平成22年4月6日

八代六郎 やしろ・ろくろう

安政7年1月3日(1860年1月25日)〜昭和5年(1930年)6月30日

愛知県犬山市・大縣神社でお会いしました。


海軍大将男爵八代六郎像


海軍大将男爵八代六郎像
(愛知県犬山市・大縣神社)




(平成22年4月6日)

碑文

男爵八代六郎君松山庄七君二子萬延元年正月三日生于是地幼為八代逸平君所養明治十八年任海軍少尉累進海軍大臣海軍大将枢密顧問官歴在外武官参謀艦長司令長官等顕職陛正三位勲一等特授男爵従日清日露両役依戦功叙功三級君性寛仁而忠直憂國之志最切昭和五年六月三十日薨于東京享年七十一其病■特叙従二位授旭日桐花大綬章蓋異數也君配小野氏無子善甥為嗣

昭和十二年三月
■人 常松憲三撰
五筆■■雲岳書

大縣神社


大縣神社

(愛知県犬山市字宮山3)




(平成22年4月6日)

大縣おおあがた神社

御祭神 大縣大神(尾張国開拓の祖神)
例祭日 10月10日

由緒
社伝によれば、当社ははじめ本宮山(一名真■山)の頂に御鎮座まししを、垂仁天皇27年8月に現在の地に新宮を営み、御遷座されたと伝えられる。(平成9年は御遷座2000年)
承和14年従五位下を授けられ、仁寿元年官社に列し、同3年従四位下についで貞観元年従四位上に進められ、同15年正四位下昇叙され、延喜の制では名神大社に列せられた。
古来より朝廷を始め武家武将の尊崇深く、殊に事業繁栄・開運厄除の守護神として上下の人々の信仰篤く尾張国二宮と称せられ、大正7年には国弊中社に列格せられた名社である。
御社殿は、尾張藩主二代目徳川光友公御再興の建物で、尾張造の構造様式を正確に伝え、国の重要文化財に指定されている。

(〜以下、略〜)

(説明板より)


経歴
  愛知英語学校卒  
明治10年 1月 海軍兵学校入学 第8期 
明治14年 9月 海軍兵学校卒・少尉補 卒業順位19番/35名
明治18年 6月 少尉  
明治20年12月 大尉  
明治21年 6月 海軍兵学校副官 校長:有地品允少将
明治23年 7月 ウラジオストク出張・駐在 前任:坂元八郎太大尉(海兵5期)
後任:3年間不在 
明治26年 4月
明治26年 5月 軍令部出仕 軍令部長:中牟田倉之助中将
明治26年12月 「高千穂」分隊長  
明治28年 2月 「吉野」分隊長  
明治28年 8月 常備艦隊参謀  
明治28年12月 ロシア公使館付 前任:野元綱明大尉(海兵7期)
後任:野元綱明中佐(同)  
明治29年10月 少佐
明治30年12月 中佐
明治32年 7月 帰朝
軍令部出仕 軍令部長:伊藤祐亨中将
明治33年 1月 「八島」副長  
明治33年 5月 常備艦隊参謀 司令長官:鮫島員規中将(5/20まで)
参謀長:遠藤喜太郎大佐(5/21まで)
司令長官:東郷平八郎中将(5/20から)
参謀長:吉松茂太郎大佐(5/21から)
明治33年 6月 「宮古」艦長  
明治34年10月 大佐
「和泉」艦長
 
明治34年10月 海軍大学校選科学生  
明治36年 7月 海軍大学校卒業
「浅間」艦長
 
明治38年12月 ドイツ公使館付 前任:滝川具和大佐(海兵6期)
後任:伊藤乙次郎大佐(海兵13期)   
明治39年 1月 ドイツ大使館付
明治40年12月 少将
明治41年11月 帰朝
明治41年12月 横須賀鎮守府予備艦隊司令官 鎮守府長官:上村彦之丞中将(海兵4期)
明治42年12月 第1艦隊司令官(?)  
明治43年 6月 呉鎮守府付 長官:加藤友三郎中将(海兵7期)
明治43年 7月 練習艦隊司令官  前任:伊地知彦次郎少将(海兵7期)
後任:加藤定吉少将(海兵10期)
明治44年 3月 第2艦隊司令官(?)  
明治44年12月 中将
海軍大学校校長
前任:山屋他人中将(海兵12期)
後任:吉松茂太郎中将(海兵7期)
大正 2年 9月 舞鶴鎮守府長官 前任:三須宗太郎中将(海兵5期)
後任:坂本 一中将(海兵7期)
大正 3年 4月 海軍大臣 前任:斉藤 実(海兵6期)
後任:加藤友三郎(海兵7期)
大正 4年 8月 待命  
大正 4年12月 第2艦隊司令長官 前任:名和又八郎中将(海兵10期)
後任:依仁親王

参謀長:永田泰次郎少将(海兵15期)
大正 5年 7月 男爵  
大正 6年12月 佐世保鎮守府長官 前任:山下源太郎中将(海兵10期)
後任:財部 彪中将(海兵15期)
大正 7年 7月 大将  
大正 7年12月 軍事参議官  
大正 8年11月 待命  
大正 9年 8月 予備役  
大正14年12月 枢密院顧問官  

(参考:秦郁彦 編 『日本陸海軍総合辞典』 1991年初版 東京大学出版会)


【八代六郎】

名古屋の人。
ロシアに3年留学してロシア語は大変上手。
「浅間」艦長として尺八を吹いたりした人。

「八島」の副長着任時、総員を集めて「八島という艦は日本一だ。したがってこれに乗っている人は日本一の人ばかりである。艦長も日本一、砲術長も日本一、掌帆長、掌砲長みな日本一だ」と言い、「唯一の例外なのが自分で、日本一まずい副長だ」と言う。
「だが、取り柄は、俺は艦に来るとき墓場を青山に作ってきた。そして墓場に入る用意をして乗り込んできた。これが俺の取り柄である。ほかには何も取り柄はない。それだから自分は全力諸君に頼る。そしてそのおかげで日本一の艦が日本一の成績をあげるんだ」と言う。

八代は「掌帆長、よかったらね、何も言わずに『よろしい』とさえ言えばいいのだ」と掌帆長に言う。
自分は何もわからずにシェルターデッキ(待避甲板)で頑張っていて、何も細かいことを言いもせずに、掌帆長が「よろしい」と言うのを待っている。
そうすると掌帆長は日本一の掌帆長にまつりあげられているものだから、手を挙げて「よろしい」と言うまで一生懸命になる。
掌帆長が「はいよろしい」と言えば八代副長は、これを受けて艦長に「艦長よろしい」と言うだけ。

夕方になると士官たちに「皆上陸」と言う。
「(艦に残るのは)私一人でいいんだ、自分は青山の墓地にいつでも入れる準備をしてきたのだから、皆はここで家族もあるだろうし、皆上陸して自由自在にせよ」と言う。
まさか副長一人を艦に置いておくわけにもいかぬので、うまくやって2〜3人差支えないように残って、あとはみんな上陸していいようになった。
そういう機略縦横の人であった。
それだから艦の成績は上がる。
細かいことは一切言わない。

のちに海軍大臣になり「シーメンス事件」で山本権兵衛や斎藤実大将を予備役にし、いろいろ批判もあったが、自分の墓はすでに作ってきたという人だから、日露戦争では仁川で「ワリヤーク」を撃破して自沈させ、また日本海海戦には決死隊をつくり、「浅間」が旗艦となって駆逐隊2〜3隊を引っ張って突進する計画があったときなどには、いつも八代が参加していた。

(参考:山梨勝之進 著 『歴史と名将〜戦史に見るリーダーシップの条件〜』 毎日新聞社 昭和57年2月第9刷発行)

(平成29年5月4日 追記)


【海軍大臣】

大正政変のあとを受けて誕生した山本権兵衛内閣だったが、シーメンス事件に端を発した一連の倒閣運動によって、1年1ヵ月で総辞職を余儀なくされた。

大正3年(1914年)4月13日、大隈重信に組閣の大命が下った。(第2次大隈内閣)
大隈の推挙を決定づけたのは静岡市の興津おきつに病臥していた井上馨だった。
翌14日午後11時15分、大隈の使いという江木翼が斎藤実を訪れた。
「大隈伯は、海軍大臣として、舞鶴鎮守府司令長官の八代六郎をご希望しておられる」
八代は清廉潔白な武人として知られていた。
15日、上京した八代は海軍軍備補充のための臨時議会を条件に海相就任を承諾した。

4月16日、斎藤実は、海軍省において新海相の八代六郎と事務引継ぎを行った。
海軍次官には鈴木貫太郎少将、軍務局長には秋山真之少将が起用されていた。

八代海相の方針によって、組閣翌日に山本権兵衛と斎藤実の両大将が待命となり、5月10日には予備役に編入となった。
異例のことである。
「これはあまりにもむごい仕打ちではないか」
そのような声が海軍内部からもあがった。
東郷平八郎元帥は、やはり元帥の井上良馨よしかとともに、この措置について苦言を呈するため八代海相を訪れた。
東郷と井上が詰問すると、八代は海軍予算の不成立、松本和中将の収賄による海軍名誉の毀損など3点の理由をあげ、「海軍部内における信頼はもはや地に墜ち、現役に留まる必要なしと認むるに至れるなり」と手厳しく言った。
これを聞いた東郷は平然として辞去したが、井上は不平をもらしながら立ち去った。
八代は側近に、「これまで東郷元帥を神様のように思っていたが、元帥もやっぱり人間だ」と語っている。

八代海相の英断は、海軍の信頼を高めたとして評価されることが多い。
だが、八代の秘書官を務めた野村吉三郎(のち外相・駐米大使)は、「清廉な人だったが、政治的な手腕については、山本さんや斎藤さんにははるかに及ばなかったように思う」と述懐している。
この年の夏、第一次世界大戦が勃発し、大隈内閣のもとで日本も参戦する。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月6日 追記)




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