2.懐かしの台北賓館

(台北賓館・台北二二八記念館・国立台湾博物館)


 平成24年(2012年)3月10日(第2日目)

台湾旅行2日目・・・・
7時モーニングコール、8時40分出発である。
が・・・やっちゃった!
寝坊・・・!(大笑)

私は目覚まし時計を日本から持参してきている。
日本を経つ時に、台湾時間に合わせておいたのである。
が・・・そのことをすっかり忘れて、時計の針を更に1時間戻してしまった!(馬鹿である・・・笑)
午前6時半に目覚まし時計をセットして・・・
さらに7時にはモーニングコールがかかってくるから二段構えで大丈夫だと思っていたのだが・・・
1時間も違っているんだから目覚ましが鳴るわけがない。(汗)
しかも、昨晩は読書をしているうちに爆睡である。
部屋中の電気を点けたまま寝てしまった。

午前7時のモーニングコールで目が覚め慌てて着替えてレストランへ・・・
朝食会場は7時からオープン・・・
9名の参加者の中で私が最年少者である。
みなさんは、7時のオープンと同時に朝食を摂っているだろうと思って行って見たら・・・案の定である。
すでに食事も終わりの段階に入っていた。
みなさんのテーブルに行き「おはようございます!」と挨拶したら・・・
参加者から「あなたがいないのでどうしたのかと思いましたよ」と半分呆れたというような顔でニヤッと笑いながら言われる。
う~ん・・・たぶん・・・何か勘違いをしていると思う。(大笑)
私は昨晩は一人で寝てましたよ~と、下手に言い訳を言うとおかしなことになりそうなので、一人で別テーブルで食事をする。

食後、ホテルの外に出てタバコを一服・・・・
ホテル内は全域禁煙である。
あ~なんと不便なことか・・・(涙)
ホテルの車寄せのところに灰皿があるので、そこでしかタバコは吸えない。
タバコを吸うために毎回、10階にある私の部屋から下に降りてこなくてはならないのである。

8時40分、予定通りに出発・・・・
外は曇り空・・・曇り時々雨という感じ・・・で・・・寒い・・・

最初に向かったのが、「台北賓館」・・・・
ここは迎賓館である。
その昔、台湾の建国記念日に日本からの“来賓者”の一人として、ここに2年連続で2回来たことがある。
ここで外務大臣主催の晩餐会が開催された・・・
車寄せから入って、入口で外務大臣ご夫妻にご挨拶して、ずらりと並ぶ美人コンパニオンからカクテルグラスを受け取り、建物の裏にある庭園に向かった・・・
食事はバイキング形式の立食パーティー。
列に並んでいたら、どこかの国の大使の奥さんに声をかけられ、英語でおしゃべりしたことが記憶に残っている。
あの時はタジタジだった・・・
なにせ、晩餐会なんて生まれて初めて参加したんだから・・・(大笑)

そんなこんなの思い出話・・・
それをツアーリーダーに話したらムッとされ無視された。(唖然)
自慢話だと思われたのかもしれないが・・・・
一応、私はあなたのツアーのお客さんなんですけど・・・

昔は、公式の行事(晩餐会等)に招かれない限り、この建物の敷地内には入れなかったのであるが、最近、一部が一般公開されるようになったらしい。
日本統治時代の歴史的建造物を史跡として扱い、歴史の一つとして一般公開するというのは喜ばしいことである。
韓国は反日感情ですぐ壊すが、台湾と違って、あの国の国民は歴史を大切にしないようである。
“観光資源”にもなり得るのに、勿体ないなぁ~と思う。

館内をボランティアガイドの方に案内していただいた。
晩餐会でここに来た時には室内には入れなかったので、初めて見るわけだが・・・
いやぁ~すごいものだ。
豪華である。

あ~あの時は・・・このあたりに外務大臣夫妻が立っていて、このあたりでご夫妻に挨拶したんだよなぁ~などと往時を偲ぶ。
「こんなに金ピカだったかなぁ~」と一言つぶやいたら・・・
ツアーリーダーに、「昔からそうだったんだよっ!」と、何を言っていやがるんだこの野郎・・・と言わんばかりの言い方をされた。
なんで、そういう突っかかった言い方をするかなぁ~
さすがにムッときたが・・・最年少のツアー参加者である以上我慢するしかないか。

台北賓館
【沿革
台北賓館は、日本統治時代の台湾総督官邸である。
建設当初は、秩序と調和を重視したネオ・ルネサンス様式を用いて設計され、1901年に完成し、1911年に改築が始まり、1913年に完工したが、その際、概観はより華麗なバロック風に変えられた。
1945年11月28日台湾省行政長官公署が総督官邸を接収した。
1998年8月16日には、内政部より「国定古蹟」として認定され、2006年に修復工事が完成している。

【迎賓】
台北賓館は、総督官邸時代から、日本の皇族や国内外の賓客を迎えるための場所であった。
1946年2月1日に、迎賓館として、国内外を問わず賓客のおもてなしをすることになり、以後迎賓館の役割を充分に果たしてきた。

【建築】
(洋館)
台北賓館の建物の主要な部分は洋館となっている。
建物は北側に位置し、南向きに建てられており、周囲にはベランダが設けられ、双柱とアーチで飾られている。
内部の装飾は、刳形の天井飾りから、石膏の彫刻や水晶のシャンデリアに至るまで、全て精緻で美しい。
また、高級な欅の寄木張りの床、英国から輸入されたヴィクトリア様式のタイルと暖炉などが、迎賓館を一層高貴なものにしている。
(和館)
和館は日本式の木造建築で、台湾総督のもう一つの社交と日常生活のための場所であり、木造の渡り廊下で洋館と結ばれている。
その内部で最も重要な空間は、池に臨んで配置されており、室内に座るだけで、日本式庭園を見渡すことができるようになっている。
(庭園)
庭園も「国定古蹟」のひとつである。
北面庭園は日本式庭園で、その中には大きな池があり、様々な樹木が数多く植えられている。
庭園内には、奏楽堂、東屋、石造りの欄干橋、石机、石橋、築山、滝、噴水などが点在する。
南面庭園は、ヨーロッパのフランス式庭園に倣ったものであり、庭園の真ん中には噴水があり、幾何学的に対称に作られた花壇になっている。

【日華条約】
1952年4月28日、中華民国と日本は、台北賓館において《日華条約》に調印し、同年8月5日の批准書交換・発効により、台湾と澎湖諸島の中華民国への帰属が確定した。
その過程において、本来は日本帝国が台湾を統治するための総督官邸が、今度は台湾を日本から中華民国へ移管するという歴史を見証することになった。

【公開参観】
2001年の元旦より、台北賓館は一般民衆に公開されるようになった。
現在では、総統府の休日参観日程に合わせ、月に1回一般公開が実施されている。
このようにして、現在の台北賓館は、外交上の式典が行われる場所としてだけでなく、歴史の光景への親近感や、民衆の憩いと娯楽という付加価値も備えており、その建築の美しさや歴史的な意義がさらに浮き彫りになっている。

(日本語リーフレットより)

庭園にも思い出がある。
カクテルグラスを持って庭園の一番奥まで散策していたら、警備に立っていた“公安”に睨まれて、慌てて逃げ出したことがあった。(大笑)
この庭園では“ミス・台北”の女の子と写真を撮ったっけ・・・
あの時の“ミス・台北”のお嬢さん・・・今はどうしているんだろう?
軽く40歳を過ぎちゃっているんだろうなぁ~(大笑)





門衛所

(台北賓館)




(平成24年3月10日)




和館
(台北賓館)




(平成24年3月10日)

次に向かったのは「二二八和平公園」。
ここは初めてである。
徒歩での移動だが、途中で「総督府(現・総統府)を撮影。
昔だったら、こんなところで総統府にカメラを向けたら私服の“公安”が飛んできて睨まれたものである。
あの頃よりずいぶん緩くなったんだ~






旧総督府(現:総統府)





(平成24年3月10日)

あの総統府・・・
建国記念日の”来賓”扱いで台湾にやって来た時、式典では、あの前に雛壇が設けられた。
中央に台湾政府の偉い人達と国会議員・・・
その両脇に各国の大使館の人や武官が・・・
で・・・一般の“賓客”はその外側・・・
私は向かって右の一番端に位置していた。
で・・・大通りを、各種団体が行進してくる。
それに対して我々は立ち上がり事前に渡された帽子を振るのである。
「帽振れぇ~!」である。(大笑)
これが長時間にわたり、さすがに閉口したことを覚えている。
疲れるんだよなぁ~あれは・・・
“来賓”の“お役目”だったから文句は言えないのだが・・・さすがにキツかった。

この「二二八和平公園」の中に「台北二二八紀念館」という資料館がある。
この「二二八」というのは、1947年2月28日に起こった台湾にやって来た国民党の台湾人に対する弾圧事件である。
う~ん・・・虐殺事件と言ってもいいのかな?
その記念館を見学する。
この建物は、日本統治時代は日本が設立した「台湾放送協会」の台北支局庁舎だったと思うが、ツアーリーダーは「放送局は直ぐ近くの別のところにある。これは違う」という。
う~ん・・・よくわからん・・・
庁舎と放送局は別ということか?
それならなぜ、その放送局へは行かないんだろう?





旧台湾放送協会台北支局・台北放送局

(現:台北二二八紀念館)




(平成24年3月10日)
台北二二八紀念館
【記念館の沿革】
台北二二八記念館の前身、「台北放送局」はそもそも1930年に日本人が建立、日本本土と台湾本島の地方的ラジオ番組を放送していた。
当時、日本政府が華南、南洋に対する放送も、該当局が担当していた。
台湾光復後、改名為「台湾広播電台」と改名。
1949年、国民政府が台湾に移転したあと、また「中国広播公司」と改名。
1973年、中国広播公司が移転後、元の所在地は台北市政府管理に明け渡され、台北市公園路灯管理事務所となった。

1947年、二二八事件が発生後、重要なラジオ放送、例えば、陳儀の戒厳令への発布、二二八事件処理委員会宣伝組長王添灯の三十二項目の要求への提出など、すべて「中国広播公司」の本館で放送された。
当該事件のとき、情報の伝送などで、台湾中の人々の行動や気持ちに対して、重要な役割を果たしている。
特別な歴史的意義をある出来事として、二二八事件発生後の五十周年、1997年2月28日にて、台北二二八記念館を設立したのである。

【ご案内】
1947年の二二八事件は、第二回世界大戦後(1945)の台湾に関する政治構造、経済不況、社会や文化の問題などの諸相を反映した事件で、それから台湾が四十年も続いた戒厳時期の起点ともなった。
二二八事件の発生原因を遡ると、終戦後、政府の専制政治に密接に関わっている。
1945年、日本が敗戦後、台湾の人々が祖国に戻り、国民政府が来るのを情熱に迎えた。
思いもかけなく、行政長官公署は日本から明け渡された台湾に対して、役人が賄賂、特権行使などの汚職が横行、政治腐敗が深刻化し、また間違った専売政策を実施して、インフレの発生、失業者急増などの社会問題で、台湾の社会全体が混乱状態へ陥った。
このような政治、社会、経済と文化問題などが悪循環しているなか、二二八事件が発生したのだ。

1947年2月27日、台北市延平北路、南京西路の交差点に位置する天馬茶房付近、そのアーケードの所で、専売局の役人が約40歳の中年女性林氏が闇タバコを販売しているところを見つかり、双方の衝突があった。
そこで、林氏のは頭部が役人の拳銃で撃たれ、血まみれになった。
それを見て怒った民衆が、役人たちと衝突した。
取締りの警察官は急遽、通行人の陳文渓を射殺した。
それで、事件が急速に深刻な状況に広がったのだ。
これが、二二八事件を起こした契機の「タバコ取締り血まみれ事件」である。

2月28日より、人々が政府に抗議や不満を強く訴え始めている。
台北から始まり、続いて台湾の各地まで拡大した。
当該事件で、社会各界のエリートたちが民衆たちを率いて、政府に請願、要求した。
これらのエリートたちはそれぞれ政治界、医療界、教育界、新聞界、法律界などから来ているが、二二八事件で、大半、容疑者などの罪として、逮捕または殺されたのだ。
そのうえ、多くの学生はこの事件で、道端で軍人や警察にみだりに逮捕、殺害された。
今日まで、行方不明、死体の行方も分からない者がいっぱいある。

二二八事件は台湾の歴史上で、最も悲惨な政治の悲劇である。
当該事件の発生後、台湾が四十年も暗黒な戒厳時期が続いた。
光復後、短く現れ、すぐ消えてしまった優曇華のように、一時期に民主や人権を求めようとしていた。
1987年になって、ようやく戒厳令が解除、廃止された。
二二八事件の後、台湾この島は長い間、今までのない抑圧や沈黙の状態にあった。
当該事件で、家族に死なれ、家が崩壊、親を亡くした子供、子供の死で悲しんでいる年配者がいっぱいいた。
また、将来への夢などもすべて、台湾の沈黙の歴史の中に消え、埋められたのだ。
戒厳令の解除から今日まで二十年余り経ったが、その時の歴史の場を再現させようと、民間や学界が努力を重ねて、ようやく完成。
二十一世紀の今日、二二八事件の関連研究や報告の出版に伴い、台湾社会は高度な民主化、人権を持っているが、深い悲しみを秘めたこの歴史をどのように見るべきだろうか。
二二八事件がどんなことを教えてくれただろうか。
われわれは、この歴史の教えにどう対応すべきだろうか。
特に、新旧の住民文化が併存する、多様化な社会と言われる台湾社会で、二二八事件は、歴史への反省、将来を迎えるために、じっくり考えていくべきことであろう。

(日本語リーフレットより)

内部は、一部、日本語の説明もあったが、ほとんどが中国語なのでよくわからない。(苦笑)
ボランティアガイドらしき女性から、「日本語の本もありますよ」とミュージアムショップにある解説書を教えてもらったが、買う気が起こらない。
なんか・・・違うんだよねぇ~
日本語のリーフレットを読んでみたが、どうもピンと来ない・・・・
「2・28事件」は“事件”なのである。
虐殺事件、外省人(中国から来た国民党)による本省人(日本統治時代からいた台湾人)への弾圧のはずだが・・・
なんかピンと来ない・・・どこかボカしているような気がしないでもない。
館内展示では日本軍のことなども取上げているようなのだが・・・それ、関係ないんじゃないの?
ササッと見て、タバコを吸いに外に出る。
現地ガイドの話によれば、空が見える場所ならタバコを吸っても問題はないんだそうだ。
ならば・・・公園は絶好の喫煙場所である。(喜)

現地ガイドは建物の外で、なにやら若者達と話し込んでいた。
彼らと別れたガイドがやって来て、「彼らは中国から来た観光客です。二二八事件のことを全然間違って覚えているので議論していました」と言う。
へぇ~・・・である。
どう間違って覚えていたんだろう?

ツアーリーダーは以前にもこの記念館を見学したことがあるそうで・・・
その時と今回とでは、展示内容も説明文もガラリと変わっていたと憤慨する。
国民党が政権を取った途端に変わってしまったと言う。
「馬英九はとんでもねぇ奴だ」と言う。
国民党は虐殺をした側だからなぁ~
さもありなん・・・である。
言っている事はわからないでもないが、私が話しかけても無視しておきながら、自分の言い分は声高にお披露目して賛同を求めるというのは、いかがなものか?(苦笑)

公園内を次の目的地である「国立台湾博物館」へ向かって歩く・・・

この「国立台湾博物館」は日本統治時代は台湾総督府の博物館として建てられ「児玉総督・後藤民政長官記念館」と呼ばれていた建物である。





旧台湾総督府博物館(旧児玉総督・後藤民政長官記念館)

(現:国立台湾博物館)




(平成24年3月10日)
国立台湾博物館
国立台湾博物館は、1908年に創立され、台湾において最も悠久な歴史を持つ博物館であります。
当時、日本政府は台湾南北縦貫鉄道完通を記念するため、1908年10月24日に台湾総督府博物館を設置しました。
開館当初は一万点を越すコレクションを収集していました。
1915年、台北新公園内に博物館の新館が落成し、日本植民地政府が台湾で建てた公共建築物中の代表的な建築物の一つとされています。

国民党政府の来台後、本館は1949年に台湾省政府教育庁の管理下におかれ、「台湾省立博物館」と改名されました。
1999年には中央政府に隷属、「国立台湾博物館」と改名され、今日に至っています。
各年代における名称は異いますが、本館は台湾唯一、日本統治時代の戦火を免れ及び政権交代を経ても今尚本来の場所に運営されている博物館であります。

本館の建物は1915年から建造が開始されました。
設計者は建築士の野村一郎で、施工者は高石組などでありました。
本館の建築スタイルはルネサンス時代の古代ギリシャのドリス式を採用し、建物中央に聳える荘厳なドームは30メートル程の高さで、建物全体の視覚焦点になっています。
建物の構造は耐荷重の鉄筋コンクリート及び煉瓦壁で構成され、主な建材は日本から輸入された赤坂黒大理石と水戸産白寒水石を、木材は台湾檜木などを使用し、外壁は小石洗いのテラゾーで装飾されています。
故に、台湾博物館は当時の建築技術及び資材の面においてその右に出るものはない、荘厳な建築スタイルと優雅なる古典彫刻芸術で、この80年来ずっと台湾建築上の至宝とされています。

本館は多様な古典西洋の建築元素を取り合わせたの建物です。
その平面が「一」字形になっており、正面は北向きで館前路に面し、南は二二八和平公園に面していますので、博物館から公園内の自然景観をたっぷりと眺めることが出来ます。
また、台湾の夏はとても暑いため、南北一字形向きで西日の当たる面積を減少し、これも建築家が都市計画と気候を充分配慮した上であります。
館内の主な入口とロビーは建物の中央に位置し、両側にある展示室は中央ロビーを中心に左右対称になり、簡潔でありながら力強い建築スタイルであります。

博物館の外部造型は、古代ギリシャ建築をモデルとしています。
入口の正面は古代ギリシャ神殿式の建築様式で、階段や大きなドリス式巨柱や華麗な花葉紋で装飾された壁などがその主な特徴で在り、ローマ式ドームと相俟って、荘厳且つ神聖な権威象徴を醸し出しています。

中央ロビーは本館建築の真髄であります。
ロビーの周辺は32本の精緻なアカンセス葉と渦巻き模様で装飾された高い組合式柱に囲まれています。
ロビーの中央に立って仰ぎ見ると、ドームの下部はステンドグラスの天窓で、装飾と採光の効果を兼ねており、日光が間接的にステンドグラスを通して、ロビーのフロアー全体を美しく投射し、華麗な雰囲気を醸し出しています。

ロビー両側のアルコーブには、元々当時の台湾総督である児玉源太郎と民政長官である後藤新平の二人の銅像が置かれており、児玉と後藤両家の家紋を組み合わせた図案が一階の階段を彫刻装飾していることから、当時の博物館構造の目的を知ることができます。

前世紀の初めから台北駅前に屹立している国立台湾博物館は、清朝時代の台北城の東西主軸と南北次主軸との交差点に位置しており、その優雅で荘厳な建築、豊富で多様な収集の展示、及び核心的な地理的位置などの関係から重要な歴史的ランドマークの一つとなり、内政部は1998年に本館館舎を「国家古跡(国の指定文化財)」と評定しました。

「台湾総督府博物館」から今日の「国立台湾博物館」に至るまで、台湾歴史の歳月を見てきており、同時にこの土地の自然人文のあれこれを記録してきました。
台湾の人文、地質、動物及び植物の発展軌跡と全貌を見ることができます。

(日本語リーフレットより)

博物館から特別に許可をもらったらしく、通常の見学ルートではなく、立ち入り禁止の柵を越えて“裏道”から、どこかへ向かう。(笑)
たどり着いたのは、見学コースにはない全く別なスペース・・・
その隅っこに・・・なんと!児玉源太郎後藤新平の銅像が展示してあった。
この建物内に、彼らの銅像があることは知っていたが、こんなところに置かれていたのか!
それにしても、誰も見に来れないような場所に“隠して”いるのには何か理由があるのだろうか?

銅像はショーケースの中に入れられていて写真が撮りづらい。
しかも、本来は電気がつくのだが、今日は電気をつけられないと職員が言う。
あ~折角の貴重な銅像!
うまく写真が撮れないのが残念。
他の参加者からも「これじゃ駄目だ。写真に写らない」との声が上がる。

児玉源太郎 総督像 後藤新平 民政長官像

説明板によれば、この銅像を作ったのは彫刻家の新海竹太郎だという。
新海竹太郎は軍隊時代は近衛騎兵で、のちに彫刻家に転身する。
そういうこともあってか、軍人の騎馬像を作ったりしている。
東京の皇居の近くの北の丸公園にある北白川宮の騎馬像は新海竹太郎の作である。
新海は山形県出身で、以前、山形県を旅したときに偶然、彼自身の銅像を見つけたことがある。
その新海竹太郎の作かぁ~・・・と感激したのだが・・・
それにしても、この銅像・・・
かなり劣化していてボロボロっていう感じなんだけど・・・
新海竹太郎の作にしては、なんともお粗末な出来に見えてしまう。
ショーケースの中に入っているせいなのかな?





児玉源太郎、後藤新平銅像
(解説パネルより)




(平成24年3月10日)
児玉源太郎、後藤新平銅像と「児玉総督及び後藤民政長官記念館」
現在の国立台湾博物館は、日本統治時代「児玉総督及び後藤民政長官記念博物館」と呼ばれてきました。
これは日本統治時代第四任の総督の児玉源太郎と当時の民政長官の後藤新平を記念するためとして建てられたものです。
当時の新公園(新公園は1995年から二二八平和公園と改名します)の中にあったこの記念館は1913年4月に着工し、1915年3月に竣工しました。
クラッシック風に出来上がったこの建築は左右対称な長方形であり、中央は高いドームで出来ており、正面は倣ギリシャドリス式の列柱からとなっています。
1915年4月、日本の彫刻家新海竹太郎が制作した児玉と後藤の立像が一階ロビー両■のアルコープに置かれました。
その時児玉像はロビーの東■、後藤像は西■のアルコープにありました。
第二次世界大戦後、中華民国国民政府はこの博物館を接収し、「台湾省立博物館」と改名しました。
この二体の銅像は元の位置から移動され、収蔵品となりました。
2008年はちょうど当博物館の成立百年記念であり、記念として当時の記念館の定礎板とこの二体の銅像を改めて展示します。
国立台湾博物館
「彩票局ビル」から「児玉総督及び後藤民政長官記念館」
1908年縦貫線鉄道開通の記念のため、台湾総督府は「台湾総督府民政部殖産局付属博物館」(略称「台湾総督府博物館」)を成立しました。
当時の博物館の位置は台北書院街の上の「彩票局ビル」にありました(その旧址は今の台湾総統府の後ろの博愛ビルにありました)。
1915年台北新公園内の「児玉総督及び後藤民政長官記念館」が竣工、総督府博物館はこの新館に移りました。
そして1915年8月20日に改めて開館しました。
その後、この場所で今まで存在してきたのです。
博物館のために「殉職」した初代館長
台湾総督府博物館の初代館長の川上瀧弥は台湾の植物の調査と研究に尽くしました。
1908年から川上瀧弥は博物館の館長となり、1915年死すまで職についていました。
聞くことには彼は博物館が新館に引っ越す期間、博物館内にベッドを置き寝ていたということです。
1915年8月20日、総督府博物館が改めて開館した翌日、川上瀧弥は病で亡くなりました。
享年44歳でした。
彼はのち後台北植物園内の建功神社に追嗣されました。
その原因は「殉職」でした。
(展示パネルより)

ここの見学を終え、通常の見学コースに入り、一部だけ見学する。
台湾の原住民族に関する展示コーナーである。

現地ガイドから、彼ら原住民の説明を受ける。
ちなみに彼の先祖は中国から来た漢民族である。
で・・・説明を聞いていて、ちょっと違うんじゃないかなぁ~という点がいくつかあった。
特に原住民のルーツに関しての説明については、ちょっと違うような気がする。

昔は“民俗学”的なことには全く興味が無かったのだが、最近なぜか興味を持つようになってしまった。
マレーシア半島から流れてきた人種の、その後の流れを知ってからである。

ここでは、この展示コーナーだけを見て・・・お仕舞い・・・
あ~なんとも残念!
いつか、今度は一人で来てじっくりと見学をしたいものである。

この博物館の近くに「国立台湾博物館・土銀展示館」というのもあるそうで・・・
この建物は、日本統治時代は「日本勧業銀行台北支店」だったそうである。
戦後は「台湾土地銀行本店旧館」となり、その後史跡となって資料館として使われているようである。
しかし、今回のツアーの予定にはなぜか入っていなかった。
ここにも、今度、一人で訪れたいものである。
いやぁ~先々を考えるとワクワクしてしまう。
もう一回・・・台北に来なくてはなるまい!

次の訪問先は「国軍歴史文物館」・・・・
いわゆる“軍事博物館”である。
が・・・行って見たら・・・閉まっていた!(笑)
現地ガイドは「そんなはずはないのだが・・」と首をかしげる。
通常の休館日は日曜日で、今日は土曜日である。
休館日以外の休館ということで考えられるのは、展示替えによる休館である。
一応、バスを降りて、張り紙を確認してみたらと私から余計な口出しをさせていただいた。(笑)
で・・・張り紙を見たら・・・・
2月26日から4月12日まで展示替えによる休館とのことだった。
「いやぁ~マイッタァ~ここを見学するのが私の今回の目的だったのに!」と嘆く“軍事マニア”(?)の参加者の声・・・
私も同感ですが・・・(苦笑)・・・・
仕方がない・・・ここも、いつか一人で来た時に訪れよう!
今回は“下見”ということで割り切ることにする。

で・・・バスは昼食会場へ・・・・


   


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