第8師団

(通称号:杉兵団)

編成地 編成時期 終戦時の所在地
弘前 明治32年 フィリピン・ルソン島

【主な最終所属部隊】

歩兵第5連隊
歩兵17連隊
歩兵第31連隊
捜索第8連隊
野砲兵第8連隊
工兵第8連隊
輜重兵第8連隊


弘前偕行社
門



旧弘前偕行社の門
(青森県弘前市大字御幸町8−10・弘前厚生学院)





(平成21年11月2日)

重要文化財
旧弘前偕行社

旧弘前偕行社は、日清戦争後に増設された6個師団のひとつである第8師団の開庁に伴い、建設された。
建物は、南北に長い敷地のほぼ中央に北面して建つ。
明治40年11月の竣工で、建設後は師団将校の交流施設や物販・厚生施設に供されたが、第二次大戦後は財団法人 弘前女子厚生学院の所有となり、近年は同学院の記念館などに活用されている。
木造平屋建で、東西に長い主体部は桁行けたゆき48.8メートルの規模をもち、左右両端を前後に突出させる。
正面は中央部が張り出し、玄関ポーチを設ける。
大規模な洋風建築で、ルネサンス様式を基調とし、華やかな細部意匠は高く評価される。
東北地方に現存する陸軍関係施設の代表的遺構であるだけでなく、陸軍省営繕組織による建築意匠の展開を示すものとしても貴重である。

管理者 財団法人 弘前女子厚生学院
弘前市教育委員会

(説明板より)

【外観・意匠の特徴】

イタリアルネッサンス様式を基調とした翼棟付き木造平屋建て・瓦葺寄棟屋根の偕行社が敷地内ほぼ中央に建つ、ポーチ付き玄関と翼棟が突出した正面性を重視した配置である。
東西に長い主体部は、桁行き48.8mの規模を持ち、正面玄関にルネッサンス風車寄とポーチがあり、玄関ポーチの角にモルタル擬石によるコーナーストーンや玄関上部にルネッサンス風ドーマーウィンドー(屋根窓)が格調を高めている。
その一方で玄関ポーチペディメントには「八」をもじった「蜂」の鉄製飾りを付けるユーモアがあった。
玄関両脇及び翼棟の窓は円形ペディメントのローマ風デザインの上げ下げ窓があり、主棟の窓は三角形ペディメントのギリシャ風上げ下げ窓である。
軒の破風はバージポード(切り抜き板飾り)仕上げで、鉄製の星型換気口は第五十九銀行(青森銀行記念館)と同じである。

(リーフレットより)

玄関ポーチペディメント



玄関ポーチペディメント

第8師団の「8」をもじって「蜂」の飾りがついている。




(平成21年11月2日)

第8師団長官舎
旧第8師団長官舎



登録有形文化財 旧第8師団長官舎
(青森県弘前市大字上白銀町・弘前市役所敷地内)





(平成21年11月2日)

【師団長・真崎甚三郎】

昭和2年3月5日、中将に進級し、同年8月26日の異動によって弘前の第8師団長に親補されたとき、世間では真崎引退の花道、いよいよ真崎もこれでおしまいかと評判されたのである。
口さがない連中の間では、弘前は三等師団であり、待命職だと噂されていたからである。
真崎が弘前に着任した時の第8師団の陣容は以下の通り。

(昭和2年8月頃)
参謀長    大佐  篠原 四郎 
司令部付   少将  深見 新之助 
兵器部長    砲中佐  横尾 則義 
経理部長    一等主計正  竹内 秀司 
軍医部長    一等軍医正  氏家 参顕 
獣医部長    一等獣医正  池田 卓蔵 
法務部長    陸軍法務官  小檜山 武四郎 
       
歩兵第4旅団長    少将  倉島 富次郎
   歩兵第5連隊  青森  大佐  下元 熊弥 
   歩兵第31連隊  弘前  大佐  宮沢 浩 
歩兵第16旅団    少将  井染 禄郎 
   歩兵第17連隊  秋田  大佐  石丸 志都磨 
   歩兵第32連隊  山形  大佐  堀之内 直 
騎兵第3旅団    少将  蒲 穆あつし
   騎兵第8連隊  弘前  騎大佐  楠本 小一郎 
   騎兵第23連隊  盛岡  騎大佐  成松 恕夫 
   騎兵第24連隊  盛岡  騎大佐  土屋 三郎 
野砲兵第8連隊  弘前  砲大佐  安井 正吾 
工兵第8大隊  弘前  工大佐  山浦 弘 
輜重兵第8大隊  弘前  輜大佐  佐藤 芝千代 

この師団の編成配置をよく見ると、第8師団管下には通常の師団にはない騎兵旅団が配置されていることがわかる。
3個旅団を掌握する第8師団長が三等師団で待命職だと言われる理由がわからない。

歴代の師団長の中には古くは立見尚文大将、真崎の先輩として菱刈隆大将があり、後輩としては西義一大将がある。
くだっては、昭和10年から11年には皇弟秩父宮が歩兵第31連隊の大隊長として在隊された事実をもってしても、弘前師団の優秀性を知ることが出来る。

弘前における真崎師団長の名をたからしめたのは、昭和3年の師団対抗演習で、仙台の第2師団(伊丹松雄中将)と相対して、抜群の好成績をおさめ、戦略家としての真崎の本領を遺憾なく発揮したこと。
そのため、一時、待命とささやかれていた危機を脱して、第1師団長としての栄転の糸口となったのだとも言われている。

(参考:田崎末松 著 『評伝 真崎甚三郎』 芙蓉書房 昭和52年12月 第1刷発行)

(平成30年12月27日 追記)


【患者車】

昭和6年(1931年)9月、満州事変勃発。
この時までには、陸軍の医療用自動車はすでに各種試作されていたが、大正12年の関東大震災時に大部分を焼失してしまい、残る車輛も各衛戍病院で使用されているため、国産患者車を大陸に送ることはほとんど不可能だった。
当時、満州にあった関東軍の患者輸送車両はわずか6両。
このため、陸軍は急ぎ患者車の開発にあたるとともに、各陸軍病院に配置されていた患者車と外国製患者車を購入し、満州へ送った。
この時の外国製車輛は、ホワイト製6両、モーリス製6両、シボレー製5両、フィアット製1両、インデアナ製8両、ナッシュ製小型1両。

続く昭和8年の熱河作戦でも患者車および医療用の車両が必要となり、再び中央に要求されたが、特殊な製作を要する患者車は急に揃えられるはずもなく、満州事変時に使用された各種の外国製患者車が、第8、第9、第11、第14の各師団と第2野戦病院などに分散配備された。

(参考:高橋昇 著 『軍用自動車入門』 光人社NF文庫 2000年4月発行)

(令和2年4月2日 追記)




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