戦艦 比叡


主錨



主錨

(鹿児島県鹿屋市・海上自衛隊鹿屋航空基地史料館)





(平成19年3月29日)

戦艦比叡ひえいの主錨

日本戦艦主錨で栃木県宇都宮基地に戦後保管されていたものを当史料館設置に伴い昭和47年8月移管したもの
重量 6t

(説明板より)

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館



海上自衛隊鹿屋航空基地史料館
(鹿児島県鹿屋市)





(平成19年3月29日)

【戦艦 比叡】

英国ヴィッカース社で建造された『金剛』の設計図が日本に持ち込まれ、横須賀海軍工廠で『比叡』が建造された。
竣工後は同型艦4隻(『金剛』『比叡』『榛名』『霧島』)で第3戦隊を編成。
昭和5年(1930年)のロンドン軍縮条約により練習戦艦に格下げとなる。
舷側の装甲と第4砲塔などを昭和8年までに撤去。
第4砲塔を撤去した状態を利用して天皇の御召艦としての艤装を施し、昭和8年および昭和11年の特別観艦式に供された。
また昭和10年には訪日した満洲国皇帝の御召艦にもなった。
昭和12年に無条約となるや、再び復活し、近代化大改装を行ない昭和15年に完成した。
改装の内容は、舷側装甲や第4砲塔の復旧、機関の換装、防御の充実、砲身仰角拡大による砲戦距離の拡充、前艦橋には『大和型』に近い新形式が取り入れられ、前檣楼の改良による指揮装置・系統の整理強化などで、『金剛型』高速戦艦のなかでは最も新鋭な戦艦となった。
『金剛』と同じく主力艦として砲戦をおこなうだけではなく、夜戦部隊の助っ人としての能力も併せ持ち、改良された艦橋は、上部の昼戦艦橋と下部の夜戦艦橋に機能を集約した。
ハワイ作戦では空母機動部隊の護衛を務め、以後、インド洋作戦まで機動部隊として行動。
ミッドウェー海戦では第2艦隊で構成した攻略部隊の主力として行動。
その後、空母を中核とした第3艦隊が編成されると、『霧島』と共に第11戦隊を編成して第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。
第3次ソロモン海戦(昭和17年11月12日〜15日)では、飛行場砲撃のためにガダルカナル島に出撃したが、待ち受けていた米巡洋艦部隊と砲戦となり、米軽巡『アトランタ』などに命中弾を与えたが、自身も86発の命中弾を浴び、舵取室が被弾したため操縦不能に陥った。
取り残された『比叡』は、翌日、サボ島沖において、陸上から飛来した米海軍機や海兵隊機の猛攻を受け、魚雷3発、爆弾5発が命中。
やむをえず乗員の手で沈められた。
これは太平洋戦争における最初の日本戦艦の沈没であった。

【要目】

公式排水量:3万7000トン
機関出力:13万6000馬力
速力:20.7ノット
航続距離:18ノットで9800海里
乗員数:1222名
兵装:35.6cm連装砲×4
    15.2cm連装砲×14
    12.7cm連装高角砲×4
    25mm連装機銃×10
    13mm4連装機銃×2
飛行機:射出機×1
     水上偵察機×3

【主な艦歴】

大正3年(1914年)8月4日 竣工
昭和7年(1932年)12月31日 練習戦艦への改装完了
昭和15年(1940年)1月31日 高速戦艦への改装完了
昭和17年11月13日 戦没(自沈)

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)
(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)

(平成28年9月16日追記)


大改装

大正13年から昭和14年末にかけ、10隻の主力艦すべてに近代化の大改装を施した。
大正13年3月より、まず巡洋戦艦「榛名」の第一次改装を開始する。
本クラスは防御力が薄弱だったからである。
これら「金剛」型巡洋戦艦は第一次改装で、準高速(25〜26ノット)戦艦となった。

第二次改装では、根本的なリニューアルが行われた。
毒ガス防御、応急注排水装置、副砲の仰角引き上げ、飛行機射出機の改正などである。
通風装置や居住区改善も、この改装時かその前後に改良されるか新設されている。

練習戦艦となっていた「比叡」は、「金剛」型の第二次改装に右へならえし、昭和11年末の軍縮条約廃棄と共に大改装に着手し、再び主力艦として復活した。
「比叡」の改装工事は呉工廠で行われ、同型3艦の二度にわたる改装の内容をすべて取り込んでいる。
なんとなれば、建造がすでに確実となっている「大和」型戦艦に対する種々の事前実用試験の意味も含んでいたので、戦艦改装の中で最も大規模な工事となったのである。

応急注排水(急速注排水装置)のアパレイタスには、「大和」に使用予定の装置を試用したが、注水弁の形状、様式は良かったのだが、スピンドルが材質不適当のため「大和」では、変更し、「比叡」のそれも後日、換装している。
急速注排水区画の空気抜き弁と遠隔管制に用いたベローズ弁装置は不具合で「比叡」では故障が続出。
このため「大和」では空気ピストン弁に変えている。

「比叡」は昭和15年1月に改装を完成しているので、「金剛」型4隻中、最も新式な戦艦になった。

(参考:雨倉孝之著『海軍ダメ・コン物語』・『丸 2012年5月号』所収)

(令和2年3月9日 追記)


ソロモン諸島・サボ島沖

ソロモン諸島のガダルカナル島と対岸のツラギ島の間の海峡にはサボ島という島がある。
そのためこの海峡で惹起した海戦は「サボ島沖海戦」とか「ソロモン海戦」と呼ばれている。

第1次ソロモン海戦(1942年8月8日〜9日) 
 サボ島南方における日本軍・連合軍の夜戦 
日本軍  米軍・豪軍・英軍 
重巡洋艦 鳥海 小破 重巡洋艦 (豪)オーストラリア  
青葉 小破 (豪)キャンベラ 沈没
衣笠 小破 (米)シカゴ 大破
加古 沈没 (米)ヴィンセンス 沈没
古鷹   (米)クインシー 沈没
軽巡洋艦 天龍   (米)アストリア 沈没
夕張   軽巡洋艦 (米)サン・ファン  
駆逐艦 夕凪   (米)ホバート  
      駆逐艦 (米)パターソン  中破
      (米)バッグレイ  
      (米)ヘルム  
      (米)ウィルソン  
      (米)モンセン  
      (米)ブキャナン  
      (米)ラルフ・タルボット 大破
      (米)ブルー  
サボ島沖夜戦(1942年10月11日〜12日) 
ガダルカナル島への揚陸と艦砲射撃を計画
米軍と夜戦となる。
揚陸は成功するが、夜戦には失敗する。 
日本軍  米軍 
重巡洋艦 青葉 大破 重巡洋艦 サンフランシスコ  
古鷹 沈没 ソルトレイクシティ 小破
衣笠 小破 軽巡洋艦 ボイス 大破
駆逐艦 吹雪 沈没 ヘレナ  
初雪   駆逐艦 ファーレンフォルト 大破
(揚陸部隊=日進隊)   ダンカン 沈没
水上機母艦 日進   ラッフェイ  
千歳   ブキャナン  
駆逐艦 秋月   マッカラ  
夏雲 沈没  
朝雲    
白雪    
叢雲 処分  
綾波    
第3次ソロモン海戦・第一夜戦(1942年11月13日)
日本軍  米軍 
戦艦 比叡 処分 重巡洋艦 サンフランシスコ  
霧島   ポートランド  
軽巡洋艦 長良   軽巡洋艦 アトランタ 処分
駆逐艦 処分 ジュノー 沈没
小破 ヘレナ 小破
  駆逐艦 カッシング 沈没
天津風 小破 ラフィー 沈没
雪風   ステレット 中破
照月   オバノン 小破
朝雲   アーロン・ワード  
村雨 小破 バートン 沈没
五月雨   モンセン 沈没
夕立 処分 フレッチャー  
春雨    
時雨    
白露    
夕暮    
第3次ソロモン海戦・第二夜戦(1942年11月15日)
日本軍 米軍
戦艦 霧島 沈没 戦艦 ワシントン  
重巡洋艦 愛宕 小破 サウスダコタ 中破
高雄 小破 駆逐艦 ウォーク 沈没
軽巡洋艦 長良   グウィン 中破
川内   ベンハム 沈没
駆逐艦 照月   ブレストン 沈没
       
五月雨        
白雪        
初雪        
浦波        
敷波        
綾波 沈没      
朝雲        
ルンガ沖夜戦(1942年11月30日)
 食糧を入れたドラム缶を満載してガダルカナル島に補給をする計画。
目的を達成する前に米艦隊に見つかり交戦。
日本軍 米軍
駆逐艦 長波   重巡洋艦 ミネアポリス 大破
高波 沈没   ノーザンプトン 沈没
黒潮     ペンサコラ 大破
親潮     ニューオリンズ 大破
陽炎   軽巡洋艦 ホノルル  
巻波   駆逐艦 フレッチャー  
江波   ドレイトン  
涼風   モーリー  
      パーキンス  
      ラムソン  
      ラードナー  

(平成28年9月16日追記)


【第3次ソロモン海戦・第一夜戦の問題点】

この海戦が始まる直前、日本艦隊の挺身攻撃隊(戦艦2隻、軽巡1隻、駆逐艦11隻)では、前路警戒の駆逐艦2隻(夕立、春雨)が本隊のわずか3キロ前方を先行していた。
こんな短距離では前路掃討にはならない。
本来の進撃計画では、警戒隊の第4水雷戦隊5隻(朝雲、村雨、五月雨、夕立、春雨)が、本隊の前方10キロに散開していることになっていた。
それなのに、第4水雷戦隊(4水戦)の主隊である他の3隻(朝雲、村雨、五月雨)は挺身攻撃隊本隊の後方にいた。
これは重大な体形ミスである。
このために敵艦隊の発見が遅れて、不時会戦となったのである。

本隊は2隻の戦艦(比叡、霧島)を中心に、飛行場砲撃の準備を整えて前進。
2隻の戦艦を直衛する軽巡「長良」と5隻の駆逐艦(天津風、雪風、暁、雷、照月)は、逆U字の傘型陣形で護衛していた。
この隊形のまま本隊は敵艦隊と正面衝突して砲雷戦をおこなった。
「比叡」が主砲で初弾を発砲したときは、敵艦隊はじつに眼前1600メートルに迫っていたのである。
この時、米艦隊のほうでは、指揮官の優柔不断から戦闘指導に混乱を生じていたので、かろうじて「比叡」が先手をとることができたが、いくら夜戦に強い日本海軍とはいえ、こんな切迫した状況では組織的な海戦などできるものではない。
敵味方入り乱れての戦闘で、「比叡」は集中攻撃を受けて損害は甚だしく、ついには自沈に追い込まれた。

この海戦での問題点は、このような不時会戦をやすやすと招来したことである。
その原因は、警戒隊の4水戦が本隊より後落していたことと、その隊形の乱れを司令部が全く気付いていなかったことである。
ましてや陸上を目標とした射撃隊形のままであり、海上戦闘の隊形をとる暇もなく、そのまま乱戦に突入したことが混乱に拍車をかけた。

(参考:佐藤和正 著 『連合艦隊戦訓」48』 光人社NF文庫 1996年5月発行)

(平成29年7月28日 追記)





戦艦『比叡』沈没地点
(ソロモン諸島・サボ島沖)

遠くに見える右側の島が「サボ島」
左に見えるのが「ガダルカナル島」



(平成22年11月19日)

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