北白川宮能久親王像

北白川宮能久親王 きたしらかわのみやよしひさしんのう

弘化4年2月16日(1847年4月1日)〜明治28年(1895年)10月28日

東京都千代田区 国立近代美術館・工芸館の近くでお会いしました。


北白川宮能久親王は弘化4年2月16日に伏見宮邦家親王の第9子としてお生まれになり、明治5年3月に北白川宮家を相続されました。
陸軍軍人として第6、第4、近衛師団の師団長を歴任、明治28年4月に日清戦争に出征し台湾を平定しますが、明治28年10月28日に台湾の台南で病(マラリア)のためお亡くなりになりました。


北白川宮能久親王銅像

弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第九皇子として御誕生。
嘉永元年(1848)青蓮院しょうれんいん宮御相続、安政5年(1858)輪王寺りんのうじ宮御相続、公現こうげん法親王(俗名能久よしひさ)と称せられ、上野寛永寺の門跡もんぜきとなられる。
明治3年(1870)還俗げんぞくして伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。
同年勅命によりプロシヤ国留学を命ぜられ、同国歩兵・砲兵聯隊、参謀学校等で兵学を学ばれ、明治10年御帰朝、近衛砲兵聯隊御隊附。
御留学中の同5年北白川宮を御相続遊ばされた。
同17年陸軍少将に任ぜられ、歩兵第1旅団長、参謀本部御出仕。
同25年陸軍中将に任ぜられ、第6・第4師団長を御歴任、同28年1月近衛師団長に親補せられ、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘えんねつしょうれいの地で疫病に罹らせ給い、明治28年10月28日(1895)台南に於て薨去遊ばされた。
御歳49歳。
陸軍大将に任ぜられ、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜わり、国葬を以て豊島岡陵に御埋棺された。
銅像は、明治36年1月26日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第1第2聯隊正門前(現在地より東方約60メートル)に建立されたが、昭和38年北の丸公園整備計画に従いこの地点に移された。
制作は、渡台時近衛騎兵として側近に仕えた斯界の大家新海竹太郎によるもので、芸術的にも高く評価されている。
鋳造は陸軍砲兵工廠である。
建立後80余年を経て若子個所の損傷を見るに至ったので、昭和60年有志相諮り修復した。

昭和60年10月28日
親王90年祭にあたり元近衛師団戦友会誌す


【北白川宮能久親王】

能久親王は波乱の生涯で知られた人だ。
13歳で得度して輪王寺宮りんのうじのみや(門跡)となり、天台座主ざすに就任。
当時の天台座主は、幕府の影響の強い江戸の寛永寺や輪王寺の勢力下にあった。
したがって、輪王寺宮も幕府側に立つ事になる。
江戸開城後も東北に逃れて抵抗をつづけ、奥羽越おおうえつ列藩同盟の盟主に推されるが、仙台で降伏。
一説には、戊辰ぼしん戦争当時、「東武皇帝」として即位したと伝えられている。
敗北後は、京都に連れてこられて、そこで蟄居ちっきょを申しつけられる。
明治2年に赦され、のち北白川宮家を継いだ。
近衛師団を率いて渡った台湾征討戦の従軍中マラリアに罹り、明治28年10月に台南で病没。
その後、能久親王は、明治34年に創建された台湾神社(台北の最高級ホテル圓山えんざん大飯店の場所にあった)の主祭神とされた。

明治36年、北白川宮能久親王像がゆかりの地である師団長を務めていた近衛師団麾下きかの近衛第1・第2聯隊営門前(現・千代田区北の丸公園)に建てられた。
銅像は、戦時中の金属供出や敗戦後の“軍国主義の銅像撤去”の荒波をくぐり抜けて残ったが、昭和30年代後半、移転を余儀なくされた。
東京オリンピックという現代の錦旗きんきには勝てなかったのだ。
北白川宮能久親王の騎馬像は、昭和38年、北の丸公園整備という名目で、もとの場所から約60メートル西の木立に移動した。

(参考:竹内正浩 著 『戦争遺産探訪 日本編』 2007年7月 第1刷 文春新書)

(平成27年12月22日・追記)


北白川宮御上陸遺跡碑


北白川宮御上陸遺跡碑
(茨城県北茨城市平潟町・平潟港)

戊辰の役で旧幕府軍に推された北白川宮が、上野戦争を避け東北に逃れる途中、平潟港に上陸し、陸路を会津若松へ向かったそうです。


(平成18年11月10日)
平潟港



平潟港
(茨城県北茨城市平潟町)





(平成18年11月10日)

平安期の頃関本里根川沿岸の長良千軒と言う一部落が洪水の為流され其の難民の一部が今の長浜(当時長良浜)に住み後天正の頃この地を開拓平方(後に平潟と改称)と命名一団体が独立した平潟港は仙台江戸間の唯一の自然港である
寛永年間仙台藩がここを築港し海路運送を始めた寛文十年伊勢国の大冨商人河村瑞賢が幕命により仙台荒浜より江戸間の航路を開拓平潟港に番所を設け陸奥の国よりの食糧を敏活にかつ正確に江戸に運び忽然として現れた世界一の大都市百万人の江戸の人々を餓死より救う事ができた
河村瑞賢の墓は鎌倉市建長寺にある
寛文九年鎮守八幡神社を現在地に遷座す
元禄二年徘■師逢国上人芭蕉碑を建う

  この辺り目に
     見ゆるものみな涼し

嘉永六年、藤田東湖此の地に遊ぶ
山静海■の一書を残す

(説明板より)

※ ■は判読不明な文字です。


台湾
監寮海濱公園 
(台湾・新北市貢寮郷仁里村)




日本軍上陸地点付近
(台湾・監寮海濱公園)





(平成24年3月11日)
現地説明板

【近衛師団出兵経路図】
近衛師団は天皇の親衛軍。
中日戦争末期、近衛師団は命を奉じて遼東半島に向かい、戦争への参加を準備していた。
程なくして中日両国は和議に達し、下関条約を締結。
大本営は直ちに近衛師団を台湾駐屯軍に選び、部隊は旅順、大連から南下し、琉球の中城湾で集結後、台湾へ上陸した。

【近衛師団旅順出港】
1895年(明治28年)5月21日から、旅団司令部、歩兵第一旅団、騎兵、砲兵、工兵、後方部隊などを含む近衛師団の先遣部隊は旅順、大連を出発、琉球の中城湾で集結し、その後台湾に上陸した。
この写真は旅順港出港時の慌しい状況を写したもの。

【北白川宮能久親王像】
ドイツ留学経験を有する北白川宮能久親王は、几帳面な性格の軍人であった。
1895年(明治28年)近衛師団団長を務め4月命を奉じて出征、北京攻撃を予定していた。
中日両国が講和条約を締結後、能久親王は近衛師団を率いて台湾へ行き、台湾上陸の任務を遂行した。
最後は、台湾攻撃戦の最中異郷に客死した。

(現地日本語説明板より)






「能久親王上陸後の記念撮影」説明板

(台湾・監寮海濱公園)




(平成24年3月11日)

【能久親王上陸後の記念撮影】

5月31日午前、能久親王は部隊を率いて上陸、「林投樹」に囲まれた砂場に設営した。
親王の椅子は船から運ばれてきたものである。
初代台湾総督樺山資紀が陣中見舞いに訪れ、近侍が2つのモッコを拾ってきてとまを被せて座席に充てた日本軍が離れる際、日本皇族最初の上陸地として木製の記念碑を立て標とした。

(現地日本語説明板より)





日本軍澳底上陸記念碑
(台湾・監寮海濱公園)

現在は「監寮抗日紀念碑」と刻まれている。





(平成24年3月11日)

【日本軍澳底上陸記念碑】

野営地の木製記念碑を花崗岩でつくった北白川宮征討記念碑に建て替える。
その上の円錐の物体は、満清軍から奪った戦利品の砲身を改鋳して作ったもの。
昭和期、台湾総督府によって史跡に指定された。
光復後、民衆によって破壊された民国64年に至り、現在の抗日記念碑を建て直した。

(現地日本語説明板より)


供養塔

故参謀総長陸軍大将大勲位功二級有栖川熾仁親王尊霊
故近衛師団長陸軍大将大勲位功三級北白川能久親王尊霊
明治二十七八年没戦病死者
貳萬壹千四百貳拾四名 霊
供養塔

(長野県長野市・善光寺)



(平成20年10月28日)

日清戦争戦没者供養塔

明治27・28年の日清戦争において戦病没せる二万一千四百二十四名の兵士と有栖川宮・北白川宮の供養塔であります。

建立 明治35年(1902)9月
善光寺

(説明板より)

善光寺



善光寺

(長野県長野市元善町)





(平成20年10月28日)



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