平成21年11月8日
安政4年6月4日(1857年7月25日)〜昭和4年(1929年)4月13日
岩手県奥州市水沢区・水沢公園でお会いしました。
陸奥国胆沢郡生まれ。
医学を学び愛知県病院長などを経て明治16年(1883年)内務省に入り衛生行政に尽力する。
明治31年(1898年)から台湾民生局長(のちに局長)として植民地行政に卓越した手腕を発揮した。
明治39年(1906年)初代南満洲鉄道総裁。
明治41年(1908年)第2次桂内閣の逓信相に就任。
大正5年(1916年)寺内内閣の内相。
翌年、憲政会を「不自然なる多数党」と攻撃。
2年後の大正7年(1918年)には外相に転じてシベリア出兵を推進した。
第一次世界大戦後の欧米を見聞し、社会改革推進の大調査機関設立を提案。
大正9年(1920年)東京市長に就任。
大正12年(1923年)極東駐在ソ連代表ヨッフェを日本に招致して会談するなど、日ソ国交調整に尽力。
関東大震災時には内相として東京復興計画を立案するが、第2次山本内閣の総辞職とともに下野し、以後政治の舞台には立たなかった。
昭和4年(1929年)73歳で没す。
後藤新平像 (岩手県奥州市水沢区・水沢公園) (平成21年11月8日) |
碑文
後藤新平は安政4年(1857)水沢に生まれ、医業を志し、転じて内務省衛生局長として卓抜な手腕をふるい、のちに 台湾総督府民政長官、初代満鉄総裁、逓信、内務、外務各大臣 鉄道院、拓殖局 帝都復興院各総裁、東京市長、等を歴任、政治経済の分野においても赫々たる足跡を残した。
更に拓殖大学学長、少年団日本連盟、東京放送局各初代総裁等、教育文化面においても活躍し、晩年は政治の倫理化運動を進めるなど、わが国近代化の偉大なる先駆者であった。
これを讃えるため、この銅像を建立する。
昭和53年6月5日
岩手県水沢市
後藤新平顕彰記念事業会
銅像寄贈者
読売新聞社
日本テレビ放送網株式会社
台座寄贈者
株式会社富士銀行
安田生命保険相互会社
安田火災海上保険株式会社
中央魚類株式会社
原型制作 朝倉文夫
鋳造 岡宮正明
台座設計 株式会社久米建築事務所
施工 佐々木建設株式会社
(銘板より)
後藤新平像 (岩手県奥州市水沢区・水沢公園) (平成21年11月8日) |
後藤新平像(朝倉文夫作)
後藤新平は、安政4年(1857年)6月4日吉小路で生れ、11歳の時、藩校「立生館」に学び「郷の三秀才」の一人と云われた。
医業を志し、転じて内務省衛生局長となり、後に台湾民政長官、初代満鉄総裁を歴任、卓抜した手腕を振るった。
逓信相兼鉄道院総裁、内、外相として台閣に列するほか、東京市長も歴任した。
関東大震災後、内相兼復興院総裁を務め、その計画は100年後をも洞察した大見識であり、後年真価が認識されている。
晩年は、ボーイスカウト、東京放送局初代総裁を務め、政治の倫理化運動を提唱し、国民指導を行った。
外交では日露関係の正常化にも力をつくした。
昭和4年(1929年)4月13日、73歳で先見の政治家の幕を閉じた。
この銅像は、大連星ヶ浦公園(現星海公園)に建てられた銅像と同じ原型によって、昭和53年(1978年)6月に建立したものである。
(説明板より)
(説明板より)
後藤新平旧宅(公開) (岩手県奥州市水沢区吉小路8−1) (平成21年11月8日) |
後藤新平旧宅(公開) (岩手県奥州市水沢区吉小路8−1) (平成21年11月8日) |
武家住宅
後藤新平旧宅 (公開)
この武家屋敷は、留守家御小姓頭るすけおこしょうかしらを勤めた後藤佐伝治の屋敷で、後藤新平は、1857(安政4)年にこの家で生まれ、留守家奥小姓おくこしょうとして幕末をむかえています。
江戸時代に、この吉小路は「給主小路きゅしゅこうじ」とよばれ、大手小路に次いで上級家臣の武家屋敷がおかれたところです。
屋敷には、冠木門かぶきもん、茅葺かやぶきの母屋おもやと厠かわや、板倉いたぐら、井戸、表庭の老松などが残り、武家屋敷景観をとどめています。
母屋は18世紀中頃の建築で、現在の建物は晩年の後藤新平が修理したものを保存しています。
(岩手県指定有形文化財)
水沢市
(説明板より)
後藤新平旧宅 (岩手県奥州市水沢区吉小路8−1) (平成21年11月8日) |
岩手県指定有形文化財建造物
武家住宅 後藤新平旧宅
後藤新平は、1857(安政4)年に留守家御小姓頭・後藤佐伝治の子に生まれ、奥小姓として幕末をむかえた。
明治維新以後は、医師をかわきりに、外務大臣、内務大臣、満州鉄道総裁、東京市長、関東大震災後の帝都復興院総裁などの要職につき、『大風呂敷』の異名をとる卓越した先見性により日本の近代化に大きな貢献をした。
後藤家は、代々二番召出めしでの家格で、幕末の禄高は2貫531文、5切(32石46升)であった。
現在、茅葺の主屋、便所と板倉、冠木門、笠塀などが残されている。
これらは、昭和10年前後に修復され、新平の意志により水沢町に寄付された。
もともとの表門は二本の門柱による棒門で、18世紀中葉を降らないと推定される主屋にも改築がみられる。
平成4年3月
水沢市
(説明板より)
後藤新平伯 少年時代に使用された行燈 (平成21年11月8日) |
新平しばられの小屋 (平成21年11月8日) |
新平しばられの小屋
新平は体力では相手に劣っていたが気力で勝り、結構いい勝負をして意気揚々と家に帰ってきた。
しかし母の理恵はその新平を許さない。
「なんですか、その髪は。今朝結ってあげたばかりなのに、もう滅茶苦茶にして!」
こういう場合、新平は謝らない。
「怒る前に、事情を聞くべきではないか?」
と口には出さずとも、そういう顔をして母をにらむ。
「罰です。小屋に入ってなさい!」
母は新平を荒縄で縛り上げると裏の小屋に放り込んだ。
しかし新平はこのくらいのことでは動じない。
その小屋のことを後に姉の初勢(後の椎名悦三郎の義母)が「新平縛られの小屋」と呼んだくらいで、こんな目にはしばしば遭っているのだ。
「後藤新平」 〜行革と都市政策の先駆者〜 の抜粋文
著者:郷仙太郎(前東京都副知事・青山やすし)
(説明文より)
陸軍検疫部職員死者追悼之碑 (広島市・饒津神社) (平成22年5月1日) |
陸軍検疫部職員死者追悼之碑
陸軍検疫所は、日清戦争帰還兵を介して伝染病の国内侵入を防止する目的で明治28年(1895)似島に開設された。
のちに広島検疫所と改名。
船舶682隻232,346名の検疫を行った。
この検疫業務で53名の職員が病気等に感染して死亡、追悼碑にその氏名を刻み功績を称えた。
(説明板より)
【碑文】
臨時陸軍検疫部職員死者追悼ノ碑
遠征ノ師アレハ悪疫ノ之ニ随フコトハ古今ノ戦史ニ徴シテ明カナリ 故ニ■ノ将ニ凱旋セントスルニ先タチ検疫部ヲ設ケ以テ惨毒ニ豫防スルハ軍國ノ一大要務トス 苟モ然ラスンハ縦令捷ヲ外ニ制スルモ病ニ■ニ勝ツコト能ハスシテ■ハ病死者ヲシテ戦歿者ノ數ヨリモ多カラシムルニ至ル 豈察セサル可ケンヤ 明治二十七八年戰役ノ終リニ於テ我陸軍ハ豫メ臨時検疫部ヲ組織シ似島彦島及櫻島ニ検疫所ヲ置キ検疫ヲ行ハシメタリキ其數船舶六百八十七隻人員二十三萬二千三百四十六名物品九十三万二千六百七十ニ点ノ多キニ上レリ 是ニ於テ我軍國検疫ノ目的ヲ達シ全局ノ大功ヲ■メタリ 寔ニ萬古未曾有ノ盛事ト云フヘシ 嗚呼検疫ニ従事スルノ諸氏ハ一身ヲ以テ犠牲ニ供シ一百餘日ノ久シキ毫モ倦怠ノ色ナク遂ニ悪疫ヲシテ■■ノ如ク■シキニ至ラシメスシテ止ム 其ノ功實ニ偉大ナリトス 就中陸軍歩兵少尉弘田伸頼君以下五十有三名ノ如キ検疫中病毒ニ感染シ以テ其ノ命ヲ■セリ 洵ニ其ノ功績ハ陸軍検疫ノ偉業ト共ニ湮滅ス可ラサルモノナリ 乃ノ同志ノ賛助ヲ得テ之ヲ石ニ勒シ以テ後世ニ傳フト云爾
明治二十八年十月三十一日
臨時陸軍検疫部長陸軍少将正四位勲二等功三級男爵兒玉源太郎識
向唐門むかいからもん (広島市・饒津神社) (平成22年5月1日) |
向唐門
昭和20年 原爆で焼失した旧向唐門の礎石の上に再建
龍の彫刻等細部を忠実に復元した(礎石は原爆当時のまま残した)
向唐門は格式上 将軍や藩主を祀る神社に用いられた
なお 当門は全国二番目の大きさである
平成12年8月吉日再建
饒津にぎつ神社
(説明板より)
(説明板より)
(建物がすべて焼け落ちた饒津神社 1945年8月20日 尾木正巳氏撮影)
饒津神社(爆心地から約1,800メートル)
原爆の炸裂による強烈な爆風のため 本殿や唐門などの建物が一瞬にして破壊されました
その直後本殿から出火し 他の建物も次々と延焼していきました
爆風により 境内の樹木は吹き倒され 参道の石灯籠も倒されました
境内には 燃え盛る市内から大勢の人々が避難してきて 臨時の救護所が設けられました
(説明板より)
本殿 (広島市・饒津神社) (平成22年5月1日) |
饒津にぎつ神社 (広島市東区二葉の里2−6−34) (平成22年5月1日) |
平成21年11月8日
岩手県奥州市水沢区・後藤新平記念館でお会いしました。
後藤新平像 (岩手県奥州市水沢区・後藤新平記念館) 制作 許 文龍 氏(台湾・奇美実業董事長) 寄贈 後藤健蔵 氏(後藤新平の孫) (平成21年11月8日) |
後藤新平閣下の台湾における功績を偲ぶ
後藤新平先生は台湾総督府民政長官(在任1898年3月〜1906年11月)として施政にあたり、「生物学原則」の科学的方法で旧慣調査を行い、それに基づいて台湾の社会に適した法律を制定し法治の基礎を確立しました。
爾来、極度に劣悪であった治安が「夜不閉戸」夜戸締りが不必要なまでに回復したこともその一例です。
又、上下水道を整備し衛生環境の改善により住民の平均寿命は大幅に延び、教育を普及して民智を啓蒙し、水利・灌漑・道路・鉄道・港湾・郵便・電信等、経済発展と工業化に必要な基礎をつくりました。
私が後藤新平先生の胸像をつくったのは、その功績に感謝の念を表し、台湾の人達にも知ってもらいたいためです。
加えて、この胸像を日本に寄贈するのは、日本の皆様に、台湾の近代化と今日の繁栄に貢献した多くの先達、例えば殖産(特に製糖工業)に力を尽くした新渡戸稲造博士、蓬莱米の父と言われた磯永吉博士、日月潭ダムをつくり、不毛の嘉南平野を潤した八田与一技師、そのほか朝鮮で化学工業を興された野口遵、孫文の革命事業に生涯を捧げた宮崎滔天、印度・ビルマ・東南アジア各地の独立を支援した人びとが海外に残された輝かしい業績の過去に対する事実を思い起こし、戦後失われた民族としての誇りと自尊心を取り戻してもらいたいからです。
1999年2月吉日 許 文龍 誌す
(展示パネルより)
平成21年11月8日
岩手県奥州市水沢区・後藤新平記念館でお会いしました。
後藤新平像 (岩手県奥州市水沢区・後藤新平記念館) (平成21年11月8日) |
【台湾民政局長就任】
明治31年(1898年)1月、松隈内閣が倒れて首相に復帰した伊藤博文は、内務省で社会政策に携わる後藤新平に台湾行政の実務トップ、総督府民政局長(のちの民政長官)にならないかともちかけた。
新平は一旦断るが、井上馨蔵相の命で「台湾統治救急策」の作成に取り掛かった。
そのころ、台湾総督府の財政は、本国からの補助金が年ごとに減らされ、危機的状況に陥っており、「台湾売却論」がもっともらしく語られる始末だった。
新平が導き出した答えは、植民地に本国の制度をはめこまず、物理的な文明化で民心を引き付けるイギリス型の「特別統治」策だった。
新平は、「科学的施設、鉄道、水道、汽船、電信、病院など文明の利器」によって「民心を一変すること」が重要であり、法令で植民地を支配しようとするのは殖民の本義ではないと救急策に記す。
さらに、総督府は科学的な政策を施さず、いきなり殖産興業の法令で「収税の改良(税制)」に着手しており、施政の前後救急を誤るものだと手厳しく批判した。
台湾統治に当っては、この島にもともと根づいていた「自治の慣習」を重んじ、広義の「警察制度」を確立し、「総督に全権」を与え、本国政府は干渉するな、と論を展開した。
新平の献策は、井上蔵相の琴線に触れ、伊藤首相は新総督に児玉源太郎を選び、民政局長に新平を据える。
大検疫事業を完遂した児玉―後藤コンビが再び登用され、統治の実行方針がようやく定まった。
明治31年(1898年)3月28日の朝、第4代総督児玉源太郎(47歳)、民政長官(この時は民政局長)後藤新平(42歳)、気力体力共に横溢する統治コンビは、基隆の埠頭に立った。
【改革・行政組織のスリム化】
改革は「隗かいより始めよ」である。
新平は総督府の傘の下で公務に当たる日本人の役人たちに改革の矛先を向けた。
台湾は領有わずか3年にして、行政組織が野放図に自己増殖していた。
台湾の地方行政は、台北、台中、台南の「3県」の下に「8庁」及び独立の澎湖島庁を置く体制でスタートしたのだが、瞬く間に「6県3庁」に増え、各庁の下に65もの弁務署や警察署などが、ぶら下がるほど肥大化していたのである。
組織が煩雑で非効率も甚だしい。
日本本国から派遣されてきた官吏は、中央の目が届かないのをいいことに無駄な枝葉を広げていた。
新平は、高等官を呼び集め、このように行政単位を複雑にした理由を問いただした。
ところが、誰一人台湾内を踏査した者はおらず、地理に暗いまま、勝手に地域を切り分けていたのだった。
たちまち新平の癇癪玉が破裂した。
呆れ果てた児玉と後藤は、清国時代の古い台湾の地図をテーブルにおし広げ、行政改革を断行する。
「3県4庁44署」に行政地域を再編し、数年後には一切の県庁、弁務署を廃止し、いわゆる広域合併で中規模の行政地域「20庁」の文鎮型行政機構に再統合したのである。
この行政組織のスリム化に併せて、一挙に1080人もの役人をクビにした。
台湾には官民合わせて3万人の日本人がいたが、役人の大量解雇で日本人社会は上を下への大騒ぎとなった。
基隆と下関を結ぶ定期船は、連日、馘首されて日本に戻る官員でごった返し、新平への怨嗟の声が満ちた。
台湾、本国いずれの新聞も新平の独断専行を批判する記事を書き立てた。
【人間道楽】
情け容赦なくリストラを断行する一方で、仕事ぶりを認めて残した官吏には特別手当を支給し、官舎を建てて住まわせた。
思う存分力を発揮しろと叱咤する。
総督府の要職には「一本釣り」でかき集めた俊才たちを配置した。
新平には「人間道楽」といってもいい性癖がある。
これは、と見込んだ人物がいれば借金をしてでも支援した。
交際に金を注ぎ込み、散財する。
仕事のできる人間が好きで、優秀な人間がいると聞けば、役所や大学から奪い取るようにして台湾に連れてきた。
土木局には内務省から埼玉県土木課に出向していた若手の精鋭・長尾半平、鉄道部に長谷川謹介、阿片や樟脳を扱う専売局には夏目漱石の朋友で大蔵省のホープ・中村是公これきみ、殖産部門には農学者の新渡戸稲造を引っ張った。
旧い慣習を生かすには、あらかじめそれを調べ尽くす必要がある。
この旧慣調査事業で、京都帝大の新進気鋭の民法学者・岡松参太郎、ドイツの植民機関で実務経験を積んだ大内丑之助を起用した。
岡松が率いる旧慣調査会は、清国時代の行政実態や、土地の取引、親族間の相続、先住民の生活ぶり、流布する台湾私法全般を綿密に調べ上げる。
その成果は土地調査事業に引き継がれ、台湾の「地租(租税)」制度の基盤が構築される。
旧慣の温存と活用は、耳障りのいい人情論ではなく、具体的な統治策に貫かれた。
新平がスカウトした面々は、行政の専門家集団を形成し、台湾からやがて満洲、逓信省、外務省、内務省、東京市、関東大震災後の帝都復興院へと新平が活躍の場を拡げるに伴って移動する。
藩閥の圏外にある新平が、政官界の荒波をかき分けて進むには、このような自前の人材ネットワークの構築が不可欠であった。
【公債案】
明治30年(1897年)の総督府歳入は1128万円。
そのうち台湾内で得られた租税収入は532万円に過ぎず、多くを日本政府の補助金に頼っていた。
其の補助金も、新平が赴任した年から半分に減らされた。
総督府は火の車だった。
産業基盤を整え、経済を盛んにするには、資金をかき集めて公共的な先行投資をするしかない。
そこで新平は、腹案の「台湾事業公債案」を児玉に示した。
事業公債の対象を「鉄道」「築港」「土地調査」の三大事業と「給水事業」「監獄舎改築」「官舎建築」の付帯事業に絞り込み、6000万円の公債案を立てた。
草案作りは中村是公が行っている。
さらに新平は、内閣が代わるたびに先延ばしにされてきた「台湾銀行」の設立を速やかに行うよう政府高官に訴えた。
台湾事業公債案を見せられた児玉は、一読すると承認の判を手書きして、新平に上京を命じる。
明治31年(1898年)10月、新平は半年ぶりに東京へ戻った。
政界では、第3次伊藤内閣は瓦解し、大隈重信が板垣退助を内相に迎えて組閣した。
後藤を買っていた伊藤博文は内閣にいない。
公債を募るには大隈内閣を説得し、帝国議会で法案を通さなければならない。
児玉からは内々に、減額されようがとにかく議会で案を通してしまえと指示されていた。
しかし、公債案が一般に知られると、あまりに巨額、無計画、べらぼうな案だ、大風呂敷だと叩かれ始めた。
大隈との交渉で2000万円ほど減額し、総額4000万円の台湾事業公債政府案がまとまった。
政府案は帝国議会にかけられ、新平は実務責任者として答弁に立った。
「鉄道敷設費」には3000万円が見込まれている。
議員の重箱の隅を突っつくような質問が延々と続いた。
「台湾のどこに、どのように鉄道を敷くのですか」と執拗に食い下がられた新平は、ノラリクラリと答えていたが、我慢できなくなった。
やおら台湾の地図を持ち出し、「ここにこうやって通すのです」と、台北から台南までピャーッと真直ぐ一本の線を引いて片づけてしまった。
政府案は500万円削られたものの、総額3500万円の公債案が議会を通過する。
明治32年(1899年)3月、台湾事業公債法が公布された。
その1週間後、定款が認可され、台湾銀行が設立される。
台湾銀行は総督府の金庫でもあった。
初年度321万円の公債を政府は発行できず、総督府が台湾銀行から借り入れて切り抜けた。
翌年度からの6年間で公債は15回発行され、台湾銀行と国庫預金部の引き受けによる特別発行で処理された。
総督府の公共事業は台湾銀行が支えていく。
明治37年(1904年)から台湾銀行券の発行が始まり、台湾の貨幣が統一されると、社会資本の建設に必要な大量の資金が台湾銀行の事業公債によって調達される。
積極財政が呼び水となり、台湾経済が上昇軌道に乗った。
阿片や樟脳、塩、酒類の専売による歳入が増え、土地調査に基づく地租が確立され、瞬く間に台湾の財政状況は好転する。
明治38年(1905年)から台湾は国庫の補助金を受けない、独立した財政計画を立てられる自給植民地に変わった。
【「ひと泣き25円」の後藤新平】
新平は、執務中、ひっきりなしに他人とぶつかり、部下を怒鳴るかと思えば、書生が「3日ばかり何も食べておりません」と金の無心をすると、同情して涙を流し、20円、30円と与えてしまう。
新平の前では「ひと泣き25円」の相場がついていた。
そんな餓鬼大将が、そのまま大人になったような夫に仕える妻、和子の苦労は並大抵ではなかった。
後藤家の家計はいつも火の車で、生活はつつましかった。
【台北の近代化】
台湾事業公債法の成立で財政の目鼻がついた明治32年(1899年)、東京から戻った新平は、台湾内を疾風怒涛の如く踏査して回った。
4月の新竹出張に始まり、基隆に2回、9月から10月にかけて南部の澎湖、高雄、鳳山ほうざん、台南、塩水港、嘉義、新営庄、再び澎湖島から基隆、暮れには本国政府との折衝のために上京・・・・と、出張に次ぐ出張の日々を送った。
澎湖や高雄を訪ねた南部巡視の帰路では、船が台風に直撃されて九死に一生を得ている。
台湾中を飛び歩く一方で、新平は総督府のお膝元、台北の「近代都市化」への大改造に着手した。
その青写真を描いたのは先に台湾入りしていた内務省のお雇い外国人、衛生技師のバルトンだった。
都市が衛生対策をきっかけに改造されるのは、近代の定式である。
バルトンの基礎調査は新平の台湾赴任をもって実を結んだ。
都市建設の審議機関を組織し、台北の「市区計画」が策定される。
本国政府の関与を受けない特別統治だけに法的処理は迅速だった。
明治32年(1899年)4月、「台湾下水規則」が制定され、日本領内で初めて下水道と都市計画の関係が制度的に明文化される。
本国で「下水道法」が成立する1年も前のことだった。
以後、台北の下水道は帝都東京に先んじて整えられていく。
翌年には「台湾家屋建築規則」という都市建設の公的ルールが制定された。
この規則の施行で、台北から台中、台南、基隆、高雄へとインフラ整備と都市建設は同時並行で拡張した。
台北の都市改造で下水道と道路と並んで画期的だったのは、長く内と外を隔ててきた城壁の撤去である。
長尾半平をリーダーとする土木課から城壁を壊す提案を受けた新平は、総督の児玉源太郎に打診した。
児玉は撤去を認めたが、武人の美学か「門は残せ」と命じた。
残された「景福門(東門)」「麗正門(南門)」「承恩門(北門)」は今日も台北市街のシンボルとなっている。
財政難にあえぐ総督府は、城壁を構築していた頑丈な石を下水道の礎石や台北駅、台湾銀行、台北監獄舎、総督府官邸(現・台北賓館)などの建築石材にリサイクルして使った。
さらに城壁の跡は、そのまま3車線の広い道路に変える。
【土地改革】
清国時代、台湾の耕作地は「墾主(大租戸)」と呼ばれる地主と「業主(小租戸)」という開墾に携わった者がそれぞれ我が物にできる「二重所有」が認められていた。
新平は数理的で明晰な頭脳を持つ中村是公を臨時土地調査局長に据えて台湾の土地を丸裸にさせた。
土地調査局は、全島を測量して収穫高を計算し、地籍を明らかにする。
さらに将来の水利と発電に備えて河川の年間流出量も測られた。
これらの基礎データが台湾の経済開発の礎になったことは、あまり知られていない。
明治37年(1904年)5月、「大租権整理に関する件」という律令の発効で近代的な土地単一所有制に改められる。
総督府は、土地調査で全大租戸の所有権を、台湾事業公債と現金で買収して、田底権を放棄させ、実質的に土地を持っていた小租戸に所有権を一本化した。
大租戸と呼ばれていた地主は消滅し、小租戸だけが地主となり、地租の負担が義務付けられた。
土地調査によって、黙認されてきた隠し田もあぶりだされ、地租を課す土地の広さは、ほぼ倍増。
地租は、それまでの86万円から298万円へ3倍半に急増した。
小租戸が大租戸に納めていた分が地租に回されたからでもある。
地租と阿片や樟脳などの専売収入は、総督府の歳入の5割超に達した。
【製糖産業】
新平は、アメリカにいた新渡戸稲造を殖産局長に迎え、製糖業の将来を託した。
新渡戸は意見書を記し、サトウキビの品種や肥料の改良、保護誘致策を説いた。
水牛に石臼を曳かせてサトウキビの汁を搾る昔ながらのやり方を工場での近代的な製糖事業へ切り替える道筋を示した。
前後して国策色の濃い「台湾精糖株式会社(台糖)」が台湾初の精糖会社として創設される。
総督府は、肥料や開墾、灌漑、機械設備にかかわる費用の助成、補助を打ち出し、台糖の進出を歓迎した。
製糖産業と土地のバランスに決定的な影響を与えたのが「原料採取区域制度」だった。
これは「原料採取区域」内の農民が耕作したサトウキビを製糖会社が指し値で買い取れる制度である。
それが呼び水になって、新興製糖、塩水港製糖、明治製糖、大日本製糖、帝国製糖と本土資本が続々と進出してくる。
原料採取区域の拡大は、土地を奪われ、安い値でサトウキビを買い叩かれる農民に恨みを植え付けた。
新渡戸稲造は、経済の近代化と土着の産業保護の狭間で苦悶した。
その後、新渡戸は京都大学に職を得て「植民地政策」の講義を始める。
新渡戸は、日本の植民地政策を「公の良心」が足りず、「一身を投じて原住民のために尽くす」人材が少ないと痛烈に批判した。
統治に邁進する新平は、広い土地を官有、公有にして産業を興し、文明の利器を広めたい、経済発展の「光」が全島を照らし出せば、民は幸せになれると、苛酷な手段を選んで断行する。
飯を食わねば人は死ぬ。
飯の種をこしらえるのは経済であると新平は割り切った。
明治33年(1900年)に3万トンほどだった台湾の砂糖生産高は、5年後に6万トンに倍増し、30年後には100万トンを突破。
第二次大戦中は160万トンを記録する。
やがて製糖業は基幹産業に育ち、砂糖消費税は台湾の大きな財源となった。
(参考:発行者・澤田實 『日本人、台湾を拓く』 まどか出版 2013年第1刷発行)
(令和元年7月8日 追記)
旧台湾総督府博物館(旧児玉総督・後藤民政長官記念館) (現:国立台湾博物館) (中華民国・台湾・台北) (平成24年3月10日) |
児玉源太郎 総督像 | 後藤新平 民政長官像 |
児玉源太郎、後藤新平銅像 (解説パネルより) (平成24年3月10日) |
児玉源太郎、後藤新平銅像と「児玉総督及び後藤民政長官記念館」
現在の国立台湾博物館は、日本統治時代「児玉総督及び後藤民政長官記念博物館」と呼ばれてきました。
これは日本統治時代第四任の総督の児玉源太郎と当時の民政長官の後藤新平を記念するためとして建てられたものです。
当時の新公園(新公園は1995年から二二八平和公園と改名します)の中にあったこの記念館は1913年4月に着工し、1915年3月に竣工しました。
クラッシック風に出来上がったこの建築は左右対称な長方形であり、中央は高いドームで出来ており、正面は倣ギリシャドリス式の列柱からとなっています。
1915年4月、日本の彫刻家新海竹太郎が制作した児玉と後藤の立像が一階ロビー両■のアルコープに置かれました。
その時児玉像はロビーの東■、後藤像は西■のアルコープにありました。
第二次世界大戦後、中華民国国民政府はこの博物館を接収し、「台湾省立博物館」と改名しました。
この二体の銅像は元の位置から移動され、収蔵品となりました。
2008年はちょうど当博物館の成立百年記念であり、記念として当時の記念館の定礎板とこの二体の銅像を改めて展示します。
国立台湾博物館
「彩票局ビル」から「児玉総督及び後藤民政長官記念館」
1908年縦貫線鉄道開通の記念のため、台湾総督府は「台湾総督府民政部殖産局付属博物館」(略称「台湾総督府博物館」)を成立しました。
当時の博物館の位置は台北書院街の上の「彩票局ビル」にありました(その旧址は今の台湾総統府の後ろの博愛ビルにありました)。
1915年台北新公園内の「児玉総督及び後藤民政長官記念館」が竣工、総督府博物館はこの新館に移りました。
そして1915年8月20日に改めて開館しました。
その後、この場所で今まで存在してきたのです。
博物館のために「殉職」した初代館長
台湾総督府博物館の初代館長の川上瀧弥は台湾の植物の調査と研究に尽くしました。
1908年から川上瀧弥は博物館の館長となり、1915年死すまで職についていました。
聞くことには彼は博物館が新館に引っ越す期間、博物館内にベッドを置き寝ていたということです。
1915年8月20日、総督府博物館が改めて開館した翌日、川上瀧弥は病で亡くなりました。
享年44歳でした。
彼はのち後台北植物園内の建功神社に追嗣されました。
その原因は「殉職」でした。
(展示パネルより)
行政院衛生署澎湖醫院(旧・澎湖病院) (中華民国・台湾・澎湖島) 後藤新平が建てた病院と言われている。 (平成25年3月3日) |
【満鉄】
アメリカの鉄道王、E・ハリマンが、南満州鉄道の日米共同経営を日本政府に陳情するため東京に到着したとき、ポーツマス講和条約署名のインクはまだ乾ききっていなかった。
長い間、“独りでいた”日本は、突然、世界的な運送会社と関係を持つことになった。
そして、著名なアメリカ人と共同して事業を行えば、日本が門戸開放政策をとり、満州開発に各国が参加することに賛成する証あかしとなり、日本に対する各国の反感を和らげることになるだろうと見られていた。
しかし、後藤新平はそうは考えなかった。
「日本がこの鉄道に賭けるのは歳入などの増加ではなく、満州の植民地化である。鉄道は、10年以上にわたって、日本人50万に植民の機会を与える。もし、鉄道の権利を譲渡すれば、日本の支配は弱まるであろう」
こうして、ポーツマス条約締結の1年足らず後に、日本政府は南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立、満州における日本の経済的利益を管理させることにした。
日本人と中国人だけが投資を許され、そのため、これは“箸はしの同盟”といわれた。
東京市場で、この株が売り出されると、超過応募は千倍に達した。
後藤の思ったようになったのである。
1906(明治39)年、後藤は初代満鉄総裁となった。
彼はただちに影響力を発揮した。
即断即決で単線・複線を敷設する作業チームを配置し、倉庫・埠頭ふとう・諸官庁のビル・大連の新ホテルや住宅を建設していった。
そして、ハルピンから遠くない地点で、満鉄と東清鉄道とを連結させる交渉をロシア側と始めた。
さらに、180台の機関車と2060台の車両をアメリカに発注し、早急に納入するよう要求した。
(参考:ヒレル・レビン著・監修・訳者 諏訪 澄/篠 輝久 『千畝 一万人の命を救った外交官 杉原千畝の謎』 清水書院 1999年第5刷発行)
(平成29年2月1日 追記)
【満州への夢、醒める】
1925(大正14)年、引退前の後藤新平は、重要な計画をたずさえてソ連との交渉の最終段階にのぞもうとしていた。
それは、満州とシベリアを日本の植民地にして、日本の防衛と人口過剰の二つの問題を解決しようというものだった。
「現在の鉄道の経営で、今後10年間に50万の日本人を満州に移民させることができれば、ロシアの国力がいかに強かろうと、われわれが冒険的敵対行為を起こす必要はなくなろう」
交渉継続のため、後藤がモスクワを訪問したとき、スターリンはユダヤ人の外務委員ヨッフェを、同じユダヤ人の政敵トロツキーともども、すでに追放していた。
この時点では、後藤でさえ、ソ連相手の交渉では、ほとんど何も達成できないと認めざるをえなかった。
後藤は失望して東京に帰った。
1929(昭和4)年に亡くなるころには、満州への夢も醒めていた。
(参考:ヒレル・レビン著・監修・訳者 諏訪 澄/篠 輝久 『千畝 一万人の命を救った外交官 杉原千畝の謎』 清水書院 1999年第5刷発行)
(平成29年2月1日 追記)
【ハルビン学院】
ハルビン学院は、後藤新平の発案でできたロシア語専門の学校である。
後藤はロシア革命直後のシベリア出兵を積極的に推進したことで知られている。
だが、いざロシアに出兵しても、ロシア語が出来る者が少なく、ロシア側の情報が取れる者はほとんどいなかった。
その事実に愕然とした後藤は、ロシア問題のエキスパートを養成するため、ロシア人が多く住むハルビンに専門学校をつくることを発意し、大正9年(1920年)、ハルビン学院の前身となる日露協会学校をつくった。
(参考:佐野眞一 著 『阿片王 満州の夜と霧』 2005年発行 新潮社)
(平成27年10月13日追記)
【ハルピン学院】
1918(大正8)年、後藤はハルピンに日露協会学校(後のハルピン学院)を国立の学校として創設した。
後藤がハルピン学院をつくったのは、彼が外務大臣を辞めて間もなくのことであった。
この学院は1919(大正8)年から1945(昭和20)年まで続き、1585人の卒業生を送り出した。
彼のいう“軍事と文化”の一体化を実現するには、学校という組織が最も適していた。
彼はハルピン学院で高い理想を教えたが、官僚としてそれを実行に移すことはできなかった。
なぜなら、後藤は自由主義的で人道的だったかもしれないが、半面、明らかに反自由主義的な“武備”の理論家であった。
ハルピン学院 『日本人学生讃歌』
めざましき時代に生きる我ら
日本人学生よ、勇敢なれ!
ロシアと日本を兄弟にせん
東洋と西洋の友情よ、永遠なれ!
我らは新しき旭日の先駆者
西洋よ東洋に手をさしのべよ
我らはモスクワの壁を
ボルガ、ダニエプル、ウクライナ
またコーカサスの神秘を夢見る
東洋の隣国は、いまだ
闇の眠りから醒さめず
苦悶を続けるのみ!
オーロラよ、我らを導け
『学院音頭』
千里流るる スンガリーの水は
おらが朝餉あさげの むかい水
印度ペルシャやトルコの原に
今に おいらの墓が建つ
おらが行く道や 満州ぢゃねぇぞ
ウラル アルタイ 乗り越えて
急せくな騒ぐな 天下のことは
しばし美人の膝枕
おらは国士だ 生命いのちもいらぬ
天下御免の大往生
嫁にやるなら 学院男
男伊達より 胆ったま
(参考:ヒレル・レビン著・監修・訳者 諏訪 澄/篠 輝久 『千畝 一万人の命を救った外交官 杉原千畝の謎』 清水書院 1999年第5刷発行)
(平成29年2月1日 追記)
【東京市長】
後藤新平は、逓信、内務、外務大臣を歴任し、首相の座をもうかがおうかという大物政治家である。
その後藤が、国政から一時離れて東京市長になったのには当然それなりの理由がある。
それは、大正9年(1920年)、汚職事件で前東京市長の田尻稲次郎と三助役が一度に引責辞任するという、首都・東京の土台が揺らぐ大事件が起こったためであった。
頭を抱えた元老・山県有朋や原敬首相は、平時とは違う対応に迫られ、その豪腕ぶりに定評のある後藤に白羽の矢を立てると、拝み倒すようにして就任してもらったのだ。
後藤にとっては迷惑千万な話ではあったが、気を取り直し、こう考えるようになっていく。
〈一生一度国家の大犠牲となりて一大貧乏くじを引いてみたものの、東京市長はこのかねての思望を達する一端にあらざるか〉
彼がそう手記に書き残している“かねての思望”こそ、東京の都市改造計画であった。
世界でも一、二を争うほど人口の稠密ちょうみつなこの都市は、衛生面でも交通事情からも、欧米の近代都市と肩を並べるためには根本的な整備を必要としていた。
幅の広い道路を作り、上下水道を整備し、港湾を修復し、公園を作る。
今の我々からすれば当たり前の都市整備だが、それを実行に移そうとする市長はこれまでいなかったのだ。
徹底的に東京という都市の骨格を見直すため、後藤の想定した予算は何と8億円。
そもそも当時の年間国家予算は16億円弱だったから、その半分を使おうというのである。
数十年かけて行うものであったにせよ、けた外れの予算規模であることに変わりはない。
計画実現の第一歩として、古巣の内務省から働き盛りの若手を3人連れてきて助役に据えた。
「午後3時ごろの人間は使わない。お昼前の人間を使うのだ」
よくそう口にしていたという後藤らしい抜擢である。
市政のほとんどを彼らに任せ、自らは都市改造計画に集中しようとした。
後藤は在職中、市長としての俸給はすべて、負担をお願いしている助役3人の俸給への上乗せ分として市に寄付していたという。
(参考:北康利 著 『銀行王 安田善次郎〜陰徳を積む〜』 新潮文庫 平成2年6月発行)
(令和元年5月10日 追記)
【帝都復興大構想】
大正12年9月19日に帝都復興審議会が設立され、次の人々が国務大臣待遇の委員に任命された。
高橋是清、加藤高明、伊東巳代治、渋沢栄一、青木信光(貴族院研究会幹部)、市来乙彦(日銀総裁)、江木千之(貴族院公正会)、和田豊治(富士紡社長)、大石正巳(元憲政会代議士)。
このうち、加藤高明とケンカして政界を隠退していた大石正巳が、突然政界の表面に現れたのには世間がビックリした。
しかも、国民党分裂のさいケンカした犬養毅逓相が推薦したのである。
また、高橋、伊東、青木、江木、大石を五人組と称して、ことごとく後藤新平内相をいじめぬいた。
後藤内相は同審議会幹事長になって、例によって天才的大風呂敷を広げた。
後藤の復興案は、かつて大満鉄経営をやっただけに、さすがに雄大なる百年計画であった。
1、復興経費は原則として国費支弁。
2、罹災土地は公債を発行して全部買収し、土地整理をした後、公平適当に売却、貸し付けする。
3、経費は35億円。
4、帝都復興省を新設し、自治団体に属する事務も、これを集中的に執行する。
終戦後の東京都知事・安井誠一郎ごとき俗吏の短眼者に比べれば、じつに将来の東京の膨張を見通した卓見であって、この案が実現していれば、いまごろ東京再開発など世迷い言をいう必要がなかった。
しかし、復興省案は閣議で否決され、代わりに帝都復興院が新設されて10月26日に後藤が総裁になった。
後藤は閣議で、道路、公園、京浜運河等の計画を説明し、経費11億円を必要すと説明した。
後藤が、アメリカからビヤード博士を至急招致したのも有名である。
(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月第1刷)
(令和元年10月6日 追記)
(平成21年11月8日)
岩手県奥州市水沢区・水沢公園でお会いしました。
後藤新平像 (岩手県奥州市水沢区・水沢公園) 彫像者 米 治一 台座設計者 岡田信一郎 鋳造者 竹中製作所 建設工事担当者 戸羽 一 小原 福治 阿部石材店 (銘板より) |
後藤新平像 (岩手県奥州市水沢区・水沢公園) 青少年に希望と夢を 1971.4.22 ライオンズクラブ國際協会302Eー4地区 第17回年次大会記念 ガバナー 樋口正文 大会委員長 佐藤哲郎 (銘板より) |
後藤新平銅像(米治一作)
後藤新平は、安政4年(1857年)6月4日吉小路で生れ15歳で郷里をあとにした。
苦学して須賀川医学校を卒業、明治14年(1881年)25歳で愛知病院長となる。
明治31年(1898年)台湾総督府民政長官、明治39年南満州鉄道株式会社総裁を経て逓信大臣、鉄道院総裁、内務、外務大臣を歴任した。
大正9年(1920年)東京市長に就任。
関東大震災後の帝都建設の百年先を洞察する大見識は後年に至りさらに真価を高めた。
また、日本ボーイスカウトの初代総長となり少年たちを指導した。
さらに政治の倫理化運動に力を注いだ。
昭和4年(1929年)4月13日波瀾に富んだ生涯を73歳で閉じた。
銅像は、大熊氏広の作により明治44年(1911年)に建立されたが太平洋戦争の際応召し、その後昭和46年(1971年)4月22日東北3県(青森、岩手、秋田)ライオンズクラブ年次大会302E−4地区の記念事業として、旧台座の上に日本ボーイスカウト初代総長の姿の銅像が建立された。
(説明板より)
平成21年11月8日
岩手県奥州市・水沢江刺駅前でお会いしました。
「後藤新平と少年」の像 (岩手県奥州市・水沢江刺駅前) 銅像製作者 小野寺玉峰 台座設計 同 施工 (株)小野忠石材店 平成19年11月24日 後藤新平銅像移転推進会 (平成21年11月8日) |
「後藤新平と少年」の像 (岩手県奥州市・水沢江刺駅前) (平成21年11月8日) |
碑誌
この「後藤新平と少年」の銅像は、「羽黒山展望園構想」に伴い、1960年年代に建立されましたが、構想の頓挫により山中におかれたままの状態にありました。
そこで、後藤新平生誕150年の節目にあたる2007(平成19)年、有志が集い、広く浄財を募り、鉄道院総裁として提唱した広軌鉄道が実現した東北新幹線水沢江刺駅前に移築したものです。
長年の風雪により老朽化が進んでいた台座も、新しく、丈夫に、ここによみがえりました。
医者として、政治家として優れた業績を遺した後藤新平(1857〜1929)は、ボーイスカウトの初代総裁として、子どもたちの未来が明るく誠意にみちたものになるよう願っておりました。
この像には、その慈しみの心が描かれています。
わたしたちに自立の大切さを訴える「自治三訣」を遺し、悔やむことのない精一杯の生き方とは何かを示した新平の思いが、未来永劫、この地の精神的礎になるよう祈念いたしますとともに、ご賛同、ご厚志をいただきました皆さまに、衷心より感謝申し上げます。
平成19年11月24日
後藤新平銅像移転推進会
(副碑・碑文より)
水沢江刺駅 (平成21年11月8日) |
平成21年11月8日
岩手県奥州市水沢区・後藤新平記念館でお会いしました。
後藤新平像 (岩手県奥州市水沢区・後藤新平記念館) (平成21年11月8日) |
芝愛宕山の東京中央放送局(今のNHK)にあった胸像
初代放送局総裁である
(説明板より)
先見の政治家 後藤新平 |
後藤新平は1857年(安政4年)現在の奥州市水沢区吉小路に生まれ、6歳のとき武下節山たけしたせつざんの塾で漢学と書道を学びました。
腕白でいたずらがはげしく、先生に強くしかられることもありました。
負けじ魂の強い新平は、勉強には人一倍励み、読書や書をがんばりました。
12歳のとき、胆沢いさわ県庁の大参事だいさんじ(副知事級)安場保和やすばやすかずの屋敷で、掃除や主人の雑用、来客の送迎などをしながら、昼は学校へ通わせてもらい、安場の部下阿川光裕あがわみつひろに学問と生活上の指導を受けました。
新平は、阿川のすすめで福島県須賀川すかがわ医学校へ入学し、学資の援助を受けながら猛勉強をし、生徒とりしまりの役もつとめました。
医学校卒業後、医師として名古屋市の愛知病院に勤めることになり、オーストリア人のローレツ博士から西洋医術と衛生学を学ぶことができました。
新平の優れた才能と努力が認められ、24歳で愛知病院長と医学校長を命じられました。
新平はその後、内務省衛生局の仕事をし、ドイツへの私費留学によって、衛生制度や社会政策を学び、帰国後、衛生局長になりました。
1898年(明治31年)、台湾総督府民政長官を命ぜられ、盛岡出身の新渡戸稲造とともに気候にあった製糖業を盛んにしました。
1906年(明治39年)、南満州鉄道株式会社の初代総裁となり、鉄道や港湾の整備、都市づくり、住民生活の安定などをすすめました。
新平は、1908年(明治41年)、初めて逓信ていしん大臣となってから、内務・外務大臣を務め、近代日本を築くために活躍しました。
特に、鉄道院総裁を3度も務め、鉄道の広軌化こうきか(現在の新幹線と同じ幅にすること)や東京駅の建設等に情熱を傾けました。
1920年(大正11年)、日本ジャンボリーが開催され、少年団活動に理解のある新平は臨時総裁を引き受け、どんな相談にも熱心に応じ大成功に終わると、永く正式の総裁にと望まれました。
新平は、全国各地に出向き自治の精神を広めようと努力しました。(自治三訣さんけつ)
1923年(大正12年)、東京市長を退いて間もなく、関東大震災が起こり、新平は帝都復興院総裁として、世界で初めて区画整理による都市計画を推し進めることになりました。
1924年(大正13年)には、東京放送局(現在のNHK)の初代総裁となり、ラジオの普及と放送の活用のための努力をしました。
後藤新平は、1929年(昭和4年)71歳で世を去りましたが、常に将来を見通す先見の政治家として、その偉大な業績は、今日なお、社会・経済・文化などの発展に役立っています。
(後藤新平記念館のパンフレットより)
後藤新平記念館 (岩手県奥州市水沢区大手町4−1) (平成21年11月8日) |
平成18年7月25日
東京都港区愛宕山・NHK放送博物館でお会いしました。
総裁後藤新平之像 (NHK放送博物館) 朝倉文夫作 (平成18年7月25日) |
社団法人 東京放送局 初代総裁 後藤新平
1857年(安政4)〜1929(昭和4)
岩手県生まれ。
医師をへて官界に入り、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣などを歴任。
その後、東京市長や関東大震災後の帝都復興院総裁、東京放送局総裁をつとめた。
大正14年の放送開始の日「ラジオは文化の機会均等をもたらす」という内容の名演説を残している。
社團法人東京放送局ハ創始僅ニ1年有半ニシテ聴取者貮拾萬ニ達シ遂ニ全國礦石化ノ基礎ヲナセリ。
之レ固ヨリ總裁タル君ノ聲望ト指導ニ負フ所其ノ多ニ因ル依テ大正15年8月20日社員總會ノ決議ニヨリ胸像一基ヲ鋳造シ以テ永ク其功績ヲ記念ス
社團法人 東京放送局
(説明板より)
平成21年11月8日
岩手県奥州市水沢区・後藤伯記念公民館でお会いしました。
後藤新平伯像 (岩手県奥州市水沢区・後藤伯記念公民館) 皇紀2589年4月3日 贈 東京聯合少年團 倉林正雪 津田眞瑞 合作 (平成21年11月8日) |
左:後藤新平伯像 右:正力松太郎先生像 中央:後藤新平自治三訓の碑 (平成21年11月8日) |
後藤新平と正力松太郎
正力松太郎は、警視庁官房主事時代、内務大臣であった後藤新平を嫌って地方転出を希望したときがあるが、当時の警視総監湯浅倉平から警務部長として警視庁に残るよう説得され、大正12年10月27日警務部長に転じた。
しかしながら、後藤新平は、正力を直接呼びつけては政治上の用件をいいつけるなど自由に使った。
正力は、最初は大嫌いだった新平も直接使われてみると、その雄大な着想や計画に触れるに至り、次第に敬服するようになった。
そして、虎ノ門事件で免職となった正力に対し、新平から生活費の援助の申し出を受けて感激した。
この申し出は辞退したが、新平は自分が相馬事件で収監された時に、母親が訓戒和歌集の歌を家人に読み聞かせて新平の苦労を共感した話しをし、その歌集を正力に与えた。
この日から正力は心から新平を信頼できる先輩と信服うるようになった。
その後、正力は読売新聞社を経営するため、その資金について新平に相談した。
新平は1、2分考えただけで、「新聞経営は難しいと聞いているから、失敗したらきれいに捨てて未練は残すなよ。金は返す必要ないからな。」と言って10万円を正力に貸した。
このとき、正力は、新平に親の愛を感じたと言われている。
正力は、新平の死後になって、その金は新平が住んでいた麻布の土地を担保に無理な借金をして作ったものであることがわかり、感激し、号泣した。
そして、新平の郷里の水沢に公会堂を作ってほしいと、建設費15万円に維持費5万円を足して20万円の金を当時の水沢町に寄附した。
この施設は、昭和16年11月に竣工し、その名称は、新平の甥の椎名悦三郎が「公民館」と名づけた。
これが公民館のという名称の日本第1号となり、公民館発祥の地と呼ばれるゆえんとなっている。
(チラシより)
後藤新平自治三訓の碑 (岩手県奥州市水沢区・後藤伯記念公民館) 人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そしてむくいをもとめぬよう (平成21年11月8日) |
「記念公民館」の碑 (岩手県奥州市水沢区・後藤伯記念公民館) (平成21年11月8日) |
記念公民館
本記念公民館は故後藤新平伯爵の生前其知遇を受けたる讀賣新聞社長正力松太郎君が故伯の忠誠豪邁なる人格を永く地上に標置し以て薫化育英の源泉と為さんと欲し故伯の出身地水澤町を選んで之を建設寄附したるものなり
昭和16年11月3日
水澤町
(碑文より)
「留守家家老余目氏の宅跡」の碑 (平成21年11月8日) |
後藤伯記念公民館(日本第1号公民館) (岩手県奥州市水沢区大手町4−1) (平成21年11月8日) |
沿革
故後藤新平伯の生前、その知遇を受けた当時の読売新聞社社長正力松太郎氏が、故伯の13回忌を迎えるに当たり、旧恩忘れ難く謝恩頌得の志に燃え、伯の生誕地水沢町(区)に当時、総工費15万円と維持費5万円を添えて、昭和16年11月3日に贈られた記念の建物です。
当時、商工省総務局長で当町(区)の出身であった椎名悦三郎氏の命名により『後藤伯爵記念公民館』となりました。
『公民館』の名称は、当公民館が『日本第1号』であることから、今では『公民館発祥の地』とも呼ばれています。
後藤伯記念公民館のいわれ
大正12年9月、後藤新平が内務大臣に就任したとき、正力松太郎は、警視庁官房主事として知遇を得ました。
松太郎は、新平のスケールの大きいものの考え方や、先見性に心酔し、新平もまた、松太郎の仕事に対する誠意、熱意、創意を通して、将来大物になることを予見しました。
しかし、松太郎は、虎の門事件が起こり辞職の止むなくにいたります。
松太郎が野に下る事を知った新平は、「生活費は全部出してやるから、当分静養したまえ」と激励します。
免官になって悲境のどん底にあった松太郎はその人情のうるわしさにただただ感激したといわれます。
やがて、松太郎のところに「読売新聞をやらないか」という話が持ち込まれますが、10万円の資金の工面がつきません。
万策尽きた松太郎は、新平を訪ねます。
その時、新平と取り交わした会話を松太郎は次のように話しています。
「何しに来たか」
「金が10万円欲しいのです。」
「何するか」
「読売新聞をやりたいと思います。」
「よろしい」
たった1分間の会話の後、「正力君、新聞というものはなかなか難しいものだ。失敗したら金は返さんでもいい。」
と言ったそうです。
松太郎は、その言葉に「親の愛」を感じたといいます。
「命がけで働け」という激励の言葉として胸に刻み、やがて新聞事業で大成功を収めたということです。
新平死して4年、松太郎は、新平の子息、一蔵伯から10万円の出所を聞き、驚きかつ感涙にむせびます。
金は某実業家から出たなどの噂もありましたが、実は、自宅の土地を担保にして生み出したお金であることを知ったのです。
これに報いるために、松太郎は新平の生誕の地、水沢町(区)に公会堂を建設し、地下に眠る新平の霊に捧げたいと願い、総工費15万円と維持費5万円を寄贈したものです。
なお、建造物の命名にあたっては、「【練成道場】のような時流に便乗するようなものではならぬ。」という松太郎の願いを受けて、時の商工省総務局長の椎名悦三郎が「公民館」と名づけたといわれています。
(リーフレットより)
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