山村暮鳥 やまむら・ぼちょう

明治17年(1884年)1月10日〜大正13年(1924年)12月8日


群馬県出身
本名は土田八九十はくじゅう
明治41年(1908年)、聖三一せいさんいち神学校を卒業。
日本聖公会伝道師として各地を転任。
明治43年(1910年)自由詩社同人となる。
大正2年(1913年)詩集『三人の処女』を自費出版。
萩原朔太郎室生犀星と人魚詩社を起こし、『卓上噴水』を創刊する。
詩集『聖三稜玻璃せいさんりょうはり』を刊行。
鋭角的で鮮明な前衛的な詩風。
大正18年(1929年)刊の『風は草木にささやいた』では、人道主義的作風に転じる。
晩年は東洋的枯淡の境地に沈潜した。

(参考・引用:『日本史人物辞典』 山川出版社 2000年第1版)


山村暮鳥詩碑


詩碑
(茨城県那珂郡東海村・村松山虚空堂)




(平成22年3月29日)

「おう土よ生けるものよ その黒さに太古のかほりがただよってゐる」
録暮鳥詩 犀星
昭和十四年深秋

(詩碑より)

暮鳥詩碑の記

山村暮鳥 本名 小暮八九十 後 土田氏となる
明治17年1月 群馬町に生まる
長じて上京し 聖三一神学校を了え  伝道師として各地に転じつゝ 詩作に励み 日本近代詩史上に 不朽の足跡を残す
大正9年1月 居を大洗町に定め 多くの作品を 世に問う
殊に傑作「雲」を■表し 光芒を放つ
その間 村松に遊ぶ
大正13年12月8日長逝す
昭和12年 村松村長照沼信忠 村松山二世原隆明ら 暮鳥を敬慕する人々 詩碑建立のことをはか■
14年秋 たまたま萩原朔太郎とともに来水■ 暮鳥が友 室生犀星に書を乞うも 戦時下故を以て中絶せり
昭和47年春 照沼信邦 亡父の遺品の中に ■■書を見出す
詩集「土の精神」の一節なり
されば 同志相より 先人の素志を完うせんと■■ 立志以来四十年 暮鳥逝きて 五十有ニ年にして 茲にこの碑を建つ
感 無量なり
即ち その由来を刻し以て後世に残す

昭和51年12月
東海村長 川崎義彦 撰并書

(副碑・碑文より)

村松山虚空堂・山門

村松山虚空堂・山門
(茨城県那珂郡東海村村松8)



(平成22年3月29日)

村松皇大神宮こうだいじんぐうと虚空蔵尊こくぞうそん

村松皇大神宮、平安時代の初め桓武天皇の時代に、伊勢神宮の御分霊を奉斎したと伝えられている。
水戸藩主徳川光圀斉昭の崇敬厚く、本殿、社殿などを寄進され、ことに光圀は、佐々介三郎(助さん)に命じて神鏡を奉納している。
村松虚空蔵尊、宗派ー真言宗
平安時代の開山といわれ、伊勢の朝熊山あさまやま、会津の柳津やないずと並んで日本三大虚空蔵の一つで、弘法大師の作といわれる虚空蔵菩薩ぼさつを本尊にまつる。
菩薩は福徳智能を授け、厄除け、開運の守本尊として、徳川家康、徳川光圀などの尊信が厚かった。
今も「十三詣り」といって13才の子女が参拝すると知恵が授けられるといわれ、近郷からの参詣者が多い。

東海村

(説明板より)


【山村暮鳥】 

暮鳥は明治17年(1884年)1月10日、群馬県西群馬郡棟高村(群馬県高崎市)の農家に、父・木暮久七、母・志村シヤウの長男として生まれた。
家は複雑で貧しく、11歳で小学校高等科を中退。
15歳の時、年齢を3つ誤魔化して小学校准訓導免許状、つまり代用教員の辞令を受けたという。
当時、昼は学校で教え、夜は近郷の松山寺の住職に漢籍を学び、四書、五経、史記、左伝などを読んだ。
17歳の時、前橋市の聖マッテァ教会で英語夜学校が開校されると、毎夜往復7里の道を通って英語を学んだ。
18歳の時、同教会で洗礼を受けている。

明治36年(1903年)、日本聖公会高崎講義所の宣教師ミス・ウォールの尽力で東京佃島にあった聖マッテァ伝道学校に入学し、のちに聖三一せいさんいち神学校に編入学した。
このころから文学への関心が目覚め、翌年には相馬御風そうまぎょふう、岩野泡鳴いわのほうめいらの『白百合』に、小暮流星の名で短歌を投稿している。
明治41年(1908年)、聖三一神学校を卒業。
伝道師として秋田、仙台を経て、明治44年に水戸市の日本聖公会水戸基督教会に赴任した。

この間にも明治40年には雑誌『南北』を創刊して小説を発表。
また詩を蒲原有明かんばらありあけの紹介で『文章世界』に掲載している。
明治42年には雑誌『北斗』を創刊。
明治43年に人見東明らの自由詩社の同人となり、はじめて山村暮鳥の筆名を用い、その機関誌『自然と印象』をはじめ、『創作』、『秀才文壇』、『早稲田文学』などに精力的に詩作品を発表するようになった。
このころから内に占めていたキリスト教の重みの大きさに自ら苦しむようになり、生涯担っていく苦悩、宗教か文学かの対立が鮮明に表われてくる。

大正元年(1912年)、福島県平町(いわき市)の日本聖公会平講義所に転任。
翌2年には詩集『三人の処女おとめ』を出版。
牧師土田三秀つちださんしゅうの長女・冨士と結婚して土田家の継嗣となった。
大正3年には萩原朔太郎、室生犀星と人魚詩にんぎょし社を起こす。
同5年、詩集『聖三稜玻璃せいさんりょうはり』、同6年には随筆集『小さな穀倉より』を出版する。

大正7年(1918年)1月、水戸ステパノ教会に赴任。
大関五郎、柳橋好雄らと黎明会を結成し、機関誌『苦悩者』を創刊する。
9月には大喀血して病床に臥しつつ詩集『風は草木にささやいた』を刊行。
翌年5月には療養の身でありながら関西に旅行する。
茂木正蔵に宛てた書簡に「奈良の仏像、美術と宗教との差別を徹した一個の偉大な信念、本然に生きたその生活などを自分は見且つ考えて、いままで知らなかった力をそこに発見しました。自分の生活もそれが一新回転を来らすでしょう。我らの祖先の宗教、信念乃至芸術や思想その偉大さは決して西欧のそれに比して遜色あるものではありません。ああ、あんな仕事をした祖先の生活がうらやましい。あんなことの出きた時代をなつかしく思います」と書いている。
この年の6月、日本聖公会伝道師を休職。
1年後に仕事に復帰できなければ退職となった。
教会に対する不信を「これが現代教会のやり口です。愛の福音も何もあったものか。使えるうちは馬車馬のように、そして駄目になれば追い払うのです」(本井商羊宛て書簡)と書いている。

以後、大洗町に転居。
肺結核や貧困と闘いながら、詩集『梢こずえの巣にて』、自伝的小説『十字架』、童話集『鉄の靴』、評伝『ドストエフスキー』、『聖フランシス』などを出版。
大正13年(1924年)11月、詩集『雲』の校正を病床で終えて病状が悪化し、12月8日、40歳の生涯を終えた。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年7月7日 追記)




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