福島県相馬市中村字北町
平成20年10月5日
中村城の由来
中村城のはじまりは非常に古く、平安時代の延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征伐のとき西舘(現在の中村城の西部一帯)に菅原敬実をおいて守らせたと伝える。
敬実は天神(今の北野神社)を氏神として舘をかまえていたが、後世になって源頼朝が平泉の藤原泰衡を討っての帰りみち、天神林に馬をつなぎ菅原の舘に宿営したと伝えられる。
その後中村城は居住者の無かった時代もあり中村氏や黒木氏が居住したこともあり、小高城の相馬氏がここに城代をおいたこともあって変遷をくり返した。
慶長16年(1611)相馬藩主利胤のとき城の南下を流れていた宇田川をさらに南方に切りかえ、土木工事を盛んにおこして城を広げ今見るような姿にして小高城からここに移った。
以来明治まで260年の間、6万石の城として続いたのである。
中村城は小規模ながら古くは蝦夷に新しくは伊達氏に備えたため、北方に守り堅い名城といわれ、石垣が少なく土塁をめぐらし多くの濠にかこまれているのも特色で、よく古代の城の名残をとどめている。
ただ1つ残る大手一の門は慶安元年(1648)の建築と伝えている。
現在、中村城跡は福島県指定の史跡となっている。
相馬市教育委員会
(説明板より)
(説明板より)
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福島県指定史跡 「中村城跡」
外大手一ノ門
相馬義胤が武蔵(埼玉県)川越城城番のときにその城門の堅固なのに感心し、それを模して作らせたといわれる。
1649(慶安2)年の完成である。
相馬市教育委員会
(説明板より)
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中ノ門跡 (平成20年10月5日) |
福島県指定史跡 「中村城跡」
中ノ門跡
外大手一ノ門同様の構造である桝形があり、その中に楼門造り(二階造り)の門があった。
1648(慶安元)年に建てられ1826(文政9)年に棄却された。
桝形とは・・・・城門の内(内桝形)か外(外桝形)に、土塁・石垣で囲った四角形の空間
相馬市教育委員会
(説明板より)
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福島県指定史跡 「中村城跡」
南二ノ丸(長友ながとも)
通称、長友といい、重臣の屋敷や馬屋(厩)などがあった。
後に、馬屋が東三ノ丸に移されると、その後に、常小屋(営繕所)が造られた。
南側の土塁には、かつて合横矢あいよこやの構えがみられ、東側の土塁に接続していた。
また、慶長の築城のとき、北側の内堀の際に、数十株の桜木が植えられ、以後たびたび補植され、今日に至っている。
東隅には、外天公がいてんこう(長門守義胤)が自ら植えたという「外桜木」があった(近年、その跡地に若木が植栽された)。
合横矢・・・・城に近づく敵を両側面から射撃するためのコ字状の塁線
長友の名称は『和名抄』の長伴と考えられる。
相馬市教育委員会
(説明板より)
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福島県指定史跡 「中村城跡」
本丸鉢巻石垣及び内堀跡
本丸の切岸(崖)は急斜面で、中段より上に鉢巻石垣が一周している。
611(慶長16)年会津藩浪人幸田彦左衛門の指図で構築されたといわれている。
石材は、川石の自然石に割石を混ぜ、石材の小面を横に据える野面のづら積みである。
上下の石が奥でかみ合うため口があき、明暗が生じて自然にとけこんでいる。
石垣は浜通りでは平城と中村城のみである。
本丸南面切岸の下は内堀跡で一部西端に遺存する。
相馬市教育委員会
(説明板より)
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相馬中村神社 (平成20年10月5日) |
福島県指定史跡 「中村城跡」
妙見曲輪と相馬中村神社
西二ノ丸の一角にあって、藩主相馬氏の氏神である「妙見」を祀ったところを特に妙見曲輪と言い、相馬氏の居城には必ず設けられた。
中村城内の妙見社(現相馬中村神社・国指定重要文化財)は、1643(寛永20)年に建てられた相馬地方最古の神社建造物であり、権現造りの社殿は、全体的に簡素な意匠であるが、木割きわりは太く力強く屋根はこけら葺である。
相馬市教育委員会
(説明板より)
相馬中村神社の歴史
当神社は、相馬地方の旧藩主・相馬家と深いつながりのある神社でありまして、社殿によると承平年間(931〜937)に奥州相馬氏の先祖・平将門が下総しもうさ国(現在の千葉県)に妙見宮を創建したことにはじまります。
奥州相馬氏初代師常もろつね公は先祖にならい下総国相馬郡に妙見宮を祀り、「平泉の役」の戦功により本領のほか陸奥むつ国行方なめかた郡を与えられました。
6代重胤しげたね公の時代、元亨げんこう3年(1323)になり相馬氏は一族郎党83騎を従え、それまでの本拠地・鎌倉下総の国流山からはじめて行方郡に移ってまいりました。
この時、神社の祠官・田代左衛門大夫信盛も鎮守妙見の神輿に遷従し、重胤に同行したのです。
妙見信仰の崇拝者でありました相馬氏は、はじめての居住地であった太田(福島県原町市)から建武けんむ3年(1336)に小高城(福島県相馬郡小高町)に居城を移した際も、またその後、17代利胤としたねが慶長16年(1611)に中村城に移り住んだ際も、その城内に妙見宮をお祀りしました。
この中村城内に祀られました妙見宮が現在の相馬中村神社でして、中村城域(別名馬陵ばりょう城)は現在県指定の史跡となっております。
このように当神社は相馬家代々の氏神として崇敬とくに厚かったばかりでなく、その信仰は相馬地方に広がり、今日にいたっております。
(説明板より)
代 | 諱 | 治政 | 出来事 |
1 | 師常(もろつね) | 治承4(1180)〜元久2(1205) | 1189年:源頼朝、藤原泰衡一族を滅ぼす 1192年:源頼朝、鎌倉幕府を開く |
2 | 義胤(よしたね) | 元久2(1205)〜貞応元(1222) | 1221年:承久の乱 |
3 | 胤綱(たねつな) | 貞応元(1222)〜嘉禎4(1238) | 1230年:諸国大飢饉 |
4 | 胤村(たねむら) | 嘉禎4(1238)〜文永9(1272) | 1259年:諸国大飢饉 |
5 | 師胤(もろたね) | 文永9(1272)〜永仁4(1296) | 1274:文永の役(蒙古襲来) 1281:弘安の役(元軍襲来) |
6 | 重胤(しげたね) | 永仁4(1296)〜建武2(1335) | 1320年:出羽の蝦夷反乱 1333年:鎌倉幕府滅ぶ 1334年:建武の中興、天皇親政 |
7 | 親胤(ちかたね) | 建武2(1335)〜延元2(1357) | 1336年:楠木正成戦死 1338年:足利尊氏、征夷大将軍となる |
8 | 胤頼(たねより) | 延元2(1357)〜貞治6(1367) | |
9 | 憲胤(よりたね) | 貞治6(1367)〜応永2(1395) | 1392年:南北朝の合一 |
10 | 胤弘(たねひろ) | 応永2(1395)〜永享8(1436) | 1399年:応永の乱 1407年:会津大地震 1413年:陸奥伊達持宗挙兵、敗退 |
11 | 重胤(しげたね) | 永享8(1436)〜永享11(1439) | 1438年:諸国大飢饉 |
12 | 高胤(たかたね) | 永享11(1439)〜明応元(1492) | 1457年:太田道灌、江戸城を築く 1467年:応仁の乱 |
13 | 盛胤(もりたね) | 明応元(1492)〜大永元(1521) | |
14 | 顕胤(あきたね) | 大永(1521)〜天文18(1549) | 1536年:伊達稙宗、家法の塵芥集を定む 1539年:会津の百姓蜂起 |
15 | 盛胤(もりたね) | 天文18(1549)〜天正6(1578) | 1573年:室町幕府滅ぶ |
16 | 義胤(よしたね) | 天正6(1578)〜慶長7(1602) | 1582年:本能寺の変(織田信長死す) 1585年:羽柴秀吉、関白となる 1600年:関ヶ原の戦い |
17 | 利胤(としたね) | 慶長7(1602)〜寛永2(1625) | 1603年:徳川家康、征夷大将軍となる 1613年:伊達氏の臣・支倉常長渡欧 1615年:大坂夏の陣 |
18 | 義胤(よしたね) | 寛永2(1625)〜慶安4(1651) | 1626年:仙台藩、塩専売制を布く 1635年:参勤交代制の確立 1639年:保科正之、会津藩主となる |
19 | 忠胤(ただたね) | 承応元(1652)〜延宝元(1673) | 1657年:江戸明暦の大火 |
20 | 貞胤(さだたね) | 延宝元(1673)〜延宝7(1679) | |
21 | 昌胤(まさたね) | 延宝7(1679)〜元禄14(1701) | 1770年:諸国早害 1687年:生類憐みの令発布 |
22 | 叙胤(のぶたね) | 元禄14(1701)〜宝永6(1709) | |
23 | 尊胤(たかたね) | 宝永6(1709)〜明和2(1765) | 1720年:会津御蔵入騒動(一揆) 1729年:陸奥信夫・伊達二郡一揆 1738年:常磐平の一揆 |
24 | 恕胤(もろたね) | 明和2(1765)〜天明3(1783) | 1772年:田沼意次、老中となる |
25 | 祥胤(よしたね) | 天明3(1783)〜享和元(1801) | 1783年:天明の大飢饉(奥羽から全国へ) 1784年:奥州大飢饉、死者10万 1787年:松平定信、老中筆頭となる 1800年:伊能忠敬、蝦夷地を測量 |
26 | 樹胤(むらたね) | 享和元(1801)〜文化10(1813) | 1804年:出羽大地震 |
27 | 益胤(ますたね) | 文化10(1813)〜天保6(1835) | 1824年、イギリス捕鯨船員、常陸に上陸 1825年:異国船打払令 1828年:シーボルト事件 1830年:水戸斉昭、藩政改革を行う |
28 | 充胤(みちたね) | 天保6(1835)〜慶応元(1865) | 1836年:天保の大飢饉・米価暴騰 1837年:大塩平八郎の乱 1853年:ペリー浦賀に来航・陸奥一揆 1860年:桜田門外の変(井伊直弼害死) |
29 | 誠胤(ともたね) | 慶応元(1865)〜明治4(1871) | 1867年:大政奉還 1868年:北会津農民一揆 1871年:廃藩置県 |
30 | 順胤(ありたね) | ||
31 | 孟胤(たけたね) | ||
32 | 恵胤(やすたね) | ||
33 | 和胤(かずたね) |
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福島県指定史跡 「中村城跡」
西二ノ丸(西館)及び籾蔵門跡
西ノ丸は、古くは西館と呼ばれ、相馬利胤が中村城に移る前、後の盛胤が隠居したこともあった。
利胤が本居を移したころは、家臣の屋敷であったが、後年、南の方は台所役所となり、北の方には米倉が造られ、宇多・北・中郷の貫税が収められた。
また、火薬庫が置かれたこともあった。
ここから見える本丸西面の鉢巻石垣は、1847(弘化4)年に崩落して、積み直されたものである。
籾蔵門は、西二ノ丸の北側に位置し、蓮池西土塁より続く一連の防御施設であった。
相馬市教育委員会
(説明板より)
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福島県指定史跡 「中村城跡」
本丸及び天守閣跡
本丸御殿は、現在のフジ棚を取り囲むようにあった。
現在も諸所に礎石や庭園の配石の跡が見られる。
また、三重の天守閣は、築城時の1611(慶長16)年、本丸西南隅に建てられたが、1670(寛文10)年落雷で焼失し、以後再建されることはなかった。
本丸跡中央の相馬神社は、明治13年に相馬氏の祖の相馬師常を祭神として創建されたものである。
相馬市教育委員会
(説明板より)
福島県指定史跡
中村城跡
昭和30年2月4日指定
所在地 相馬市中村字北町
所有者 相馬市ほか
中村城は一名馬陵城ばりょうじょうともいわれる。
古くはこの地は天神山といわれ、中世にはその一部に館が構えられたこともあった。
慶長16年(1611)7月、相馬利胤が木幡勘解由かげゆ長清を責任者として築城に着手し、11月に完成、12月2日小高城よりここに移った。
以後明治初年に廃されるまで、約300年にわたる相馬氏歴代藩主の居城として、藩政の中心となった。
城の正面の東南部には外大手門がある。
ここより中門跡を経て廊下橋を渡ると内大手門跡があり、本丸に達する。
搦手門跡は、本丸の南西部に位置する。
築城された慶長16年に、天守閣が本丸南西隅に建てられたが、寛文10年(1670)落雷のため焼失した。
その後は再建されていない。
本丸のまわりには郭くるわ・濠・溜池ためいけ・土塁・空濠などをめぐらし、二の丸を東・西・南・北に、三の丸を東・西・北に配している。
更に岡田塁(岩崎塁)・西館・円蔵郭・お花畑・蓮池などをおき、この城をより堅固なものとしている。
本城は大規模とはいえないが、築城当時の姿をよく残しており貴重である。
相馬市教育委員会
(説明板より)
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福島県指定史跡 「中村城跡」
東二ノ丸及び丸土張まるどばり
東二ノ丸は、古くは中館ともいわれ、ほぼ現在の二ノ丸球場にあたる。
1674(延宝2)年から1783(天明3)年ころまでは御殿があり、藩主の私邸となっていた。
西側の丘陵東端は丸土張といわれる馬出うまだしであった。
馬出し・・・・城門・虎口こぐち等の前方に堀・土塁を設けて城内からの出撃の陣地としたところ。
相馬市教育委員会
(説明板より)
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福島県指定史跡 「中村城跡」
東三ノ丸(御廐)
東三ノ丸は、通称御廐(おんまや)といった。
もとは重臣泉氏の屋敷であったが、後に南二ノ丸から馬屋(廐)が移され、御廐別当馬場氏が代々住んでいた。
1698(元禄11)年に、西端に番所が設けられ、大手門を守る番士が昼夜詰めていた。
相馬市教育委員会
(説明板より)
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