天海像 平成17年12月11日

天海 てんかい

天文5年(1536年)〜寛永20年10月2日(1643年11月13日)

埼玉県川越市・喜多院前でお会いしました。


陸奥国大沼郡生まれ。
出家して随風と称し、比叡山、園城おんじょう寺、興福寺などで修行した。
天正17年(1589)駿府徳川家康に謁して帰依をうけ、武蔵国川越の喜多院、日光山に住んだ。
家康の死後、2代将軍徳川秀忠を補佐して家康の遺骸を久能山から日光山に改葬した。
寛永2年(1625)秀忠の命で江戸上野忍ヶ岡に東叡山寛永寺を創建、開山となる。
その後、3代将軍徳川家光の信任を得て勢力を振るい、政務に参画した。


天海大僧正像



中興第27世 天海大僧正
(埼玉県川越市・喜多院)





(平成17年12月11日)

天海僧正毛髪塔



天海僧正毛髪塔
(東京都台東区・上野公園内)





(平成19年4月28日)

天海僧正毛髪塔(都指定旧跡)
   台東区上野公園1番

天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号しごうを慈眼大師じげんだいしという。
天文5年(1536)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれた。
11歳で出家、14歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれる。
のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎市)、川越喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。
元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。
その後も将軍秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2年(1625)に寛永寺を創建した。
寛永20年(1643)に子院の本覚院にて108歳で示寂。
遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。
後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。

平成15年3月
台東区教育委員会

(説明板より)


両大師



両大師
(東京都台東区上野公園14−5)





(平成20年11月6日)
両大師



両大師
(東京都台東区上野公園14−5)





(平成20年11月6日)

両大師由来

當堂には寛永寺開山慈眼大師天海大僧正と大僧正が尊崇された第18代天台座主慈恵大師良源大僧正を祀る
天海大僧正は本坊内に慈恵堂を設けておられたが、やがて大僧正の入寂後に建立された開山堂に慈恵大師を合祀したため「両大師」と呼ばれる様になった
ここに慈恵大師350回の御遠忌を迎え両大師堂を始めとする寺観を一新すると共に新たに輪王殿を建立し以て報恩の一端に擬するものである

平成5年10月2日
東叡山 輪王寺
      寛永寺

(説明石碑・碑文より)

両大師略縁起

このお堂には 慈恵じえ大師(良源大僧正)と慈眼じげん大師(天海大僧正)を お祭りしている

一、慈恵大師小史
慈恵大師(良源大僧正)(912〜985)は学徳行業ぎょうごうが秀でて当時の仏教界に大師と肩をならべる僧はなく特にその学識は後世比叡山から輩出した鎌倉仏教の各祖師に強く影響したので比叡山中興の祖と称する
大師のすぐれた学識を示したものに仏教史上で有名な応和問答がある
これは応和3年(963)に村上天皇が法華経書写の供養のために宮中の清涼殿で開かれた法華経論義(法華経討論会)で大師は奈良仏教の巨匠といわれた法蔵を論破した
法蔵は大師を評して釈尊の弟子の富楼那尊者ふるなそんじゃのように雄弁家である、とうてい自分の及ぶところでないと述べている
これについて大師の弟子恵心僧都(942〜1017)の著述によると大師の雄弁は仏教論理学に基礎を置く大師独特の新発明のもので論理学の本家である奈良仏教の学者がいっこうに及びもつかなかったものであるとのべてある
しかこ、この恵心僧都の書かれた書物(四相違略註釈)は当時の支那(中国)に送られて仏教論理学者をおどろかせたという伝説がある位である
大師はその優れた学徳によって村上・一条・円融の三天皇の特別な御帰依があって慈恵大師の謚号を賜わったが宮中に参内しては密教の霊験をしばしばあらわされたのである
その霊験とは、天元4年(981)8月円融天皇が御病気になられたとき大師が参内すると忽ち平癒したと伝記にあり、また宮中で大師が護摩供ごまくを修すると大師が不動明王と同じ姿になったと伝えられる
そのほか大師が疫病神を降伏して自ら夜叉の姿になったということから今日でもその御影像を写して厄除角つの大師と申して尊崇しておまつりしているのである
そのほか大師の厄難消除・福願与時の御利益は数多く伝えられているが中でも大師の威力を現わしたことは天海大僧正が三代将軍家光公の靖によって世嗣安産を祈願するにあたって天海大僧正は民部法眼筆の慈恵大師御影像を寛永寺にまつって大師の霊験を祈祷したところその効験があって後に四代将軍となった家綱公が誕生したのである
それより将軍家の信任を得たばかりでなく江戸市民もこれを聞きつたえて子授け大師とよび信仰するようになった
永観3年(985)正月3日に入寂されたので元三がんざん大師とも申して今日でも大師への信仰は東叡山をその発祥地として広く関東一円に行なわれている

二、慈眼大師小史
天海大僧正(153は5〜1643)寛永寺開山、東叡・日光両輪王寺の開基であり、神儒仏の三教にわたってその神髄を会得された高僧である
大僧正は天正18年(1590)徳川家康公と相識り江戸幕府が開かれるや仏教による平和政治を献言し治国平天下の祈願寺として、また源平以来の戦乱犠牲者の冥福を追善する東叡山寛永寺を勅許により寛永2年(1625)に創建して開基となった
この寺名は天台宗祖伝教大師が比叡山を開いて延暦寺を建て国家鎮護の道場とされたことにならわれたもので関東の比叡山という意味である
また大僧正は将軍が江戸に住み政治の中心となったと同じく東叡山を宗教の中心地として永く泰平の基礎を確立するため正保4年(1647)後水尾天皇第三皇子尊敬法親王(後に守澄と改む)を勅許によって、お迎えして輪王寺門主と申し上げ、法親王は天台宗を管領して比叡東叡日光の三山を統括せられることとした
戊辰の役(1868)は第13世輪王寺宮公現法親王(のちの北白川能久親王)のときである
これより先、大僧正は元和2年(1616)4月17日家康公の死にあい、遺命で葬儀の導師を勤めたが翌3年家康公に山王一実神道による東照大権現の神号を賜わり日光に東照宮を建てて奉祀した
日光山の今日あることは大僧正の偉業の一つである
その他大僧正の偉業として特筆されるものに織田信長公によって焼土となった比叡山諸堂宇の再興があり、また天海版といって珍重される大蔵経の改版がある
なかでもこの上野に桜樹を吉野山から移植されたことや不忍池を蓮の名所としたことは吾人の忘れてならないことである
大僧正は108歳の長寿を保って寛永20年(1643)10月2日東叡山で遷化されたのでその御遺徳を追慕して翌正保元年に慈眼堂が建てられ、また大僧正が生前とくに「われなきあとは慈恵じえ大師の御影みえと共に天下をまもり万人に利益りやくを授けん」と語られた因縁により慈恵大師を併せておまつりし日々不退に御供養することは変わらない
慶安元年(1648)御光明天皇から慈眼大師の謚号を宣下された
大僧正作の左の歌にあやかりたいものである

気は長く つとめは堅く 色うすく
           食ほそうして 心ひろかれ
長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼だらに
           おりおり ご下風 あそばさるべし

誠心もって両大師の御前にぬかずかれ 無限の福徳を得られんことを

付記
いま社寺で行なわれているみくじは慈恵大師の創作をもととし前述のように慈眼大師が慈恵大師を尊信して夢中に得たものと御伝記にある

(説明板より)




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