鍋島直正像 平成20年11月24日

鍋島直正 なべしま・なおまさ

文化11年12月7日(1815年1月16日)〜明治4年1月18日(1871年3月8日)

佐賀県立病院 好生館の前庭でお会いしました。


父は鍋島斉直。
号は閑叟。
天保元年(1830年)家督相続。
質素倹約を旨とした藩財政の緊縮策を推進する。
農村支配機構の改革、小作料の10年間猶予による本百姓体制の再編などを行なった。
伊王島・神島に洋式砲台を設置。
洋式大砲鋳造のため大銃製造方を設け国産初の反射炉を建設。
西洋理科学研究所である精錬方を置く。
また佐野常民ら藩士を長崎海軍伝習所に派遣し、西洋船舶を輸入して強大な海軍力を育成した。
さらに種痘を世子・直大なおひろに施し西洋医学の摂取に努めた。
文久元年(1861年)隠居したが藩政を主導し、戊辰ぼしん戦争では育成した軍事力が官軍の勝利をもたらし、明治政府の中での佐賀藩の地位を高めた。


閑叟公と種痘の像



閑叟公と種痘の像
(佐賀市・県立病院好生館)





(平成20年11月24日)

好生館の記

天保年間(1830〜1843年)天然痘椙■を極める人心■々のとき、鍋島閑叟公は伊東玄朴、楢林宗建らの建言により、オランダより良質の牛痘苗を入手させ、嘉永2年(1849年)城内において世嗣淳一郎君に大石良英より種痘を受けさせ、これが牛痘法全国普及のきっかけとなりました。
伊東玄朴らは間もなく江戸において種痘医養成のために淨金を集め、安政5年(1858年)江戸の神田お玉ヶ池に種痘所をつくりましたが、これは明治維新のあといくにの変遷を経て、いまの東京大学医学部に発展しました。
佐賀藩医学校は、天保5年(1834年)八幡小路に設立された「医学寮」に始まり、安政5年(1858年)に現在の片田江に移転し、閑叟公より「好生館」と命名されました。
明治4年、廃藩置県に伴い「好生館」は佐賀県立好生館病院となり、外人教授を擁して医師免許証交付権をもつ甲種医学校に指定されましたが、明治10年代になり外人傭教師制度が打ち切られるや、一時衰退の憂目にあい、県立所管は中断されました。
しかし県出身国会議員武富時敏氏らの復活運動により、明治29年(1896年)に佐賀県立病院好生館として再出発して現在に至ったのであります。
ここに佐賀県立病院好生館百周年を迎えるに当り

一.閑叟公と種痘の像   成富 宏 作(日展特選受賞者 佐賀大学教授)
一.医療庭園   庭師 松間一立 作(九州大学「神の手」庭園作者)

を寄贈し、佐賀の日本近代医学史における貢献をここに記念するものでありますが、歴史の単なる回顧に留まらずに、時代の流れの節目のときに当り21世紀の医学医療のあり方に新たな抱負と展望を沈思黙考するものであります。

平成8年(1996年)12月
佐賀県立病院好生館 百周年記念庭園整備事業委員会
好生館 名誉館長 井田 潔 謹書

(銘板より)


隔林亭



隔林亭
(佐賀県佐賀市・神野公園)





(平成20年11月24日)

鍋島直正公茶室
隔林亭

神野のお茶屋隔林亭は、1846(弘化3)年11月に佐賀藩の10代藩主鍋島直正(閑叟)によって建立されました。
フルベッキや大久保利通が来訪するなど佐賀の迎賓館的機能を有し、神野のお茶屋の象徴として存在していました。
直正公は、全国有数の雄藩としての実績を築くと同時に、政務の余暇を隔林亭で茶を喫し、詩作にいそしむと共に心を洗ったといわれています。
その後明治維新になり数々の人の手にわたった後、第二次世界大戦後に解体されその歴史を閉じました。
この茶室は当時の資料を参考に平成元年市制百周年記念事業として復元計画が決定されました。

起工 平成3年12月24日
落成 平成5年4月24日

佐賀市

(説明板より)

神野のお茶屋



神野のお茶屋
(佐賀県佐賀市・神野公園)





(平成20年11月24日)

佐賀市重要文化財(建造物)
神野のお茶屋
昭和43年2月11日指定

佐賀藩10代藩主、鍋島直正(閑叟かんそう)が弘化3年(1846)に築いた別荘である。
別荘は木造平屋の寄棟よせむね造り藁葺わらふき1棟と、木造平屋の四方廻屋根藁葺しほうまわりやねわらふき1棟の2棟からなり、この2棟を瓦葺の廊下で継いでいる。
寄棟造りは桟瓦葺さんかわらふきの庇ひさしをつけ、南と西は1間幅の縁がめぐる。
主室は4間半に2間半の畳の間で床の間がつき、この主室の北側に4間に1間の畳の間の副室がついている。
四方廻屋根はは、4棟を方形に結合した形で方形に畳の間が廻り、その中央は庭園となっている特殊な構造である。
東棟の北隅に千鳥破風ちどりはふ本瓦葺の玄関が付いている。
この別荘は大正12年(1923)に直正の嫡孫ちゃくそん直映から佐賀市民のために佐賀市に寄付されたので、一般に公開されて神野公園と名称を定めた。

(説明板より)

神野公園



神野公園
(佐賀県佐賀市神園4−1−3)





(平成20年11月24日)

神野公園

旧藩主鍋島閑叟公の別荘で弘化3年(1846年)造成、一般に「神野のお茶屋」と呼ばれていたが、大正12年に公園として、市民に開放され佐賀市が管理することになりました。
公園には、多布施川の清流を引いて池を造り小山を築いて四季の植物を配した日本庭園と、睡蓮池や展望台を備えた洋式庭園があり、小動物舎、遊園地なども設置されています。
又桜の名所として、市民に親しまれています。

(案内板より)


御座間と堪忍所




御座間と堪忍所

佐賀城




(平成20年11月24日)

御座間ござのま・堪忍所かんにんどころ

本丸御殿が建設された天保年間の建物で、第10代藩主鍋島直正なおまさの居間(御座間)、警護する家臣達が詰める部屋(堪忍所)からなります。
この建物は、最終的に赤松小学校の校舎として使用され、その当時御居間おいのまと呼ばれていました。
1958(昭和33)年、佐賀市南水ヶ江みなみみずがえ地区の大木おおき公園に移築され、公民館(南水なんすい会館)として利用されていました。
今回佐賀城本丸御殿の再建に際し、この建物が全国的にも貴重な建物であることから、再移築復元しました。

(説明板より)

御座間・堪忍所の内部】

御座間・堪忍所(佐賀市重要文化財)

1838(天保9年)に、10代藩主鍋島直正により建設され、藩主の居間として利用された建物です。
1958(昭和33)年に、佐賀市南水ヶ江地区の大木公園に移築され、公民館として利用されていましたが、佐賀城本丸歴史館の建設に際し、再度この場所に移築しました。
今回の再移築にあたっては、建設当初の姿を忠実に復元するために、柱などの部材のうち使用できるものは元の位置に戻しています。
このため、その部材には、公民館として活用するために改装された際の加工穴や傷の跡が見られます。

(説明板より)


【科学力・技術力を持つ強国をつくる】

文化5年(1808)8月、イギリス海軍の軍艦フェートン号が突然長崎に現れた。
フェートン号はイギリス海軍の軍艦であるにもかかわらず、オランダ国旗を掲げていたため、監視所をフリーパスで通過し、長崎湾内に侵入した。
当然、自国の船と思ったオランダ商館員2名が、入港手続きのため長崎奉行所の役人らと共に船に出向いたところ、いきなりイギリス兵が銃を突きつけオランダ人2名を人質に取った。
結局、フェートン号は、人質を楯に食糧や飲料水を強要した。
オランダ人が人質に取られているので、当時の長崎奉行・松平康英やすひではやむを得ず要求に従い人質を取り戻した。
もちろんこんな不法行為を許すわけにはいかない。
康英は湾の出口を封鎖し、何とかフェートン号を抑留しようとした。
しかし、長い泰平の時代が続いたため、長崎に警備兵はほとんどいなかった。
長崎は幕府の直轄地であったが、長崎奉行所にはほとんど事務方しかおらず、長崎港自体の警備は近隣の諸藩に任されていた。
ところが、この年の当番であった佐賀藩は、本来警備兵を1000人出さなければいけないところ、わずか100人に抑えていたのだ。
狼藉ろうぜきを尽したフェートン号は、誰にも邪魔されずに悠々と長崎を去った。
誰かが責任を取らなければならない。
長崎奉行・松平康英は切腹して果てた。

「フェートン号事件」において幕府側できちんと責任をとったのは長崎奉行の松平康英だけで、最高幹部の老中たちは長崎奉行の失態ということで誰一人責任を取らなかった。
そしてたまたま(福岡藩黒田家と1年交代だった)長崎警備の当番にあたっていた佐賀藩鍋島家も、幕府から責任を押し付けられた。
確かに許可を取らず警備の人数を大幅に減らしたという失態はあったが、そもそもフェートン号は乗組員350人、3本マストの巨大帆船で全長40メートル以上、大砲も38門もある。
これに対して日本の船は、千石船せんごくぶねでも全長30メートル足らずでマストは1本しかないし、そもそも一番肝心なことだが、艦上に大砲を装備した“戦艦”などは幕府も佐賀藩も1隻も所持していない。
また、陸上の砲台にあるのは、戦国時代以来の青銅製の大砲で、射程距離も短く破壊力もない。
これではフェートン号にかなうわけがない。

それにもかかわらず、幕府は佐賀藩の「怠慢」を責め、藩主・鍋島斉直なりなおを謹慎させた。
藩主が謹慎させられたのに、家臣が黙っているわけにもいかない。
結局、警備担当の藩士16人が切腹した。

この幕府の態度に激怒したのが、斉直の息子で、のちに藩主となる直正(閑叟かんそう)であった。
直正は、この「フェートン号事件」の6年後に生まれたが、幼い頃から父が受けた屈辱、犠牲になった家臣たちの事を聞かされて育ち、成長するにしたがって驚くべき決意をした。
それは佐賀藩を、ヨーロッパの国々に負けないような科学力・技術力を持つ「強国」にしようという決意である。
そして直正はこれを実現した。
明治維新直前の幕末期、佐賀藩の科学力・技術力の水準は、ヨーロッパ諸国並みに高められていた。
蒸気船も反射炉も鋼鉄製の大砲も独力で製造することができた。
諸藩では薩摩藩が若干の工業力を持っていたが、佐賀藩には到底及ばなかった。

名君鍋島閑叟は藩の近代化を優先し、幕末の政治には関わらず、また藩士たちにも関わることを禁じた。
そのために幕末史にはほとんど佐賀藩の名は出てこない。
しかし、最後の最後になって、閑叟は薩長側に味方することを決断した。

一方、江戸城無血開城の後、不満を抱いた幕臣たちは、上野の山に籠って官軍に決戦を挑んだ。
いわゆる彰義隊しょうぎたいである。
だが、この乱はたった1日で終ってしまった。
それは佐賀藩製造の大砲が彰義隊を文字通り粉砕したからである。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月13日 追記)


築地反射炉跡



築地反射炉跡
(佐賀県佐賀市・日新小学校)





(平成20年11月24日)

佐賀市史跡
築地反射炉跡
昭和42年2月11日

佐賀藩は、寛永18年(1641)以来、幕命によって福岡藩と1年交代で長崎警備の任務についていた。
その装備は、諸外国と比べると薄弱であった。
10代藩主鍋島直正は、防衛の任務遂行を懸念し幕府にその旨を献策したが受入れられなかった。
かねてから西洋文化に関心を示していた直正は、嘉永3年(1850)、この地に、藩独自で洋式反射炉を築造し、築地大砲鋳造所を設け、長崎台場の防衛用大砲を製造した。
嘉永6年(1853)、その威力を幕府から認められ、大砲の鋳造依頼があったので、多布施に新たに反射炉を築き、公儀石火矢鋳立所を設置し、幕府向けの大砲を製造した。
嘉永5年から慶応年間までに佐賀藩が製造した大砲は、あわせて271門におよんだ。
現在、反射炉の模型のみが昔の面影を残している。

佐賀市教育委員会

(説明板より)

反射炉



反射炉(模型)
(佐賀県佐賀市・日新小学校)





(平成20年11月24日)

佐賀藩の反射炉
日本で初めて鉄を生んだ溶鉱炉
嘉永3年12月12日火入式

佐賀県機械金属工業会連合会
佐賀県青年工業会連合会

嘉永3年(1850)12月12日、わが国で最初に築造された佐賀藩の反射炉が、日本近代工業のあけぼのをつげた。
幕末、黒船の来航など国内騒然とした中に佐賀藩主鍋島直正は世界の大勢を説き、海防を献策したが、幕府はこれを聞き入れなかった。
そのため佐賀藩は独力で、この地に反射炉の建設にとりかゝり、失敗を重ねたあげくわが国最初の工業用鉄精錬とい鉄製大砲の製造に成功した。
嘉永6年、ペリー来航にあわてた幕府は、佐賀藩に「公儀用大砲200門鋳造」を委嘱。
佐賀藩技術陣は苦難に耐えこの大任を果した。
本碑は日本近代工業の先駆をなした郷土佐賀人の進取性と真摯な営みの歴史を顕彰するものである。

昭和50年12月12日建立

(銘板より)

佐賀藩カノン砲



佐賀藩カノン砲(復元)
(佐賀県佐賀市・日新小学校)





(平成20年11月24日)

佐賀藩鋳造鉄製24ポンド砲
わが国最初の鉄製カノン砲 復元

佐賀藩は、寛永19年(1642)から長崎港の警備にあたってきたが、文化元年(1804)露国使節レサノフの来航、同5年(1808)イギリス軍艦「フェートン号」の長崎港侵入があり、長崎港の警備はそれ以来緊迫した空気につつまれた。
鍋島直正が10代藩主につくと、これに対処するため長崎港台場の増設と洋式大砲の設置を痛感し、嘉永3年(1850)築地(いまの日新小学校)に反射炉を築き日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。
嘉永6年(1853)ペリーが来航すると、幕府は江戸湾防備のため品川に台場を新設し大砲を佐賀藩に注文した。
そこで佐賀藩では、多布施に公儀用の反射炉を増築し(佐賀駅北口にその模型がある)安政3年(1856)までに24ポンド砲25門、36ポンド砲25門を納めた。
さらに150ポンド砲3門を幕府に献上した。
又当時、世界で最高の技術を要するアームストロング砲を佐賀藩では元治、慶応年間に3門鋳造することに成功している。
この大砲は、この時品川砲台に備えられたものの一つであって、その頃のわが国科学技術の最高水準をうかがうことができる。

昭和52年12月12日(1977)
佐賀県機械金属工業会連合会

(銘板より)

日新小学校



日新小学校
(佐賀県佐賀市長瀬町9−15)





(平成20年11月24日)

「佐賀の七賢人」の碑



「佐賀の七賢人」の碑

(佐賀県佐賀市・佐嘉神社)





(平成20年11月24日)

佐賀の七賢人

鍋島直正公(1814〜1871)
肥前佐賀第10代藩主。
文化11年江戸藩邸に生まれ、幼名貞丸、のち斉正、直正という。
号は閑叟。
天保元年家督相続。
藩財政の改革、長崎警備に力をつくし、科学をとりいれ、鋳砲建艦に努力して海軍の基礎をつくった。
公武合体派であったが、幕末の政局では自重し、明治政府内では軍防事務局次官・北海道開拓使長官をつとめた。
明治4年没。
年58。
正二位をおくられ、のち従一位となる。

大隈重信(1838〜1922)
天保9年、佐賀藩士、大隈信保(鉄砲組頭)の子として生まれ、弘道館に学び義祭同盟に参加した。
長崎で英語を学び、明治政府の徴士となって外交・財政に活躍。
のち改進党を組織し、藩閥政府と抗争した。
また早稲田大学の前身、東京専門学校を創立。
のち、外務大臣、農商務大臣、総理大臣などを歴任、政治・文化に功績があった。
大正11年没。
年85。
従一位をおくられた。

江藤新平(1834〜1874)
天保5年生まれ。
名は胤雄、号は南白。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
維新時、大木とともに東京遷都を建白。
また明治政府内で、立法・制度において偉大な功績があり、とくに司法卿として司法制度の基礎を作った。
明治6年参議となる。
征韓論争で破れ、佐賀県士族におされて憂国党と組み佐賀の役で戦ったが敗北、逃れて四国で捕われ明治7年非道にも処刑された。
年41。

大木喬任(1832〜1899)
天保3年佐賀藩士大木知喬の長子として生まれ、通称幡六、のち民平と改めた。
弘道館に学び義祭同盟に参加。
明治新政府以後、東京府知事・民部卿・文部卿・司法卿を歴任。
3回にわたる文部大臣として学制・学校令・教育勅語などの教育体制の整備に尽力した。
元老院・枢密院両議長を歴任し、明治国家の確立に努力した。
常に開明的な立場から圧迫をうけながらも終始儒教主義をおしとおした。
明治32年没。
年68。

佐野常民(1822〜1902)
文政5年佐賀藩士下村充武贇の五男に生まれ、11歳で藩医佐野常徴の養子となる。
弘道館で学び、医学を緒方洪庵のもとで研修、のち藩士に物理・化学を教えた。
幕末国産最初の蒸気機関車模型製作や佐賀藩初のアームストロング砲の試作に尽力した。
慶応3年パリ大博覧会に藩命をうけて渡仏、帰国後、海軍創設につくし、大蔵卿・元老院議長・農商務大臣などを歴任した。
明治10年西南戦争のとき博愛社(日本赤十字社)を創設して社長となる。
明治35年没。
年81。

島 義勇(1822〜1874)
文政5年生まれ。
通称団右衛門、字は国華、楽斎と号した。
枝吉神陽に学び、藤田東湖と交友があった。
安政年間から蝦夷・樺太を巡見、明治2年開拓使主席判官として札幌を中心に北海道開拓にのりだした。
のち侍従・秋田県令などをつとめ、征韓論分裂のころ、旧藩の憂国党に推されて領袖となり、征韓党とともに佐賀の役で戦った。
明治7年非道にも処刑された。
年53。

副島種臣(1828〜1905)
文政11年、佐賀藩士枝吉忠左衛門(南濠)の二男として生まれ、副島家の養子となる。
幼名龍種、号は蒼海または一々学人。
父および兄、枝吉神陽の感化をうけ尊攘論に傾く。
弘道館の国学教授をつとめ長崎で英学を学び、開国論に転じた。
参議・外務卿として対支那外交の第一人者。
マリアルーズ号事件を解決、征韓論争で下野し、清国に■■、のち侍講宮中顧問官・内務大臣などを歴任した。
明治38年没。
年78。

(碑文より)

 (石碑の写真より)

佐嘉神社



佐嘉神社
(佐賀県佐賀市松原2−10)





(平成20年11月24日)

弘道館記念碑



弘道館記念碑
(佐賀県佐賀市・徴古館の脇)





(平成20年11月24日)

藩校 弘道館

佐賀藩の藩校は「弘道館」(学館)といい、8代藩主鍋島治茂が1781(天明元)年に創設したもので、後に水戸・但馬と並んで天下三弘道館の一つと称されました。
松原小路1900坪の敷地に文武稽古場を建て、古賀精里(後の寛政の三博士の一人)を教授に朱子学を中心にした藩士教育を行い、人材の育成に努めました。
9代藩主鍋島斉直の時には、清里の子古賀穀堂が教授になり、「学制管見」を著し、10代藩主になる鍋島直正の侍講も勤めています。
10代鍋島直正は、1839(天保10)年に北堀端の現在地(ここは東端)5400坪に整備拡張し、弘道館・蒙養舎に七局六寮のほか大講堂・武芸場・厨房などを備え、学館予算も大幅に増額し、大規模な学校になりました。
また、藩士の子弟に限らず教育することにし、翌年6月の新築開講にあたり、「文武を励み、国家(藩)の御用に立つ様心掛くべし」と訓示されました。
学課は儒学・和学・漢学・兵学・筆道・習礼・算術・槍術・剣術・柔術・馬術・砲術・水練・蘭学(洋学を含む)、さらに洋式操練も加え、厳しく文武に研鑽を積ませています。
1855(安政2)年に始まる長崎海軍伝習には幕府の人数を上回る最多の48名を参加させ、海外の最新技術を学ばせています。
明治新政府で活躍した副島種臣、大木喬任、大隈重信、佐野常民、江藤新平、島義勇などは皆弘道館の出身でした。
弘道館を中心とした徹底した教育による優秀な人材の育成が、幕末の佐賀藩が全国に先駆けて近代化を成し遂げる原動力になったと考えられます。
この記念碑は1923(大正12)年3月の建立で、題字は12代侯爵鍋島直映の揮毫、碑文は文学博士久米邦武の撰、中島雅明の書になるものです。

(説明板より)

弘道館跡



弘道館跡

(佐賀県佐賀市松原2−5−22・徴古館)





(平成20年11月24日)



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