歩兵第124連隊

(通称号:烈8906部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在
福岡 昭和12年 第31師団 モールメン(ビルマ)

第18師団隷下で中国戦線に参戦。
杭州湾上陸作戦、杭州作戦、バイアス湾上陸作戦に参加し、その後広東地区の警備に当たる。
以降、羅作戦、翁英作戦、賓陽作戦など中国各地を転戦。

昭和16年11月、第18師団の編成替えに伴い、連隊は第35旅団(川口清健少将)の指揮下に入る。
昭和16年12月、第35旅団は「川口支隊」となり英領ボルネオに上陸してミリー及びセリアの油田を占領。
約1ヶ月の間に蘭領ボルネオ西半分を含む広大な地域を占領した。

その後、セブ島攻略戦、ミンダナオ島攻略戦等、フィリピン各地を転戦。
昭和17年8月、一木支隊潰滅後のガダルカナル島奪回に向かう。
上陸後は飢餓に苦しめられながら約半年の間、飛行場の争奪戦を続け、多大の損害を被る。
昭和18年2月初め、ガダルカナル島を撤退。
ラバウルで再建の後、サイゴンにおいて第31師団(列兵団)に編入された。

ビルマ戦線においてウ号作戦に参加してコヒマをめぐる激戦を展開したが作戦は失敗。
以後、盤作戦、イラワジ河畔作戦などを経て後退し、マルタバン湾の防衛作戦を展開中に終戦を迎えた。


【編成】

第18師団(初代師団長:牛島貞雄中将)
第35旅団(初代旅団長:近代戦の権威といわれ、のちに福岡県護国神社の初代宮司になる手塚省三少将)
歩兵第124連隊(初代連隊長:小堺芳松中佐)
   第1大隊長:広瀬清中佐(日露戦争の軍神・広瀬中佐の甥)
   第2大隊長:川崎貫造少佐
   第3大隊長:加藤友久少佐
   連隊旗手:上村清少尉(元福岡県朝倉中学校教諭)

昭和12年9月16日、宮中において軍旗を親授される。

(参考:杉江 勇 著・『福岡連隊史』 昭和49年1月初版・秋田書店)


【川口支隊】

昭和16年11月、第35旅団が第18師団(菊兵団)から離れ「川口支隊」となる。
歩兵第124連隊は、さきに編成されていた歩兵第114連隊中心の川口支隊に、歩兵第114連隊と交代で入った。
第14師団(宇都宮で編成)に広東警備の任を譲り、ボルネオの油田確保のため出撃。

(編成)
連隊長:第3代目の中村次喜蔵大佐に代わり第4代目岡明之助大佐が着任。
第1大隊長:山田豊少佐
第2大隊長:鷹松悦雄少佐
第3大隊長:渡辺久寿吉中佐
連隊旗手:亀井正行少尉(ボルネオに向かう船中で小尾靖夫少尉に交代)

昭和16年12月16日、ボルネオに上陸。
ボルネオ攻略を完了後、比島(フィリピン)方面攻略戦に参加。
昭和17年4月10日、セブ島に上陸し、これを攻略。
続いて4月29日、ミンダナオ島に上陸し、これを攻略。
この戦闘で山田第1大隊長が戦死したため、国生勇吉少佐が第1大隊長に就任する。

ガダルカナル島

フィリピンのミンダナオ島攻略戦を終え、連隊は昭和17年6月15日にダバオ港を出港。
6月18日にフィリピン東方のパラオに到着。
ここで8月14日まで、敵前上陸の演習をしながら休養をとる。
連隊は、F・S作戦に参加して南太平洋のフィジー、サモア諸島に進行するはずだったが、米軍のガダルカナル島上陸に伴い、トラック島にいた一木支隊(歩兵28連隊・一木清直大佐)に続き、たまたま転進しやすい位置と状態にあった川口支隊にもガダルカナル島へ向かう命令が下った。

川口支隊の第一陣として、駆逐艦「朝霧」「夕霧」でガ島上陸を試みた第2大隊(長:鷹松悦雄少佐)は洋上で敵に襲われ、第7中隊はほとんど全滅する。
川口支隊主力の上陸作戦では、駆逐艦による奇襲上陸を主張する川口支隊長と、機動舟艇での隠密上陸を説いて譲らない岡連隊長と意見が衝突。
その結果、川口支隊本部と第1大隊(長:国生勇吉少佐)、第3大隊(長:渡辺久寿吉中佐)が川口支隊長指揮の駆逐艦で、第2大隊(長:鷹松悦雄少佐)が岡連隊長指揮の機動舟艇で上陸することとなった。

川口支隊主力は奇跡的に一兵も失わず、9月2日にタイボ岬に奇襲上陸を成功させる。
しかし、後発の第2大隊の舟艇の一部を敵と間違えて攻撃してしまい、第2大隊から戦死2名、重傷8名の犠牲を出してしまった。






テテレ・ビーチから見たタイボ岬方向





(平成22年11月21日)

岡連隊長指揮の連隊本部と第2大隊は、9月2日夜に大発舟艇30隻に分乗して、川口支隊とは反対の、ガ島西岸エスペランス岬を目指した。
船足が遅いので、昼間は島陰に隠れ、夜だけ島伝いに進んだが、敵機に発見され15隻が爆沈された。

この時の生存者の一部(?)がサンタイザベル島南方の無人島、セントジョージ島に上陸。
連隊本部兵器係(9名)、独立無線1個分隊、衛生隊1個分隊、仙台の船舶工兵(独立工兵?)1個分隊、連隊砲中隊弾薬小隊(27名)など総員70名。
大破した大発舟艇1隻が浅瀬に擱座していたので、これを10日がかりで応急修理し、無人島からの脱出を図る。
70名は乗り切れないため連隊砲中隊弾薬小隊の27名が残留し、4月18日の夜、他の者は脱出に成功。
残留者の救出に手を尽くしたが、戦局の悪化で断念、そのまま終戦まで“見捨てられた”形となってしまった。
戦後、グアム島での横井庄一さんの奇跡の生還に触発され、昭和48年6月、遺族や戦友により「セントジョージ島調査派遣団」が組織され現地に飛んだが、残念ながら27名は戦死していた。
現地住民たちの話によれば、取り残された27名は自力での脱出を決意し、島の木を切って木造船を造りサンタイザベル島まで渡った。
そこから南岸沿いに北上中、昭和17年12月22日、ムフフ岬付近で休息中に現地義勇軍の包囲を受けて全員戦死したという。
調査派遣団が現地で31年間、腐りもせずにそのままの形を残した脱出に使った木造船と27人の野ざらしの遺骨を発見。
昭和48年6月14日、遺骨は派遣団員に抱かれて郷里の土を踏んだ。

昭和17年9月5日、岡連隊長と第2大隊の舟艇は、ようやくガ島西岸のエスペランス岬に着いたが、この時すでに夜が明けていたため、再び米軍の銃爆撃にさらされ、この時鷹松第2大隊長が戦死した。
ガ島東岸のタイボ岬に川口支隊長と第1大隊、第3大隊が上陸し、西岸のエスペランス岬に岡連隊長と第2大隊が上陸したが、両隊の距離は約100km離れていた。

昭和19年9月12日夜、川口支隊によるルンガ飛行場奪取の第1回総攻撃が決行された。
当初は13日に夜襲をする計画であったが、第17軍司令部(司令官:百武晴吉中将、参謀長:二見秋三郎少将)は川口支隊に1日でも早くと攻撃を急がせた。
攻撃する川口支隊としては、敵の布陣と地形とを偵察する余裕がまったくなかった。
しかも、ジャングルを潜り抜けて、攻撃地点までやっとたどり着いたのが12日である。
しかし、第17軍司令部は方針を変えず12日の夜、総攻撃の命令を下した。

突撃は、東方から川口支隊主力、一木支隊の残存部隊を集めて編成した1個大隊(水野少佐指揮)、仙台の田村大隊、第124連隊第1大隊(長:国生少佐)、第3大隊(長:渡辺中佐)。
西方からは岡連隊長と第2大隊(大隊長代理:吉田中尉)が攻撃をかける手筈で、中隊長以上の将校は、夜の目印に十文字に白襷をかけた。
悪戦と苦闘と退却。
翌13日の夜襲は、さらに壮絶を極めた。
昨夜の夜襲に恐れた米軍が、火力を数倍も集中したのである。
一木支隊で編成された大隊を指揮していた水野少佐は敵前鉄条網のところまで行ったが戦死。
国生第1大隊長は監視部隊を蹴散らし、高射砲陣地を奪い、さらに敵中深く入り重砲陣地に突入したが壮烈な戦死を遂げた。
第3大隊第11中隊長の堀田耕三中尉は、飛行場間近に迫ったところで左腕を吹き飛ばされ戦死。
同じ第11中隊の第3小隊長代理の座親文男曹長は部下50余名を率いて飛行場内まで突入したが、後続部隊がなく、14日の夜明けとともに引き返した。
総攻撃は失敗。
川口支隊の戦死者は将校28名、准士官以下605名であった。

 アウステン山から見た空港方向





日本軍名:ルンガ飛行場
米軍名:ヘンダーソン飛行場

現:ホニアラ空港



(平成22年11月18日)





「ムカデ高地」の近く・・・以前はこのあたりに川口支隊の慰霊碑があったという。
現在はホニアラ市内に移転し、ここには台座の部分が残っているだけである。





(平成22年11月21日)

 ムカデ高地の一部

第1回総攻撃に失敗した川口支隊は、マタニカウ河へ退き兵をまとめて集結、援軍の到着を待つ。
だが、援軍より先に、川向うに現れたのは優勢な敵増援部隊だった。
マタニカウ河死守の命が第3大隊(主に第12中隊?)に下り、川沿いに塹壕を掘って敵の渡河を防いだが、猛烈な敵弾により死傷者の数が増えた。

10月5日、ブーゲンビル島に残っていた連隊の一部の1,000名が山崎正人大尉(連隊副官・福岡商業卒業後志願して入隊)に率いられてガ島に上陸。
さらに、仙台の第2師団(長:丸山政男中将)、青葉支隊(長:那須弓雄少将)などが続々と上陸、総勢1万余名。
10月9日には第17軍司令官・百武晴吉中将自身も自らガ島に上陸した。

10月7日、タサハロングから上陸した第2師団は、まず将兵があがり、その後、武器を上げ終わったころ、東の空がしらみはじめた。
敵機が海岸に山と積んである弾薬や食糧に爆弾を浴びせた。
歩兵第124連隊からも、物資の陸揚げ作業要員が使役として出ていた。
第2師団上陸前のガ島は、戦いに敗れたばかりではなく、文字通りの“餓島”となり果てており、飢えきった川口支隊の使役兵が、海岸に放っておけば敵弾で焼かれる食糧を命がけでジャングルに運び込み、そのなかのいくらかを隠した。
この時にガ島に上陸した辻政信参謀は、川口支隊の将兵が食糧を盗んだということで“泥棒部隊”と罵った。

第2回総攻撃は、10月23日の夜襲と決まった。
布陣は右翼隊長・川口少将、左翼隊・那須弓雄少将で一挙に飛行場に突入、その間を、住吉少将率いる砲兵主力をもって、西方から攻撃を加えるというもの。
いざ、突撃という寸前、偵察機の決死的撮影をした写真を見たところ、第1回の総攻撃の時には見られなかった場所に、堅固な陣地が構築されていることを川口少将は発見した。
この陣地に向かって真正面から、少ない兵力で総攻撃をかけるのは愚であるとして、ひそかに敵の側面に回りたいと作戦変更を辻政信参謀に頼んだ。
ところが、命令不服従をもって川口少将は旅団長を罷免されてしまったのである。
後任は歩兵第230連隊の東海林俊成大佐。

第2回総攻撃では、那須左翼隊の古宮大佐は連隊旗とともに行方不明。
マラリヤの高熱に耐え、ごま塩頭に白鉢巻をして、野村副官の肩に寄りかかりながら進んでいた那須少将も敵弾を浴び戦死。
右翼隊は飛行場の一部に突入したが、野戦電話中継所からの通信が間違って「占領」と早合点されたまま各方面に通報されてしまった。
「飛行場さえ奪えれば、もうこっちのものだ。あそこには、ビフテキだのミルクだのが山ほどある」と、持っていたすべての食糧を泥の中に捨ててしまい、岡連隊の将兵は、一瞬にして、ほとんどの食糧を失ってしまった。
しかし、敵はついに日本軍の背後に重油タンクを落として火を放ち、万事休すとなる。
日本軍は、ここに刀折れ矢尽き、丸山師団長は涙をのんで10月26日、全軍に退却を命じた。
岡連隊(歩兵第124連隊)はアウステン山へ退く。

アウステン山にこもった連隊は、ほとんど洞窟内で暮らし、昭和18年の正月を迎えた。
正月の“特配”でさえも、乾パン2個と、金平糖1粒というみじめさ。
1個中隊で150名の兵が、第10、第11中隊を合わせても26名という状況。
飢えた兵が次々と息を引き取っていった。

面子や意地もからんで、攻撃続行か撤退かを決めかねていた大本営は、昭和17年12月30日に、ようやく撤退を決めた。
翌31日、宮中大広間の御前会議で、撤退は月のない1月30日から2月7日までの間に行うと決定。
昭和18年1月15日、第17軍司令部に撤退の詔勅が伝達された。
しかし、敗戦に次ぐ敗戦で、士気の衰えている現地部隊に、撤退をいますぐ明らかにすれば大混乱になると大本営は恐れ、ガ島将兵をあざむく命令を出した。
“撤退”は連隊長以上に知らせるに留め、あとの将兵には「転進して敵を撃つ」と伝えた。

昭和18年1月10日、撤退を知らぬ山崎正人大尉は、危険を冒して単身で他部隊との連絡に行き、山中で敵に囲まれて戦死。
(この時に山崎大尉が持参していたと思われる週番将校襷を米軍少尉が戦利品として入手したらしい。本人の生前の話によれば1月10日にギャロッピング・ホース(日本名・見晴台)の戦いで日本軍将校と1対1の銃撃戦の後に戦死した日本軍将校の遺体から手に入れたとのこと。平成18年にこの話がもたらされ、週番将校襷が日本に返還され、現在、久留米の自衛隊駐屯地の資料館に展示されている)

当初、4,000名で編成された岡連隊(歩兵第124連隊)は、アウステン山に孤立した時は300名以下となり、山は敵に包囲されて、他部隊との連絡も途絶えた。
餓死者続出の中、岡明之助連隊長は進退について心を砕いている時に、“O参謀”が大本営の命令を持って到着した。
“O参謀”は「岡部隊はあくまでもアウステン山を死守せよ」という“大本営命令”を伝えたといわれる。
それが、どこからともなく、他部隊が兵器までも捨てて退いているとの情報が入り、岡連隊将兵は「これはおかしい。あれは“私物命令”ではないか」と疑い怒った。
旅団長を解任された川口少将は内地に送還されてしまい、いわば“孤児”になった川口支隊の主力・岡連隊を犠牲にすることで、“O参謀”は自分の師団を無事に撤退させようとしたのではないかといわれている。

岡連隊長は、ともかく様子を見るため退いてみる決心をした。
しかし、ガ島を撤退してしまうとは考え得ず、退いても友軍の様子を見て、もう一度戻ってくるつもりであった。
そのため第2大隊を様子がわかるまで守備に残した。
また退く途中で敵と遭遇するのを恐れ、軍旗をアウステン山に埋めた。
撤退(一時的に退く)は敵にこそ発見されなかったが、飢えとマラリヤのため悲惨を極めた。

第56野戦病院は閉鎖され、患者も共に移動を開始したが、14日間もジャングルを退くのには、どうしても患者を連れては歩けなかった。
ここの患者には第1回総攻撃の時に真っ先に敵陣に突入した第1大隊の将兵が多かった。
いよいよ歩けぬ者30名は、銃口を喉にあて、あるいは手榴弾を腹に抱いて全員、自らの命を絶った。
第12中隊長の尾藤大尉は全身4か所も負傷して行軍不能となり「家族には戦死したと伝えてほしい」と言い残し自決。
安川宏軍曹もマラリヤで倒れて「戦友の足手まといにならぬ」と自決した。

このころになって、岡連隊長は、ようやく今の退却が一時的なものではなく、ガ島からの撤退であることを知った。
連隊長は軍旗を山に埋めたまま島を離れるわけにはいかないと、部下十余名とアウステン山に引き返した。
また、一行とは別に、まだアウステン山を死守していた第2大隊にも撤退命令を伝えるため、陶山隆軍曹が伝令となって向かったが、すでに山は九分どおり敵の手中にあり、陶山軍曹は第2大隊の守備地まで行きつけず戦死。
このため第2大隊は最後までガ島撤退を知らずにアウステン山を死守して全員玉砕した。






慰霊碑が建っている「ギフ高地」





(平成22年11月18日)
 
慰霊 岡部隊奮戦之地
岡明之助大佐指揮の歩兵第一二四聯隊 並びに歩兵第二二八聯隊第二大隊は
一九四二年十一月より翌年一月末にかけて此のアウステン山籠城奮戦した
撃つに弾無く 食うに糧無く極限の状況のなか連日の連合軍の猛攻に耐えた
まさに地獄の戦場であった

特に 第一二四聯隊第二大隊(西畑少佐指揮)
    第二二八聯隊第二大隊(稲垣少佐指揮)の両大隊
一九四三年一月二十三日夜包囲した米軍に突撃を敢行し玉砕した

                                 一九九四年九月吉日

軍旗を取り戻しに行った岡連隊長一行は、アウステン山にたどりつき、軍旗を掘り起こし、小尾少尉がしっかりと腹に巻いて、ふたたび敵中突破の脱出。
途中、川の水で喉を潤していた時、背後から米軍の一斉射撃を受け、避ける間もなくバタバタと水中に撃ち倒された。
この時、岡明之助連隊長も戦死。
生き残ったのは小尾少尉と福永少尉の2人のみ。
一度死んだふりをして、隙を見て川に飛び込み逃げたが、その後、小尾少尉は一人で連隊の将兵が待つ方向へと進んだ。

連隊の将兵たちは軍旗を待ちに待っていた。
軍旗を持たずに退く岡連隊を見た第17軍司令部は「軍旗がなければ、一兵たりともこれ以上、撤退することはならぬ」と激怒。
このため岡連隊は、いつまでも途中のボネギ河付近で取り残されていたのである。
横を次々と他部隊の将兵が退いていく中、来る日も来る日も不安といらだちのなかで過ごし、17日目に、軍旗を腹に巻き、幽鬼のようによろめながら歩く小尾少尉が現われた。
将兵はみな手を合わせて軍旗を拝み、軍旗を中心に撤退集結地のカミンボの海岸に向かった。

昭和18年2月1日夜、第3水雷戦隊の駆逐艦20隻がカミンボ沖に姿を現した。
撤退人員は陸軍9,800名、海軍830名。
岡連隊はわずかに200余名。

だが、同じ時、ガ島には撤退に間に合わなかった将兵がいた。
戦傷のため、撤退軍と同一行動がとれぬまま、ガ島に見捨てられた将兵は、岡連隊と他部隊を合わせて400名に達したといわれている。

 
川口支隊
歩兵第百二十四聯隊
鎮魂碑
昭和十七年八月末以来六箇月にわたり
祖国日本を遠く離れたこの南溟の地で
優勢な連合国軍の猛攻の下 撃つに弾
無く食うに糧無く 極限状態の惨状は
まさに言語に絶するものであった
その犠牲となった
川口支隊三千百七十九柱の御霊の安ら
けきを祈りここに鎮魂の碑を捧ぐ

平成五年九月吉日建之
福岡ホニアラ会

軍旗を護って脱出した小尾少尉は、引き揚げの船上でバッタリと“O参謀”に出会った。
“O参謀”は「お前らは、死守命令に違反して逃げてきたのか」と面罵した。
小尾少尉は持っていた歩兵第124連隊旗を突き付け、「軍旗に向かって何を言うか!」と大喝し、軍刀に手をかけたが、周囲の者に止められて斬れなかった。
この無念さを剣道5段の中山中尉に打ち明け、岡連隊の恨みの一刀を“O参謀”に浴びせることを誓い合った。
しかし、その後、“O参謀”とめぐり会う機会がなく、ようやく会ったのは終戦後で、時勢の変化のため、恨みを晴らす機会はついに失われてしまったという。

ガ島撤退軍は、サイゴンのツドム飛行場で慰霊祭を行なったが、岡連隊3,000余名の遺骨がない。
仕方なく慰霊祭に使った位牌と、ガ島出陣時にパラオに残しておいた将兵の衣服を集めて焼き、この灰に爪や髪をつけて白木の箱に少しずつ分けて収めた。
昭和18年9月6日、3,000余名の英霊は博多駅に無言の凱旋をしたのである。
“遺骨”は市内大工町の徳栄寺にひとまず安置され、10月5日、西部第46部隊練兵場で岡部隊・原隊合同告別式が行われた。

(参考:杉江 勇 著・『福岡連隊史』 昭和49年1月初版・秋田書店)




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