水野勝成 みずの・かつなり

永禄7年(1564年)〜慶安4年3月15日(1651年5月4日)


江戸初期の大名。
三河国刈谷城主・水野忠重の子。
徳川家康の従兄弟。
小牧・長久手の戦いののち徳川氏を離れ、天正13年(1585年)、豊臣秀吉に仕えて摂津国豊島郡で700石余を与えられる。
九州攻めの後も肥後に留まり、佐々成政や小西行長に仕える。
慶長5年(1600年)、父の遺領・刈谷3万石を継ぐ。
大坂夏の陣に活躍し、大和国郡山6万石、元和6年(1620年)には備後国福山10万石に転封。


水野勝成の墓


水野勝成の墓
(広島県福山市若松町・水野公園)

福山城初代 水野日向守勝成
徳勝院殿前四品日州大守参康宗久大居士


(平成22年5月2日)

広島県史跡 水野勝成墓
昭和18年3月26日指定

水野勝成は永禄7年(1564)に三河国(今の愛知県)の城主、水野忠重の長男として生まれた。
元和5年(1619)大和郡山から移封され、備後10万石、福山藩の初代藩主となった。
福山城を築き、新田開発・治水事業等に力を入れ、今日の福山市が発展する基礎を確立した。
城下に芦田川の水を導いて、上水道を敷き飲料水の確保につとめた。
この水道は江戸神田の上水道と並び古いもので、各地の上水工事のさきがけとなった。
慶安4年(1651)88才で没し、菩提寺である賢忠寺境内に葬られた。
ここ水野家の墓地には、勝成のほか父忠重、三代勝貞、四代勝種などの墓がある。
勝成の墓石は、高さ約5メートルの巨大な五輪塔である。

福山市教育委員会
寄贈 福山ライオンズクラブ
1963年5月 建之
1996年5月 再建

(説明板より)

福山城初代水野日向守勝成公略年譜

水野勝成は、永禄7年(1564)水野忠重の嫡男として三河国岡崎に生まれる。
父の姉於大の方は徳川家康の生母であり、勝成と家康は従兄弟にあたる。
天正7年(1579)16才の時遠州高天神城攻めで初陣を果たして以来、武田勝頼を攻撃した天目山の戦い、小牧・長久手の戦いなど、数々の合戦に加わった。
しかし、父との不和がもとで家を去り、その後諸国を歴遊した。
天正13年(1585)豊臣秀吉に仕えて以後、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田長政など名だたる武将に仕えた。
勝成は、彼らのもとでたびたびの合戦に手柄を立てたのみならず、築城術や土木技術などを身につけるとともに、民政の重要性を自覚するようになっていったと考えられ、それらはその後の領国経営に遺憾なく発揮されることになる。
慶長5年(1600)父忠重の死去に伴い家康の命により刈屋3万石を継ぎ、関ヶ原の戦いでは大垣城を落とした。
慶長15年(1610)日向守に任ぜられる。
慶長19年(1614)大坂冬の陣、翌元和元年(1615)大坂夏の陣に出陣。
夏の陣には大和口の先鋒に選ばれて功を挙げ、同年7月大和国郡山6万石を与えられた。
元和5年(1619)福島正則の改易に伴い、中国地方における最初の譜代大名として備後・備中10万石を領有することになり、西国の鎮衛の役割を担った。
元和8年(1622)常興寺山に築城するとともに、葦原の中州を干拓して城下町を形成し福山と命名した。
地子銭、諸役を免除して領内外から商工業者を入れ、町を造成し、江戸神田上水道に次ぐ日本で二番目とされる上水道を城下に敷設した。
勝成は、福山築城後、領国経営に力を入れた。
まず、耕地の増大を図り、生産を上昇させることに努め、野上、吉田、引野、深津等で新開の築調を行うとともに、瀬戸池、春日池、服部池等の溜池の築成を行った。
また、商品作物の栽培にも力を入れ、藺草の栽培や畳表の生産を奨励、亦、干拓地に綿の栽培を最初に行う。
寛永7年(1630)全国にさきがけ藩札を発行、積極的な土木普請に要する財政投資、商品経済基盤を確立し領内は大きく発展した。
能、俳諧、ニ上踊、とんどなど今に至る福山の文化を興した。
寛永16年(1639)隠居、正保元年(1644)法躰となり宗休と号し、慶安4年(1651)旧3月15日88歳で没し菩提寺賢忠寺に葬る。
家紋丸ニ抱澤瀉ダキオモダカ、旗印裏永楽

平成12年(2000)4月 建立
第20代当主 水野勝之
水野勝成公報恩会
南陽山賢忠寺22世 覺 巌代
文 平井隆夫

(説明石碑・碑文より)

水野家墓所



水野家墓所
(広島県福山市若松町・水野公園)




(平成22年5月2日)

水野家墓地跡



水野家墓地跡

(広島県福山市若松町・水野公園の近く)




(平成22年5月2日)

水野家墓地跡
県史蹟

福山初代城主水野勝成公の墓並びに父忠重公の墓三男成貞及び四代勝種公長男数馬の墓は元この地に建てられていたが都市計画に基づく道路建設のため北方に移転する

昭和32年5月1日
福山市

(説明碑石・碑文より)


【水野勝成】

水野勝成は、三河(愛知県)刈谷かりや城主・水野忠重の嫡男であり、少年の頃から戦場に出て勇猛の誉れが高かった。
だが、小牧・長久手の戦いの中、父の重臣を斬ったことから勘当を申し渡され、およそ15年間、各地を漂泊した。
その間、勝成は豊臣秀吉・佐々成政・小西行長・加藤清正・黒田如水ら、そうそうたる武将に仕え、成政のもとでは、秀吉の島津征伐の軍に従い熊本城攻略に軍功を挙げている。
如水のもとを去ってからは備後びんご(広島県)・備中びっちゅう(岡山県)を転々として仕官せず、浪々の暮らしが10年余り続いた。

父・忠重に勘当を許されたのは、慶長3年(1598年)、35歳の時である。
翌々年、父の死により刈谷城主になった勝成は、家康の重臣として、関ヶ原合戦の際は大垣城を攻めて、これを落城させた。
大坂夏の陣では最激戦地・大和口の先鋒指揮官に任じられ大活躍をする一方、嗣子・勝俊に命じて大坂城一番乗りの大功を立てた。

勝成は根っからの戦いくさ好きだったとみえ、後年、島原の乱が起こった時、74歳の高齢にもかかわらず、喜び勇んで出陣し、自ら陣頭に立って戦っている。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月12日 追記)


【五霊鬼の祟り】

水野勝成は名君としての誉れが高いが、戦国生き残りの猛将だったので、時には理不尽な行為に及んだこともあったらしい。
その爪牙そうがにかかって死に追いやられた5人の魂が、しばしば祟たたりを起こした。
水野家では不吉なことが起こるたびに5人の墓に弔使を送っており、勝成の福山移封以来、5代80年で水野家が断絶したのも、五霊鬼の祟りのせいだと伝えられている。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月12日 追記)




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