平成23年2月10日

福沢諭吉 ふくざわ・ゆきち

天保5年12月12日(1835年1月10日)〜明治34年(1901年)2月3日
※公式の誕生日は天保6年1月10日(旧暦の12月12日)だそうです。

大分県中津市・JR中津駅前でお会いしました。


豊前国中津藩の大坂蔵屋敷で生まれ、幼時に中津に帰る。
長崎遊学、大坂で緒方洪庵の蘭学塾に学ぶ。
安政5年(1858年)江戸鉄砲洲の中津藩中屋敷内で蘭学塾を開く。
万延元年(1860年)幕府使節に随行し渡米。
翌年から1年間ヨーロッパを歴訪。
元治元年(1864年)幕臣・外国奉行翻訳方となる。
慶応2年(1866年)『西洋事情』を刊行。
慶応4年=明治元年(1868年)塾を慶應義塾と改称。
明治7年(1874年)から三田演説会を開いて都市の民権運動を主導。
明治9年(1876年)『学問ノスゝメ』17編が出版される。
明治12年(1879年)東京学士会院の初代会長に選ばれる。
明治15年(1882年)『時事新報』を創刊して皇室論・女性論・アジア攻略論を展開。
明治18年(1885年)『脱亜論』『日本婦人論』を時事新報に発表。
明治31年(1898年)脳卒中で倒れる。
明治33年(1900年)特別講演を行い、「独立自尊」などの「新時代の修身要領」を発表。
明治34年(1901年)1月1日、『痩せ我慢の説』を時事新報に掲載し、徳富蘇峰と論争となる。
同年1月25日、脳卒中を再発し、2月3日、脳溢血のため三田の自邸で没す。68歳。

(平成18年2月17日改訂)





福沢諭吉先生像

(JR中津駅前)

揮毫 八並操五郎
制作 辻畑隆子


(平成23年2月10日)

福沢諭吉先生の肖像入り新一万円札の発行を機に、先生の偉大な遺徳を知り、広く世界に顕彰するために、中津市民の総意として、昭和58年11月28日に「福沢諭吉顕彰会」を設立、一世帯一会員運動を起こし、顕彰の機運も盛りあがり、先生の名言「独立自尊是修身」を学び、新しい世代に引き継ぐシンボルとして、ここに先生の尊像を建立します。

昭和60年2月吉祥日
福沢諭吉顕彰会
会長・中津市長 八並操五郎

(銘板より)





福沢諭吉先生像のある駅前ロータリー
(JR中津駅前)




(平成23年2月10日)
蘭学の泉ここに湧く

豊前中津藩は、江戸中期から明治にかけて多くの蘭学者を輩出した。
その背景には藩をあげて蘭学研究に大きな支援を与えたことにある。
福沢諭吉の誕生も、この伝統と土壌があったためである。
ここに中津藩の蘭学興隆に、多くの力を尽くした人々を掲げ、その功績を記す。

奥平昌鹿(1744年〜1780年)
     第3代中津藩主として、蘭学に関心をもち、前野良沢を育成した。
前野良沢(1723年〜1803年)
     杉田玄白らと共に「ターヘル・アナトミア」を翻訳して「解体新書」を著し、日本の蘭学の鼻祖となった。
奥平昌高(1781年〜1855年)
     第5代中津藩主。
     シーボルトと交流し、神谷弘孝(源内)に「蘭学訳撰(和蘭辞書)」大江春塘に蘭和辞書を出版させた。
村上玄水(1781年〜1843年)
     1819年、九州で初の人体解剖を行い「解剖図説」「解蔵記」を著した。
大江春塘(1787年〜1844年)
     長崎に留学して蘭学を学び、「中津バスタード辞書」を出版した。
田代基徳(1839年〜1898年)
     「切断要法」を出版、「外科手術」「医事新聞」を発行し、近代外科学の礎を築いた。

(説明板より)

誕生地



福沢諭吉誕生地
(大阪市福島区福島1丁目)





(平成20年6月18日)

碑文

幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝに生る
時に天保5年12月12日(西暦1835年1月10日)
こゝは舊豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である
先生の父百助は一画に於いて、経学者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって、金穀會計の俗吏に奔命して其生涯を終った人である
彼は妻お順が、大きな瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと傳へられてゐる
封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを佛門に入らしめる以外にはなかったのであろう
當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が豫見し得たであらうか

昭和29年1月
慶應義塾社中建之
題字 小泉信三
撰文 高橋誠一郎
書  西川 寧

生誕地



福沢諭吉誕生地
(大阪市福島区福島1丁目)

豊前国中津藩蔵屋舗跡



(平成20年6月18日)

 平成23年2月10日

大分県中津市・福澤公園でお会いしました。




福澤諭吉先生像
(中津市留守居町586・福澤公園)


昭和9年2月建之


(平成23年2月10日)

【福澤公園の説明】

中津市留守居町にあるこの旧居は明治の初め福澤諭吉先生の家族が東京に転居した後、渡辺氏(親戚)が住んでいました。
次いで旧藩主奥平家の所有となり明治43年同家より市に寄付され、その後当市が管理しています。
本公園の面積は5,200平方米(約1,576坪)で昭和46年本旧居ならびに前側の宅跡が国史跡文化財の指定を受けました。
福澤旧居、諭吉が少年期をすごした家で木造藁葺平家建107平方米(約32坪)。
宅地380平方米(25坪)

土蔵
勉強部屋にしたと伝えられ木造瓦葺二階建15平方米(約4.5坪)
福澤記念館
昭和5年5月御大典記念事業として建設されましたが、その後先生の生誕140年を記念して昭和50年11月現地に移転新築しました。
館内には、福澤先生の書かれた数多くの著書や写真、遺品、遺墨、などを展示してあります。
銅像
先生の徳風をとこしなえに伝えるため昭和5年に建立されました。
宅跡
先生が凡そ15年間、少年の頃住まわれた宅跡で間口二間半奥行十五間ほどあります。
独立自尊の碑
中津公園にあり明治37年建設されました。

中津市

(説明板より)

【福澤先生旧宅の図】

福澤先生1歳と6ヶ月の時父が急死したため、天保7年(1836)の秋、母子六人で大坂の中津藩蔵屋敷から藩地の中津に帰って来ました。
最初の住んだ家は残っていませんが、この宅跡にその家がありました。
今残されている旧居は、後年に移り住んだものです。
この平面図は、明治10年(1877)9月24日最初の家を先生みずから記憶によって図を引いたものです。

(説明板より)



照山白石先生記念碑
(福澤公園)

中津沖代ライオンズクラブ5周年記念
中津沖代ライオンズクラブ・大阪福島ライオンズクラブ
昭和60年9月23日
中津公園地よりこの地に移す

(平成23年2月10日)

【白石照山先生と福沢諭吉】

福沢諭吉は14才のころから照山の私塾晩香堂に学び、初めて学問の手ほどきを受けました。
19才のとき、長崎に出て蘭学を修め、その後大阪の適塾に入りました。
安政3年、兄三之助の死後、家計の後始末をしたあと、再び上阪し、適塾での勉強を続ける決意をして父の蔵書を売ろうとしました。
しかし、中津では買う人がなく、当時臼杵藩におられた照山先生の仲介で臼杵藩が15両で買い上げました。
お陰で諭吉は中津を出て適塾での勉強を続けることが出来たのです。
このことがあってから照山先生と福沢諭吉との師弟の情は強くなり、照山先生が亡くなるまで続きました。

照山先生略歴
 文化12年(1815)  中津藩士久保田武右衛門の長男として出生。
 天保 9年(1838)  藩校進脩舘にて野本白嚴先生に学び、藩校の督学となる(24才)。
   江戸に上り、幕府の昌平校に6ヵ年学び、詩文係となる。
 天保14年(1843)  帰藩、北門通りに私塾晩香堂を開設(29才)。
 安政 6年(1859)  臼杵藩学古舘の教授に登用される(45才)。
 文久 2年(1862)  臼杵藩を辞し、豊前四日市郷校の教授となる(48才)。
 明治 2年(1869)  中津藩より上士として迎えられ藩校進脩舘の教授となる(55才)。
 明治 4年(1871)  藩校の廃止により、私塾晩香堂を再開(57才)。
 明治16年(1883)  10月病没。享年69才。
   (敬称略)

(説明板より)





福澤諭吉宅跡
(福澤公園)




(平成23年2月10日)

【しらみ取りの話】

少年諭吉の母お順さんはまことに心のやさしい情ふかい方でありました。
このころ中津の下辺に家は大へん貧しくいつもボロボロの着物を着て髪の毛はボウボウとなった知恵おくれの女の子がいました。
母はその娘を見ると毎度のように庭に呼び入れて莚むしろの上に坐らせて頭の虱しらみを取ってやるのでした。
私は母に命ぜられてその虱を石の上で五十匹、多い日は百匹もつぶすのです。
それがすむと母はこの娘に虱をとらせて貰ったお礼にと握り飯を作ってやるのです。
娘はおいしそうに食べてうれしそうに帰って行くのでした。

(説明板より)

【刺客しかくに狙われた話】

明治3年10月、母と姪(いち・兄三之助の長女)を迎えに中津に帰った時の事です。
中津の若い藩士のなかには、諭吉を西洋かぶれと嫌い暗殺しようと狙う者がいました。
その動きを察知した服部五郎兵衛(福澤家の親戚)は夜福澤家を訪問し、いつまでも酒を飲みながら夜中の1時を過ぎても話し込んでいるので、諭吉を寝入るのを狙っていた刺客はその機会を逃がし、諭吉は命拾いをしました。

(説明板より)

土蔵

【土蔵の話】

諭吉が少年の頃、自分で手直しをし長崎へ遊学(西暦1854年)をする19才ごろまで、米をついたり2階の窓辺で学問を続けた土蔵です。

(説明板より)


慶応義塾発祥の地・蘭学の泉はここに



「慶應義塾発祥の地」の碑(手前)
「蘭学の泉はここに」の碑(奥)
(東京都中央区明石町・聖路加国際病院斜め前)




(平成18年2月22日)

「慶応義塾発祥の地」碑・碑文

安政5年福沢諭吉この地に学塾を開く。
創立百年を記念して昭和33年慶応義塾これを建つ。

慶応義塾の起源は1858年福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷に開いた蘭学の家塾に由来する。
その場所はこれより北東聖路加国際病院の構内に当る。
この地はまた1771年中津藩の医師前野良沢などがオランダ解剖書を初めて読んだ由緒あるところで、日本近代発祥の地として記念すべき場所である。

1958年4月23日除幕

「蘭学の泉はここに」碑・碑文

(前面)
1771年・明和8年3月5日に杉田玄白と中川淳庵とが前野良沢の宅にあつまった。
良沢の宅はこの近くの鉄砲州の豊前中津藩主奥平の屋敷内にあった。
3人はきのう千住骨が原で解体を見たとき、オランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアの図とひきくらべてその正確なのにおどろき、発憤してさっそくきょうからこの本を訳しはじめようと決心したのである。
ところがそのつもりになってターヘル・アナトミアを見ると、オランダ語をすこしは知っている良沢にも、どう訳していいのかまったく見当がつかない。
それで身体の各部分についている名をてらしあわせて訳語を見つけることからはじめて、いろいろ苦心のすえ、ついに1774年・安永3年8月に解体新書5巻をつくりあげた。
これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめて、これから蘭学がさかんになった。
このように蘭学の泉はここにわき出て、日本の近代文化の流れにかぎりない生気をそそぎつづけた。

(裏面)
1959年・昭和34年3月5日
第15回日本医学会総会の機会に

日本医史学会
日本医学会
日本医師会

日本近代文化事始の地


日本近代文化事始の地
「慶応義塾発祥の地」
「蘭学の泉はここに」
1982 2月3日


(東京都中央区明石町・聖路加国際病院斜め前)


(平成18年2月22日)

慶応義塾

明治の初めの慶応義塾は日本一との評判があり、官立の学校よりも有名であったが、当時は入学資格も厳しくなく、誰でも入学できたから有名だったともいう。
また、当時の慶応義塾は福澤諭吉の方針により、一種の天才教育を行い、試験の成績や教師の認定により一時に何級でも進級させたという。

(慶応義塾出身の俊才)
犬養毅尾崎行雄

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月6日追記)


福沢諭吉像 平成16年11月11日

東京都港区・慶應義塾大学三田キャンパスでお会いしました。

慶應義塾図書館


慶應義塾図書館(旧館)

(東京都港区三田2−15−45)

旧図書館前に福沢諭吉の胸像が建っています。



(平成16年11月11日)

重要文化財
慶應義塾図書館

この建物は義塾創立50周年を記念し明治45年4月、工学博士曽禰達蔵、工学士中條精一郎両氏の設計監督によって完成したもので、外国人の手を全く借りずに造られた洋風煉瓦館としては一級品である。
震災、戦災による被害を修復し、今日なお当初の遺構を留めている。
煉瓦建築の少ない我が国にあって、建築史上貴重な存在である。

様式 ゴシック式
建築面積 684.4平方メートル

昭和44年3月12日 指定

(説明板より)

三田演説館




三田演説館





(平成16年11月11日)

重要文化財
三田演説館の由来

慶應義塾の三田演説館は、福澤諭吉先生によって建設されたわが国最初の演説会堂である。
開館は明治8年(1875)5月1日、はじめはいまの塾監局の北端のあたりにあったが、大正13年(1924)に現在のところに移築された。
構えは木造かわらぶき、なまこ壁で、日本独特の手法が用いられているけれども、本来アメリカから取り寄せた諸種の図面をもとにして造られたものであって、明治初期の洋風建築のきわめて珍しい遺構とされている。
規模は床面積191平方メートル余、一部が二階造りになっていて、延面積は280平方メートル余りになる。
福澤先生は晩年、この演説館について、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存すべきものにして、幸に無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」としるしておられる。
まさに、三田演説館はわが国文化史上の貴重な記念物というべきであろう。

慶應義塾

(説明板より)


慶應義塾大学

安政5年(1858年)にはじめた蘭学塾を、慶応4年(1868年)芝新銭座に移して、『慶應義塾』とした。
明治4年(1871年)に三田に移転。
明治23年(1890年)大学部を置く。
大正9年(1920年)に「大学令」で『慶應義塾大学』となる。

三田の土地は、国からタダ同然に払い下げられた1万4千坪の好所で、福沢自身も、「東京中を探してもこれに優る土地はない」と言っていたという。

参考:『歴史街道 2001年5月号』

(平成18年2月17日追記)


福沢諭吉像 平成20年11月22日

長崎県長崎市・祓戸神社でお会いしました。

福澤諭吉先生の像



福澤諭吉先生之像
(長崎県長崎市上西山町・祓戸神社)

慶應義塾塾長 鳥居泰彦 識



(平成20年11月22日)

建立の碑

天は人の上に人を造らず
人の下に人を造らずと云えり

福澤諭吉「学問のすすめ」より

平成10年1月
長崎三田会

(碑文より)


【「丸善」の屋号】

「丸善」というのはおもしろい会社で、小学校を出ただけで店に入り、働き始めた少年たちに1日の仕事が終わった後、簿記や英語を学ばせる「夜学」を、日本橋の本店で開いていた。
それは多分に創業者、早矢仕有的はやしゆうてきの考えに基づくものであったのだろう。
横浜で医師をしていた早矢仕が洋書や輸入品の販売という畑違いの事業に乗り出した、そもそものきっかけは、西洋文明を広く取り入れるには何よりも海外の書物を輸入して人々の手に渡るようにしなければならないと説く福沢諭吉の強い勧めがあったからと言われている。
事実、「丸善」の屋号も福沢諭吉の命名によるものだった。

(参考:『新潮45 2010年11月号』 新潮社)

(平成23年6月25日追記)


【下からの近代化】

福沢諭吉は、一生、政治の世界とは無縁の人だった。
一時期、幕府に通訳として雇われたことがあったぐらいで、新政府から何度も誘いを受けたのだが、一度として、それに応じなかった。
福沢にとって新政府は「攘夷の集団」という印象が強かったからである。
幕末の時、薩長などの倒幕派の旗印は、尊皇攘夷である。
洋学者・福沢にとっては、仇のような存在である。
それでは彼が幕府のほうを支持していたかといえば、これも違う。
福沢は「門閥圧政は親の仇」と言い続けた人で、封建制度を甚だしく憎んでいた。
それで彼は幕末の動乱期においても、政治運動には関わらず、慶応義塾で学生に洋学を教えていたのである。
明治元年、官軍が江戸に進軍し、上野の山に彰義隊が籠もって、戦争になった時でも、彼が講義を続けたという話は、有名である。

彼は生涯にたくさんの本を書き、「脱亜入欧だつあにゅうおう」ということを書いたが、それは単純な欧米崇拝ではない。
「なんとしてでも近代化せねば、われわれは白人の奴隷になってしまう」という焦燥感から書かれたものなのである。

明治政府と福沢の違いは、それを「上からの近代化」で行なうか、「下からの近代化」で行なうかの方法論の違いなのである。
福沢は「下からの近代化」を目指した。
だからこそ、彼は自前で慶応義塾を作り、塾生たちに「官僚にならず、民間人として新知識を活用せよ」と説いたのである。

(参考:渡辺昇一 著 『かくて昭和史は甦る〜人種差別の世界を叩き潰した日本〜』 平成7年第3版 クレスト社発行)

(平成27年1月5日 記)


【欧米の病院を視察】

万延元年(1860年)2月26日、咸臨丸による訪米使節団代表の木村摂津守の従僕という名義で随行を許された諭吉は苦しい航海をものともせず、待望のアメリカ・サンフランシスコに上陸した。
諭吉は外国へ行くと必ず病院を見学しており、この時も病気になった水夫の源之助と富蔵の見舞いを兼ねて海員病院を訪れ、見学している。
勝海舟も艦長として再三にわたりこの病院に入院中の水夫を見舞い、広大な建物と清浄な病室に驚き、行き届いた医療と看護に感銘を受けたと『海軍歴史』に記録している。
海員病院は1852年に連邦政府がサンフランシスコ市から敷地の提供を受けてリンコンポイントに建設した病院で、4階のレンガ建て。
平時は500人、非常時は700人の患者が収容でき、総工費は25万ドルであったという。
病院運営の資金にはアメリカの港に入港するアメリカ船の船員が拠出する手数料が充てられていた。

文久元年(1861)1月(旧暦12月)、幕府はヨーロッパ諸国へ使節団を派遣することになり、今回は英語力とアメリカでの経験を評価し、翻訳方として正式に使節団の一員として諭吉に随行の命令が下った。
諭吉を乗せたイギリスの軍艦オーディン号は1月28日(旧暦12月29日)に長崎に寄港。
諭吉は長崎医学校(精得館)でポンぺに指導を受けていた適塾時代の学友・長与専斉に会い、旧交を温めた。
翌年、文久2年2月6日(旧暦1月8日)、諭吉は香港の3ヶ所の病院と英兵宿衛所を訪問。
4月7日(旧暦3月9日)パリに到着した。
『西航記』には最初に見学したのは病院であることが書かれている。
諭吉の説明によれば、入院希望者は王宮の近くにある役所に出かけ、官の免許を受けて後に入院しなければならないという不自由な制度であったようである。
5月6日(旧暦4月8日)、諭吉はロンドンのキングス・カレッジ病院を見学している。
この病院はパリの病院と大同小異であるが、病院の背後にある学校や教会が、土地・財産を所有し、そこから経営の質が出ていた事情を聴取している。
5月11日(旧暦4月13日)、センテ・メアリー病院、5月20日(旧暦4月22日)、セント・ジョージ病院を訪ね、更に精神病院を訪ねている。
いかに諭吉が病院に興味を持っていたかが伺われる。
9月3日(旧暦8月10日)、ロシアのペテルブルグを箕作秋坪、松木弘安に誘われ、陸軍軍医学校と陸軍病院を訪ねた。
諭吉はこの病院で手術を見学中、医師の白衣が血に染まるのを見て気が遠くなったと自伝に書いている。
幸い同行の御小人目付・山田八郎に助け出され、水を飲ませてもらってようやく正気に返ったという。

諭吉のこれらの病院見学の体験は、のちに北里柴三郎の伝染病研究所への支援や慶應医塾の医学所建設への貴重な活力源となる。

(参考:川嶌眞人著『中津藩蘭学の光芒〜豊前中津医学史散歩〜』 西日本臨床医学研究所発行 平成13年 第1刷)

(平成29年1月26日・追記)


【文明開化】

明治は文明開化として始まった。
文明開化の思想を押し出すために、明六社というものが作られ、そこに主として元幕臣の福澤諭吉、中村正直まさなお(1832〜91 啓蒙学者)あるいは西周にしあまね(1829〜97 啓蒙学者)などが参集した。
しかし、たった2年間ほどしか続かなかった明六社の動きの中にも、分裂が胚胎はいたいしていた。
たとえば、福澤諭吉は儒教を「腐儒」とよんで批判していたし、仏教にも神道にもほとんど関心を示さなかった。
しかし、たとえば中村正直などは明らかに儒教的な道徳に好意を示していた。
このように明治国家をいかなる道徳のうえに建てるかということについては、明六社においてすら統一した見解があったわけではないのである。

宗教を「太古の昔から不変の私徳にすぎない」と言い放っていた福澤諭吉ですら、単なる開化論者ではない相貌を有していた。
たとえば彼は、新しもの好きの開化主義者を「開化先生」とよんで揶揄していたし、それどころか欧米の文物にかぶれる者たちを「心酔者流」といって軽蔑していた。
さらには古きものとあらば何であれ壊しにかかるものを「改革者流」といって批判していた。
そうした諭吉の言動には、徳川時代のものでも、護るべきものは護ろうという姿勢が濃厚にあった。
また彼は文明開化を言う時も、創り出すべきは「国民の文明」なのだと繰り返している。
そして日本国民の衆論・国論こそが文明を支えるのだが、それは日本人の意識の習慣によってしか打ち固められないのだとも強調している。

さらに彼は、文明を支えるのは報国心であると言い続けた。
その意味において、彼はナショナリズムを精神の大前提として受け入れていた。
そういうところに、やはり徳川の「武士の子」として、自分の国にどう責任を持つかというエリートの風貌がにじみ出ているのである。

それどころか、明治12年の『民情一新』までくると、技術文明のなかで踊る当時の欧米の人たちを指して、狼狽驚愕して、騒擾そうじょうすら起こしていると指摘している。
「思想の大道」つまり蒸気機関、電信、郵便そして印刷という情報の伝達機関の前で、欧米社会が混乱をきたし、未来への見通しを失っているとみたのである。
こうした「騒擾としての文明」に日本が巻き込まれたならば由々しき事態がやってくるであろうと警告を発したところに、諭吉の単なる近代主義者でも単なる開化論者でもない姿がありありと現れている。

(参考: 西部邁 著 『国民の道徳』 扶桑社 平成12年11月 第2刷発行)

(令和2年8月31日 追記)


【公徳論】

諭吉は儒教を「腐儒」とよんで批判したが、それは当時の儒教学者を軽蔑してのことであって、儒教精神そのものについては、一貫して守ろうとしていた。
自分は「儒者の子」であると明言もしている。
彼の『学問のすゝめ』や『文明論之概略』のエッセンスは、「公徳」の大事さを訴えるところにあるのだ。
「一身独立して、一国独立す」というけれども、その一身がいかなる精神の地盤の上に独立するかというと、やはり公徳の上にである。
そしてその公徳を支えるのは「國体」であると彼は認めている。
國体とはナショナリティつまり国民性のことであると解説してもいる。
文明開化のイデオローグとみなされていたものすらもが、公徳としての國体を文明の基礎とみなしていた。
その公徳論において、彼が儒教精神を、そしてそれに密接にかかわって武士道精神を重んじていたことは、西郷隆盛を弁護した『丁丑ていちゅう公論』や勝海舟榎本武揚を批判した『痩我慢やせがまんの説』に明らかといってよい。

(参考: 西部邁 著 『国民の道徳』 扶桑社 平成12年11月 第2刷発行)

(令和2年9月1日 追記)


福澤諭吉終焉の地



福澤諭吉終焉の地
(慶応義塾大学三田キャンパス内)





(平成16年11月11日)

福沢諭吉像 平成20年9月15日

東京都品川区・常光寺でお会いしました。

福沢諭吉像



福沢諭吉像
(東京都品川区・常光寺)





(平成20年9月15日)

この福澤諭吉先生の胸像ブロンズは三田山上慶應義塾大学図書館正面入口に建っている胸像の原型を復元したものである。
当山浄境の福澤諭吉先生永眠の地に之を建て永く先生の遺徳を顕彰する。

2006年2月3日
常光寺 第18世 光譽壽雄
寄進 梅田石材 梅田武久

(碑文より)

福澤諭吉先生永眠の地



史蹟 福澤諭吉先生永眠の地

(東京都品川区・常光寺)





(平成20年9月15日)

明治34年2月福澤諭吉先生永眠のとき此處に埋葬せらる
先生の生前自ら選定し置かれし墓地なり
昭和52年5月福澤家の意向により同家の菩提寺麻布山善福寺に改葬せらる
よって最初の塋域を記念するため之を建つ

昭和53年5月14日
慶應義塾

(碑文より)

常光寺



常光寺
(東京都品川区上大崎1−10−30)





(平成20年9月15日)



 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送