静岡県掛川市掛川
平成16年11月28日
掛川城の歴史
掛川城は戦国時代の文明ぶんめい年間(1469~86)、駿河するが守護大名今川義忠いまがわ・よしただが遠江とおとうみ支配の拠点として、重臣朝比奈泰煕あさひな・やすひろに築かせたといわれています。
桶狭間おけはざまの戦(1560)で今川義元よしもとが織田信長によって倒されると、永禄えいろく11年(1568)義元の子氏真うじざねは武田氏に駿河を追われ、掛川城に立て籠りました。
翌年、徳川家康は、掛川城を攻め長期にわたる攻防の末、和睦により開城させました。
家康領有後、重臣石川家成いしかわ・いえなりが入城し、甲斐かいからの武田氏侵攻の防御の拠点となりました。
天正18年(1590)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康旧領地には秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊やまのうち・かずとよが入りました。
一豊は多くの戦乱により痛んだ城の改築や城下の整備を行うとともに、この時初めて天守閣をつくりました。
江戸時代には、掛川城は徳川親藩しんぱんの松平氏や、江戸城を築いた太田道灌おおた・どうかんの子孫太田氏など11家26代の居城として栄えました。
貴族的な外観をもつ天守閣の美しさは「東海の名城」と謳うたわれました。
しかし、嘉永かえい7年(1854)大地震により天守閣など大半が損壊。
御殿、太鼓櫓、蕗ふきの門などの一部を除き、再建されることなく明治維新を迎え、明治2年(1869)廃城となりました。
その後、御殿は様々に使用されながら残りましたが、天守台や本丸跡など一帯は公園とされてきました。
掛川市民の熱意と努力が実を結び、天守閣は平成6年140年ぶりに木造により再建され、ふたたび美しい姿を現しました。
(リーフレットより)
屋外展示模型
掛川城主要部模型
この模型は、正保しょうほ元年(1644)幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を基本資料として、150分の1の縮尺で製作されました。
塩櫓しおやぐら・銭櫓ぜにやぐらのあった腰曲輪こしくるわや内堀の松尾池・乾堀いぬいぼりは、削り取られたり、埋め立てられたりして現在目にすることはできませんが、模型ではこれらの曲輪や堀を含めた正保年間(1644~1647)頃の最盛期の掛川城の主要部が示されています。
模型の素材は、風雨、日光などの屋外での自然条件下でも耐久性が高い有田製磁器が用いられています。
(説明板より)
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太鼓櫓 (平成16年11月28日) |
太鼓櫓たいこやぐら
正保城絵図では、荒和布櫓あらめやぐらと呼ばれる見張りの櫓がありました。
今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓櫓です。
時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓で、何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築されました。
(説明板より)
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本丸跡 |
本丸跡
城の主要部で、藩主の住まいである本丸御殿がありました。
調査では、建物跡はわかりませんでしたが、柱穴ちゅうけつや礎石そせきが見つかりました。
城がつくられる以前は、墓地であったことがわかりました。
(説明板より)
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霧吹き井戸 (天守丸) (平成16年11月28日) |
天守丸
天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。
一豊によって城域が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪くるわになりました。
霧吹き井戸
永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真うじざねの立てこもる掛川城を攻めました。
この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
(説明板より)
天守閣
掛川城天守閣の特徴
掛川城天守閣は、外観三層、内部四階から成ります。
六間けん×五間(約12m×10m)の天守閣本体は、決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付櫓つけやぐらを設けたりして外観を大きく複雑に見せています。
一階、二階に比べ四階の望楼ぼうろう部が極端に小さいのは、殿舎でんしゃの上に物見のための望楼を載せた出現期の天守閣のなごりといえます。
白漆喰しろしっくい塗り籠ごめの真白な外容は、京都聚楽第じゅらくていの建物を、黒塗りの廻縁まわりぶち・高欄こうらんは大阪城天守閣にならったと見られます。
(リーフレットより)
立面図・説明板より
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天守閣内部 青森ヒバが使われています。 (平成16年11月28日) |
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鯱 |
鯱しゃち(掛川城天守閣据付け原寸大複製)
鯱しゃちは想像上の海魚かいぎょで、火除けのまじないとされ、古代寺院などの大棟おおむねの両端に取り付けられていた鴟尾しびから変化したものと考えられます。
掛川城天守閣では、袋井市ふくろいし油山寺ゆさんじの山門さんもん(掛川城玄関下御門を移築)の鯱を参考に、高知城天守閣の鯱にならって青銅で作られました。
寸法
長さ95センチメートル
幅35センチメートル
高さ120センチメートル
重量
200キログラム
寄贈 掛川ライオンズクラブ
(説明板より)
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鎧よろい・兜かぶと 革製朱塗紺糸威五枚 胴七間五段下り 江戸時代 山内豊秋氏寄贈 |
年表
1505年 | 永正2年 | 朝比奈泰煕、今川義忠の命により天王山に掛川古城を築城 | |
1513年 | 永正10年 | 朝比奈泰煕・泰能二代によって龍頭山に掛川城を築城 | |
1522年 | 大永2年 | 天守丸に霧吹き井戸を掘る | |
1555年 | 弘治元年 | 川中島の戦い | |
1560年 | 永禄3年 | 桶狭間の戦い | |
1568年 | 永禄11年 | 徳川家康、掛川城を包囲。天王山を占拠し攻略開始 | |
1569年 | 永禄12年 | 今川氏真・朝比奈泰朝、家康の講和条件を受諾 小田原城の北条氏康を頼り掛川城を退去 家康の命により石川日向守家成が掛川城主となる |
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1570年 | 元亀元年 | 姉川の戦い | |
1573年 | 天正元年 | 室町幕府滅びる | |
1575年 | 天正3年 | 長篠の戦い | |
1582年 | 天正10年 | 本能寺の変 武田氏滅びる |
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1585年 | 天承13年 | 羽柴秀吉 関白となる |
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1590年 | 天正18年 | 石川康通、上総鳴渡に移る 山内対馬守一豊、近江長浜より掛川城主として入城 |
秀吉、全国を統一 徳川家康 関東移封 |
1592年 | 文禄元年 | 文禄の役 (朝鮮出兵) |
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1596年 | 慶長元年 | 山内一豊によって天守閣完成 城郭および城下町の整備を開始 |
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1597年 | 慶長2年 | 慶長の役 (朝鮮出兵) |
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1600年 | 慶長5年 | 山内一豊、関ヶ原の戦いに東軍(徳川)に付き参戦 | 関ヶ原の戦い |
1601年 | 慶長6年 | 山内一豊、関ヶ原の戦いの戦功により土佐高知へ移る 松平隠岐守定勝(家康の異父弟)、下総小南より掛川城に入城 |
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1603年 | 慶長8年 | 松平定勝の嫡男・松平近江守定吉、19歳で自害 | 江戸幕府開く |
1607年 | 慶長12年 | 松平定勝、伏見城代となる 定勝の子・松平河内守定行が後を継ぎ城主となる |
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1615年 | 元和元年 | 大阪夏の陣 豊臣氏滅ぶ |
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1616年 | 元和2年 | 徳川家康没す | |
1617年 | 元和3年 | 松平定行、伊勢桑名に転封 安藤帯刀直次、遠江横須賀より掛川城に入城 |
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1619年 | 元和5年 | 安藤直次、紀州田辺へ移封(徳川頼宣付家老) 松平越中守定綱、掛川城に入城 |
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1623年 | 元和9年 | 松平定綱、地震大雨で破損した天守閣を修復する 中野七蔵重吉、掛川城を預かる |
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1625年 | 寛永2年 | 朝倉筑後守宣正、徳川忠長の付家老として掛川城を預かる | |
1633年 | 寛永10年 | 青山大蔵少輔幸成、下総姉崎より掛川城に入る | |
1635年 | 寛永12年 | 青山幸成、摂津尼ケ崎に移封 松平大膳亮忠重、駿河田中より掛川城に入城 |
参勤交代制確立 |
1638年 | 寛永15年 | 島原の乱 | |
1639年 | 寛永16年 | 松平忠重没す 嫡子・松平忠倶は幼少のため即日、信濃飯山へ移封 本多能登守忠義、播磨より掛川城へ入城 |
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1644年 | 正保元年 | 本多忠義、越後村上に転封 松平伊賀守忠晴、駿河田中より掛川城に入城 |
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1648年 | 慶安元年 | 松平忠晴、丹羽亀山に移封 北条出羽守氏重、駿河田中より掛川城に入城 |
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1657年 | 明暦3年 | 江戸明暦の大火 江戸城焼失 |
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1658年 | 万治元年 | 北条氏重没す 嫡子なくお家断絶 宮崎三左エ門、本多越前守利長が掛川城を預かる |
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1659年 | 万治2年 | 井伊兵部少輔直好、三河西尾より掛川城に入城 | |
1672年 | 寛文12年 | 井伊直好没す 井伊伯耆守直武、遺領を継ぐ |
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1687年 | 貞享4年 | 生類憐みの令発布 | |
1690年 | 元禄3年 | 掛川城下町大火災 | |
1694年 | 元禄7年 | 井伊直武没す 井伊兵部少輔直朝、遺領を継ぐ |
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1705年 | 宝永2年 | 井伊直朝、発狂し領地除領 養子の井伊直矩は即日越後与板へ転封 宮崎三左エ門、松平清衛門が掛川城を預かる |
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1706年 | 宝永3年 | 松平遠江守忠喬、信州飯山より掛川城に入城 | |
1707年 | 宝永4年 | 大地震により掛川城下町被害を被る | |
1711年 | 正徳元年 | 松平忠喬、摂津尼ヶ崎に転封される 小笠原壱岐守長煕、掛川城主となる |
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1739年 | 天文4年 | 小笠原長煕、辞職 小笠原山城守長庸、城主となる |
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1744年 | 延享元年 | 小笠原長庸没す 小笠原能登守長恭が遺領を継ぐ |
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1746年 | 延享3年 | 小笠原長恭、幼少及び領政不備により陸奥棚倉へ転封される 太田摂津守資俊、上野館林より掛川城に入城 |
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1763年 | 宝暦13年 | 太田資俊没す 太田備中守資愛、遺領を継ぐ |
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1772年 | 安永元年 | 田沼意次 老中になる |
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1783年 | 天明3年 | 天明の大飢饉 | |
1787年 | 天明7年 | 松平定信 倹約令発す |
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1800年 | 寛政12年 | 伊能忠敬 蝦夷地測量 |
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1805年 | 文化2年 | 太田資愛没す 太田摂津守資順、遺領を継ぐ |
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1808年 | 文化5年 | 太田資順没す 太田備後守資言、遺領を継ぐ |
間宮林蔵 樺太を探検 |
1810年 | 文化7年 | 太田資言没す 太田備中守資始、遺領を継ぐ |
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1825年 | 文政8年 | 異国船打払い令 | |
1828年 | 文政11年 | シーボルト事件 | |
1834年 | 天保5年 | 水野忠邦 老中となる |
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1837年 | 天保8年 | 大塩平八郎の乱 | |
1841年 | 天保12年 | 太田資始、辞職 太田摂津守資功が相続 |
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1853年 | 嘉永6年 | ペリー、浦賀に来航 | |
1854年 | 嘉永7年 | 大地震のため天守閣・各城門が崩壊 | 日米和親条約 |
1858年 | 安政5年 | 安政の大獄 (吉田松陰刑死) |
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1860年 | 万延元年 | 桜田門外の変 (井伊直弼害死) |
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1862年 | 文久2年 | 太田資功没す 太田備中守資美が相続 |
坂下門外の変 |
1863年 | 文久3年 | 8月18日の政変 | |
1864年 | 元治元年 | 蛤御門の変 長州征討 |
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1867年 | 慶応3年 | 徳川慶喜、大政奉還 王政復古の大号令 |
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1868年 | 明治元年 | 明治維新 鳥羽・伏見の戦い |
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1869年 | 明治2年 | 太田資美、上総国芝山に転封 徳川家達入国 |
横井小楠害死 大村益次郎害死 |
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掛川城御殿 (平成16年11月28日) |
掛川城御殿の歴史
御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせもった施設です。
掛川城御殿は、二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿としては、京都二条城など全国でも数ヵ所しかない貴重な建築物です。
書院造と呼ばれる建築様式で、畳を敷きつめた多くの室しつが連なり、各室は襖ふすまによって仕切られています。
当初は、本丸にも御殿がつくられましたが老朽化したり災害にあって、二の丸に移りました。
現存する御殿は、嘉永7年(1854)大地震でそれまでの御殿が倒壊したため、時の城主太田資功すけかつによって、安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて再建されました。
安政2年から明治2年(1869)までの14年間は掛川藩で使われましたが、廃城と同時に勤番所きんばんしょと徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附かふされ聚学校じゅがっこうとして使われました。
その後も女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けました。
その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物として、昭和47年(1972)から昭和50年(1975)まで保存修理が実施され、昭和55年(1980)1月26日、国の重要文化財に指定されました。
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御殿内部 |
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御書院上の間 城主が藩の政治をつかさどった公的な部屋です。 (平成16年11月28日) |
掛川城天守閣・掛川城御殿の案内
交通:掛川駅から徒歩7分
開館時間:2月1日~10月31日=午前9時~午後5時 11月1日~1月31日=午前9時~午後4時30分
休館日:年末年始(12月30日~1月1日)
入館料:一般300円(天守閣・御殿のどちらも入館できます)
大手門
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大手門 奥に見えるのが大手門番所です。 (平成16年11月28日) |
掛川城大手門復元について
この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応ふさわしい最大の門です。
天正18年(1590)より慶長5年(1600)まで在城した山内一豊が中町なかまちに開かれた松尾口まつおぐちの大手筋すじを連雀町れんじゃくちょうに移して大手郭かくを造り、その正門として設けたものです。
建物は楼門ろうもん造りの櫓門やぐらもんで間口は7間(約12.7米)、奥行は3間(約5.4米)、棟までの高さは38尺5寸(約11.6米)、二階は漆喰塗篭しっくいぬりごめ造りで格子こうし窓付きの門櫓をおき、庇ひさし屋根を付けています。
一階の中央には1間半両開き(巾約2.4米、高さ約4.3米)の門扉もんぴ、左側に1間(巾約1.2米、高さ約2.2米)片開きの通用口の潜くぐり戸を設けています。
鏡柱かがみばしらは3尺2寸(約66糎センチ)に1尺5寸(約45糎)もあり、冠木かぶき、梁はり、垂木たるき等も総すべて大きな木材を用いた壮大な造りです。
冠木下の高さが14尺6寸(約4.4米)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。
嘉永の地震(1854)で倒壊し安政5年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。
元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石ねがためいしを発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく50米北側に創建当時の姿に復元しました。
この発掘で門を囲む枡形ますがたの築地ついじと共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。
大手門から見る天守が一番美しいといわれます。
この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください。
掛川市
(説明石碑の碑文より)
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礎石根固め石 |
掛川城大手門礎石そせき根固ねがため石
掛川城大手門は、二層式の櫓門やぐらもん(楼門ろうもん)でした。
大きくて重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。
これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された、門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つです。
直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。
この根固め石は、新しく作られた道路に現地保存できないので、そのままの状態で取り上げました。
(説明板より)
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掛川城大手門番所 |
掛川城大手門番所(掛川市指定文化財)
大手門おおてもん番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする役人の詰所です。
嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物です。
明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和53年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。
大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和55年(1980)市の文化財に指定されました。
発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644~1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成7年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50メートル北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。
掛川市教育委員会
(説明板より)
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三光稲荷 |
三光稲荷由来
三光稲荷は、名馬の誉の出世で有名な山内一豊公が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。
三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院からから吉野へ御幸をされる12月21日の深夜暗闇から難渋され途中伏見にさしかかり稲荷大社の御前で、
ぬばたまの くらき闇路に 迷うなり
われにかさなん みつのともし火(三の光)
と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山には「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといわれこうした御利益から大手厩の構内にお祀りされました。
(説明板より)
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