東支那海大陸沿岸を一路激戦地のマニラに向かった。
12月19日1637時及び1651時敵潜水艦の雷撃を受け勇戦空しく海底深く沈んだ。
小西艦長はじめ乗組員将兵、便乗中の第634海軍航空隊将兵、陸軍滑空歩兵第1連隊将兵、比島方面へ赴任中の海軍将兵を含み3千名の多数が艦と運命を共にされ生存者は僅に142名であった。
童顔の15歳の少年兵も 学徒出陣の少尉もいた。
父、母に、兄弟姉妹に、最愛の妻や子にも別れを告げることもなく嵐の海にのまれてしまった。
あれから43年、今日のこの平和な繁栄は英霊の方々の尊き犠牲により築かれた。
このたびやっと遺族、生存者相つどい御魂らを慰め再び戦争の悲劇を繰り返さないことを希ってここ佐世保の海軍墓地に慰霊の碑を建立する。

御霊よ 安らかに 鎮まり給え   合掌

昭和62年12月19日
航空母艦雲龍戦没者慰霊碑建設委員長 森野 廣
元 雲龍航海士

航空母艦雲龍戦没者慰霊碑

雲龍型空母のネームシップ。
昭和19年8月6日横須賀工廠で竣工。
昭和18年9月25日付で佐世保を本籍と定めた。

雲龍型空母は15隻計画されたが、結局竣工したのは雲龍、天城、葛城の3隻。
雲龍は竣工したものの配乗予定の搭載機を、折から発令された捷1号作戦に持って行かれ、折角の正規空母も積むべき航空機も熟練パイロットも乗せる機会を失った。
昭和19年12月、マニラ方面にロケット特攻機「桜花」の緊急輸送の任務を課せられる。
17日、駆逐艦「時雨」「檜」「樅」の護衛のもと呉を出港。
本艦には海軍航空部隊や陸軍部隊も便乗。
雲龍は対潜警戒のため水深の浅い中国大陸沿いを航路に策定。
12月17日夜半は関門海峡沖に潮待ちのため仮泊。
18日早朝抜錨し通峡、東シナ海へ向かうが、翌日から米潜水艦の追摂を受ける。
19日昼頃、舟山列島東側にさしかかる。
視界が段々不良になった午後4時35分、右30度に雷跡。
艦首が約10度右に回頭して回避を図った時に右舷艦橋下に魚雷1本が命中。
攻撃したのは米潜水艦「レッドフィッシュ」。
この被雷により機械は停止。
7分後、右舷前部に更に魚雷1本が命中。
その4分後に火薬庫が誘爆して火災浸水、艦は前部を沈下した。
艦長の総員退去下令の9分後、午後4時57分、艦尾を上にして東シナ海に姿を没した。
生存者は僅かに142名。
雲龍の寿命は竣工以来僅か4ヶ月であり、竣工沈没するまでの間、一度も母港の佐世保に入港したことはなかった。
碑は昭和62年12月19日に建立。
艦長小西要人少将以下乗組員1,240名、便乗の第634海軍航空隊、陸軍滑空歩兵連隊、並びに他の便乗者を合わせて約3,000名の霊を祀ってある。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

(平成22年4月15日追記)


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