空母 加賀


航空母艦加賀戦没者慰霊碑



航空母艦 加賀戦歿者慰霊碑
(鹿児島市・鹿児島県護国神社





(平成19年3月30日)

加賀の艦暦

大正10年ワシントン軍縮絛約に依り主力艦の制限が加えられ航空母艦改造
昭和3年3月加賀は竣工し第1航空戦隊を編成し数年就役
昭和8年大改造に着工
昭和10年完成第2航空戦隊を編成
昭和16年12月8日ハワイ攻撃に参加
支那事変より大東亜戦争に突入しジャワ北濠攻撃作戦等に参加した
昭和17年6月5日ミッドウェイ作戦にて敵の爆撃に依り艦長岡田次作少将 整備長山崎虎雄大佐以下810名の戦友の屍と共にミッドウェイ海底6千米に今も尚静かに眠っている
合掌

加賀要目

基準排水量 42,540屯
水線長       258米
最大巾     30.48米
吃水       9.479米
主機械 蒸気タービン 4基
プロペラ軸数      4基
機関出力  125,000馬力
速力         29ノット
備砲主砲     20糎6門
高角砲   12.7糎二聨装16門
機銃     25粍三聨装22門
飛行機  常用 75機
       補用 25機
乗組員  平時 1340人
       戦時 1708人

(碑文より)

慰霊碑・記念碑群



慰霊碑・記念碑群

(鹿児島県護国神社)





(平成19年3月30日)

航空母艦加賀戦没者慰霊碑



航空母艦加賀戦没者慰霊碑

(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

碑文

泪く時になく
   笑ふ時に笑ふ
そんな立派な
    戦友だった
御国のため
 身を投し
   もう笑う事も
      泪く事も
出来なくなった
 戦友の御霊を
   少しでも
      安らかにと
こゝに碑を建てる
 安らかに遠久に
   ねむれかし

慰霊碑建立の記

航空母艦加賀は大正9年7月19日神戸川崎造船所にて戦艦として起工
進水後は横須賀工廠にて航空母艦に改装
昭和3年3月31日竣工し昭和9年6月25日から約1年の歳月をかけ近代的最新鋭空母に大改装した
昭和12、3年支那事変に際しては支那沿岸各地に於て幾多の戦功を樹て 昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭長躯真珠湾を奇襲し敵に壊滅的打撃を与え更に印度洋蘭印ラボールと数次の作戦に参加数々の戦果を収めた
昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於ては敵陸上基地を猛攻し反復攻撃のため準備中敵機の集中攻撃を受け艦を挙げての必死の防戦にも拘わらず敵艦上爆撃機の急襲により武運拙く被弾誘爆火災を起し全艦火に包まれ遂に総員退去の止むなきに至り同日16 25頃ガソリン庫に引火し大爆発を起し沈没
岡田次作艦長以下多数の戦没者は艦と運命を倶にされた
茲に慰霊碑を建立し航空母艦加賀の数々の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念する

昭和50年6月5日
航空母艦加賀遺族生存者有志一同
合掌

(碑文より)

航空母艦加賀戦没者慰霊碑

横須賀工廠で昭和3年3月31日竣工。
艤装中の昭和2年12月10日佐世保を本籍と定められ、9年から1か年をかけて佐世保工廠で大改装が行われた。

(ミッドウェー海戦)
加賀は見張員の爆弾投下の報告と同時に、一斉に対空射撃を開始した。
爆弾第4弾は後部右舷に命中し、飛行機格納甲板及び防御甲板を突き抜けて炸裂。
第7弾は全部昇降機に落下。
第8弾は艦橋前方のガソリンタンク車に命中し、艦橋は破壊され、艦長岡田次作大佐、副長川口雅男大佐ほか艦橋所在者はほとんど全滅した。
第9弾が中部に命中し、発着甲板を突き抜けて、飛行機格納甲板で爆発。
ここには魚雷20本、800キロ爆弾20発、250キロ爆弾40発が置いてあり、たちまち誘爆して全艦火災となる。
消火作業のための水も止まり、多くの機関科員は上甲板に上がることも不可能であった。
加賀はついに前部ガソリン庫に引火、2回の大爆発ののちゆっくりと横倒しになり、徐々に沈んでいった。
時に昭和17年6月5日午後4時25分。
碑は昭和50年6月5日に建立された。
岡田艦長以下800余名の戦死者を祀ってある。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)

(平成22年3月9日追記)


戦艦・加賀

「戦艦・陸奥」と同じく大正6年度(1917年)の「八四艦隊完成案」により建造された。
加賀型戦艦(加賀・土佐の2艦)は長門型(長門・陸奥の2艦)をより発展強化したもの。
主砲塔が4基から5基10門に増加。
最新式のボイラーの導入により煙突が大型のもの1本となる。
また、防御面も強化され、集中防御方式の徹底とジュットランド沖海戦の戦訓を生かし、水平面の防御強化を設計時から取り入れた。
煙突の煙路の防御も初めて行われる。
舷側装甲は長門型の30.5cmから27・9cmと減少したが、15度の傾斜が付いた傾斜装甲のため、長門型より強靭になったと考えられた。

大正9年に神戸川崎造船所で起工されたが、建造中にワシントン軍縮会議が始まり、「加賀」、「土佐」の両艦とも未成艦リストに入れられたため、廃棄を前提に工事を進めて進水させた。
大正13年、「土佐」は実艦標的として実弾射撃の標的となり沈没。
「加賀」も実艦標的となる予定だったが、空母に改造予定だった「天城」が大正12年の関東大震災で損傷したため、その代艦として空母に改造された。

(参考:『歴史群像2007年10月号付録・帝国海軍艦艇総覧明治大正編』)

(平成20年5月25日追記)


空母・加賀

昭和3年(1928年)に完成した姿は『赤城』と共通の多段式飛行甲板と、20センチ砲10門というもの。
昭和9年(1934年)6月より佐世保工廠で改装工事に着手。
改装の内容は、上段の飛行甲板を延長して全通とし、格納庫を拡大。
煙突を右舷舷側部に下方湾曲型とした。
高角砲を新式の九四式12.7センチ連装砲8基に換装。
機関の換装も行われた。
飛行甲板の改造により20センチ連装砲塔は撤去されたが、予備砲廓を利用して両舷に2門づつ追加。
甲板の延長に伴い、中段飛行甲板に設けられていた羅針艦橋は撤去され、飛行甲板右舷の煙突の前に塔型の艦橋が設置された。
機関の換装と艦尾の延長により速力は27.5ノットから28.3ノットに向上した。

上海事変に『鳳翔』とともに参加。
日中戦争の第二次上海事変などに従事。
対米開戦のハワイ攻撃で機動部隊の主力として参加したのち、ラバウル攻撃、ダーウィン攻撃などに参加。
ダーウィン攻撃前にパラオ泊地で艦底部を損傷したためインド洋作戦には参加しなかった。
ミッドウェー作戦では米艦爆の急襲を受け3発が命中して火災となり、最後はガソリン庫が誘爆して沈没した。

【要目】(昭和10年)
公試排水量:4万2500トン
機関出力:12万5000馬力
速力:28.3ノット
航続力:16ノットで1万海里
乗員数:約2,000名
兵装:20cm単装砲×10
    12.7cm連装高角砲×8
    25mm連装機銃×11
搭載機数:72機(補用機18機)

(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)

(平成22年4月9日追記)


【「加賀」飛行機隊】

搭載定数:艦上戦闘機21機、艦上爆撃機30機、艦上攻撃機30機

初陣は昭和7年1月末に起った第1次上海事変で、上海沖から発進して上海公大飛行場を根拠地として地上軍に協力した。
「加賀」艦攻隊指揮官が戦死したが、ロバート・ショートというアメリカ人義勇パイロットを三式艦戦が撃墜。
これが日本海軍初の空戦による撃墜といわれている。

日中戦争でも出陣した。
緒戦の昭和12年8月16日・17日の両日にわたって江湾(上海と呉淞の中間あたり)で空戦し、5機を撃墜。
この時の艦戦は九〇式艦戦、中国軍はコルセア、ダグラス戦闘機だった。
9月中旬の南京大空襲では、艦戦12機、艦爆18機、艦攻18機を総動員して出撃した。
「加賀」飛行隊の参戦は昭和13年一杯、台湾を前進基地として断続的に行われた。

太平洋戦争では真珠湾奇襲に参加。
(第1次攻撃隊)
水平爆撃隊第2攻撃隊として九七式艦攻15機を橋口喬少佐が指揮して参加。
雷撃隊特第2攻撃隊として九七式艦攻12機を北島一良大尉が指揮して参加。
制空隊第2制空隊として零戦9機を志賀淑雄大尉が指揮して参加。
(第2次攻撃隊)
降下爆撃隊第12攻撃隊として九九式艦爆27機を牧野三郎大尉が指揮して参加。
制空隊第2制空隊として零戦9機を二階堂易大尉が指揮して参加。
(戦果)
雷撃隊はウェストバージニア型に4発命中、アリゾナ型に3発命中、ネバダ型に1発命中。
水平爆撃隊はカリフォルニア型に1発命中、ウェストバージニア型に1発命中、アリゾナ型に1発命中、特務艦に1発命中。
急降下爆撃隊はネバダ型に8発命中(不確実13発)、ウェストバージニア型に3発命中。
戦闘機隊は撃墜3機、地上撃破26機(主にヒッカム、バーバース飛行場にて)

その後、ダーウィン攻撃の後は戦列を離れ、インド洋作戦には出撃しなかった。
最後の作戦はミッドウェー作戦。
同島の攻撃隊には艦爆18機(小川正一大尉指揮)、零戦9機(飯塚雅夫大尉指揮)で参加し、艦爆隊はサンド島地上機の撃破と航空施設の破壊、制空隊は制空のほかイースタン島地上機の撃破を実施した。
しかし、「加賀」は「赤城」に遅れること1分、昭和17年6月5日午前7時24分、急降下爆撃を受け、最初の3発は回避したが、第4〜第9発の4弾が命中し、大爆発を起こして沈没した。

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月20日 追記)


真珠湾攻撃
南雲機動部隊主要職員表
部隊(艦) 氏名
第1航空艦隊司令部 司令長官 中将 南雲 忠一
参謀長 少将 草鹿龍之介
参謀(首席) 中佐 大石 保
参謀(航空甲) 中佐 源田 実
参謀(航空乙) 少佐 吉岡 忠一
参謀(航海) 中佐 雀部利三郎
参謀(潜水艦) 中佐 渋谷 龍■たつわか
参謀(通信) 少佐 小野寛治郎
参謀(機関) 機少佐 坂上 五郎
機関長 機大佐 田中 実
軍医長 医大佐 新井 甫
主計長 主大佐 清水 新一
第1航空戦隊 赤城 艦長 大佐 長谷川喜一
飛行長 中佐 増田 正吾
飛行隊長 中佐 淵田美津雄
加賀 艦長 大佐 岡田 次作
飛行長 中佐 佐多 直大なおひろ
第2航空戦隊 司令部 司令官 少将 山口 多聞
参謀(首席) 中佐 伊藤 清六
参謀(航空) 中佐 鈴木栄二郎
参謀(通信) 少佐 石黒 進
参謀(機関) 機少佐 久馬きゅうま 武夫
機関長 機大佐 篠崎 磯次
蒼龍 艦長 大佐 柳本 柳作
飛行長 中佐 楠本 幾登
飛龍 艦長 大佐 加来かく 止男
飛行長 中佐 天谷あまがい 孝久
第5航空戦隊 司令部 司令官 少将 原 忠一
参謀(首席) 中佐 大橋 恭三
参謀(航空) 少佐 三重野 武
参謀(通信) 少佐 大谷藤之助
参謀(機関) 機少佐 吉田 毅
機関長 機大佐 牟田 菊雄
瑞鶴 艦長 大佐 横川 市平
飛行長 中佐 下田 久夫
翔鶴 艦長 大佐 城島 高次
飛行長 中佐 和田鉄二郎
第3戦隊 司令部 司令官 中将 三川 軍一
参謀(首席) 中佐 有田 雄三
参謀(砲術) 中佐 竹谷 清
参謀(通信) 少佐 森 虎男
参謀(機関) 機少佐 竹内由太郎
機関長 機大佐 奥村 敏雄
比叡 艦長 大佐 西田 正雄
霧島 艦長 大佐 山口 次平
第8戦隊 司令部 司令官 少将 阿部 弥毅ひろあき
参謀(首席) 中佐 藤田 菊一
参謀(水雷) 少佐 荒 悌三郎
参謀(通信) 大尉 矢島源太郎
参謀(機関) 機少佐 佐藤 良明
機関長 機大佐 松島 悌二
利根 艦長 大佐 岡田 為次
筑摩 艦長 大佐 古村 啓蔵
警戒隊 第1水雷戦隊司令部 司令官 少将 大森仙太郎
参謀(首席) 中佐 有近 六次
参謀(砲術) 少佐 三上 作夫
参謀(通信) 大尉 岩浅 恭助
参謀(機関) 機少佐 吉川 積つもる
機関長 機大佐 田辺 保里やすのり
阿武隈 艦長 大佐 村山 清六
第17駆逐隊      司令 大佐 杉浦 嘉十
谷風 駆逐艦長 中佐 勝見 基
浦風 駆逐艦長 中佐 白石 長義
浜風 駆逐艦長 中佐 折田 常雄
磯風 駆逐艦長 中佐 豊嶋 俊一
第18駆逐隊      司令 大佐 宮坂 義登
不知火 駆逐艦長 中佐 赤澤次寿雄しづお
駆逐艦長 中佐 戸村 清
駆逐艦長 中佐 緒方 友兄
陽炎 駆逐艦長 中佐 横井 稔
秋雲 駆逐艦長 中佐 有本輝美智
哨戒隊 第2潜水隊      司令 大佐 今和泉喜次郎
伊19 潜水艦長 中佐 なら原 省吾
伊21 潜水艦長 中佐 松村 寛治
伊23 潜水艦長 中佐 柴田 源一
補給隊 第1補給隊 極東丸 特務艦長(指揮官) 大佐 大藤 正直
健洋丸 監督官 大佐 金桝 義夫
国洋丸 監督官 大佐 日台 虎治
神国丸 監督官 大佐 伊藤 徳堯
第2補給隊 東邦丸 監督官(指揮官) 大佐 新美 和貴
東栄丸 監督官 大佐 草川 淳
日本丸 監督官 大佐 植田弘之介

(参考:平塚柾緒著『パールハーバー・真珠湾攻撃』)

未帰還機搭乗員表
機種 操縦員 偵察員 電信員
艦戦 二飛曹 佐野清之進    
二飛曹 羽田 透    
一飛曹 稲永 富雄    
飛曹長 五島 一平    
艦爆 大尉   牧野 三郎 飛曹長 鋤田 末男  
二飛曹 平島 文夫 三飛曹 坂東 敏明  
一飛   岡 厳 三飛曹 南崎 常夫  
二飛曹 津田 信夫 一飛曹 今井 福満  
三飛曹 坂口 登 三飛曹 朝日 長章  
三飛曹 鬼倉 成徳 一飛曹 桑原 一義  
艦攻 一飛   北原 収三 一飛   清水 吉雄 二飛曹 大西 俊夫
大尉   鈴木 三守 飛曹長 森田 常記 二飛曹 町元 義春
二飛曹 熊本 研一 二飛曹 松田 勇 二飛曹 梅津 宣夫
一飛   大橋 成克 二飛曹 増田 吉蔵 二飛曹 武田 英美
二飛曹 長井 泉 一飛曹 植田米太郎 一飛   武田 友治

(参考:平塚柾緒著『パールハーバー・真珠湾攻撃』)


真珠湾攻撃初日に戦死した空母加賀所属雷撃機の通信員・武田友治の人生
富山県出身・17歳

 (真珠湾) (平成21年12月9日・撮影)

 (フォード島)

戦艦アリゾナの残骸(アリゾナ記念館)
船体から漏れている油が海面に漂っているのが見える。

空母『加賀』の水平爆撃隊、雷撃隊などが攻撃した。(旅日記参照)

(平成27年6月4日・追記)


【撃墜された空母『加賀』所属の九七式艦上攻撃機の残骸の一部】

Horizontal Stabilizer section from one of five “Kate”bombers shot down in the raid.

(ハワイ・陸軍博物館・平成22年6月5日訪問・旅日記参照)

(平成27年6月4日・追記)


ミッドウェイ海戦

 

(ミッドウェイ島・平成22年6月2日訪問・旅日記参照)


『滄海よ眠れ』

ミッドウェイ海戦慰霊碑
平成10年6月4日建立

ミッドウェイ島(サンド島)

(平成22年6月2日)

空母・加賀の最期

駆逐艦「舞風」艦長だった中杉清治氏(当時中佐・海兵50期)の回想。
「加賀は1日燃えとったですよ。大変な火災だった。それに私の艦はずっとついておった。いわば鉄の巨大なかたまりが、あんなにも燃えるんですなぁ。なかでも、艦橋のあたりが凄かった。火山の溶岩みたいに、どろどろに溶けて崩れ落ちていった。山本長官から平文ひらぶんで、そう平文です。“加賀は曳航できざるや”ときいてきましたね。こっちも平文で、“曳航不能”と打ち返しましたよ。太陽が沈んでしばらく経った頃、文字通り天に冲する大爆発が起こった。その時、私の艦は加賀から千メートルくらいしか離れていなかった。ものすごい震動ですわな。舞風の方位盤が壊れたですよ。それでも加賀はすぐには沈まんかった。ジリジリと、緩慢にですな、水平を保って沈んでいった。」

ちなみに、「加賀」の沈没時刻は、午後7時26分である。
前後のガソリンに引火して爆発を2度起こし、そのまま引きずり込まれるように海中に没したとされている。
沈んだ位置は、北緯30度20・3分、西経179度17・2分と記録されている。
戦死者は岡田次作艦長以下約800名にものぼった。
その多くは、機関科要員であったとされている。

(参考:亀井宏 著 『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』 光人社NF文庫・1995年発行)

(平成22年8月29日追記)


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