平成19年11月6日
天保8年2月1日(1837年3月7日)〜明治41年(1908年)7月1日
愛媛県宇和島市・宇和島城上り立ち門前でお会いしました。
宇和島藩士出身。
品川県権少参事などを経て、明治4年(1871年)司法省に入り、翌年司法省判事。
名古屋裁判所所長・大審院民事乙局局長・長崎控訴裁判所所長・大阪控訴裁判所所長・大阪控訴院院長などを経て、明治24年(1891年)大審院院長。
同年5月の大津事件(ロシアのニコライ皇太子暗殺事件)では、犯人・津田三蔵に大逆罪を適用して死刑を求める松方内閣の干渉をはねつけ、司法権の独立を守ったとされる。
明治25年(1892年)8月、いわゆる司法官弄花ろうか事件(司法官等の花札賭博)に連座して免職。
明治27年(1894年)5月から明治31年(1898年)4月まで貴族院勅選議員、第6回総選挙で衆議院議員に当選(進歩党)。
明治38年(1905年)貴族院議員に復帰。
第二十銀行頭取も務めた。
明治41年(1908年)72歳(数え年)で没す。
児島惟謙先生像 (愛媛県宇和島市市丸之内3−6−1・宇和島城上り立ち門前) 監修 清家 清 彫刻 澄川 喜一 岡宮美術鋳造(株) 黒髪石材(株) (平成19年11月6日) |
児島惟謙先生
先生は宇和島藩家老宍戸家の臣金子惟彬の二男として、天保8年堀端通に生まれた。
文武に優れ、幕末文久―慶応年間には諸国を往来奔走し、坂本龍馬等とも交った。
明治4年司法省に奉職、以来同25年まで司法界にあった。
この間関西法律学校(関西大学)の創立にも参画した。
その人となりは硬骨剛毅、良心と正義の人であった。
明治24年5月大津事件がおこり、国内を動揺させた。
この時政府要人はロシアの報復を恐れ、犯人を極刑に処すべく強く干渉したが、先生は大審院長として法の拡張解釈に反対し、ついに司法権の独立を守りとおした。
後に貴族院、衆議院議員、第二十銀行頭取となり、明治41年72歳で没した
昭和60年1月吉日
銅像建立実施委員会
(副碑・碑文より)
宇和島城上のぼり立ち門 (愛媛県宇和島・宇和島城ふもと) (平成19年11月6日) |
市指定 有形文化財
宇和島城上り立ち門
この門は、宇和島城にあった多くの城門の一つであって、搦手からめて口から城へ登る上り口に位置している。
規模は大きくないが、建築様式は薬医門やくいもん形式の切妻きりづま、本瓦葺であって、丸瓦先端には、伊達家の紋章の一つである九曜くようの紋がついている。
建造年代は明らかでないが、城郭じょうかく全体の大修築が行われた寛文年間(1661〜1672)と推定される。
諸矢倉・追手門・搦手門などの失われた今日において、この門は天守閣とともに、宇和島城の大切な遺構である。
昭和38年2月11日 指定
宇和島市教育委員会
(説明板より)
児島惟謙の生誕地 (愛媛県宇和島市堀端町1−38・宇和島税務署脇) (平成19年11月6日) |
児島惟謙の生誕地 (愛媛県宇和島市堀端町1−38・宇和島税務署脇) (平成19年11月6日) |
市指定 史跡
児島惟謙の生誕地
児島惟謙は、宇和島藩家老宍戸家の家臣金子惟彬の二男として、天保8年(1837)2月1日、ここにあった宍戸家の長屋で生まれた。
少年時から文武にはげみ、壮年になっては諸藩の志士と交わり国事に奔走した。
維新後は司法省に奉職して明治25年まで長い司法官生活を送った。
明治24年(1891)に大津市で巡査津田三蔵が当時来日中のロシア皇太子に傷害を加えたいわゆる大津事件が突発した。
その当時惟謙は大審院長として、いっさいの俗論をしりぞけ、政治的圧力にも屈せず、司法権の独立を守りぬいた。
このことはわが国の司法史上に不滅の光を放っている。
昭和38年2月11日 指定
宇和島市教育委員会
(説明板より)
児島惟謙先生出生地碑・碑文
明治25年5月未曾有ノ國難突■シテ擧國色ヲ表フ来遊中ノ露國皇太子一巡査ノ傷クル所トナレル所謂大津事件ナリ當時憲法實施セラレテ僅ニ半歳國家ノ重臣モ三権分立ノ大義名分ニ■セス然カモ國力ニ自信無クシテ偏ニ強露ノ報復ヲ恐ル此ニ於テ行政ノ大臣恣ニ罪案ヲ豫断シ枉ゲテ犯人ヲ死ニ■シテ露國ノ怒ヲ觧カント欲ス實ニ憲政初頭ノ一大危機ナリキ時ナル哉大審院長ニ其人アリ忠誠剛直富貴モ■スル能ハズ威武モ屈スル能ハズ政府ノ強■ヲ反■
シ擔當ノ七判事ヲ鼓舞激励シテ断乎公明正大ノ判決ヲ下サシム司法権ノ獨立ヲ危機一髪ニ救ヒテ台風一過暗雲拭フガ如ク萬國正理ニ■シテ天地清明旭日昭■タリ嗚呼護法
偉人抑モ之ヲ誰トカ為ス如何ノ山川カ此救國ノ英雄ヲ生メル■ハ天保八年二月一日地ハ■豫宇和島ノ城下人ハ即チ児嶋惟謙先生ナリ今ヤ裁判所構成法實施五十年記念祝典に際シ茲■■■生誕ノ■址ニ標ス行旅ノ過客足ヲ■メテ讃■之ヲ久シクセン如何ニ況ヤ郷■ノ後進朝暮碑ヲ仰イデ感奮興起セザランヤ
昭和十四年十一月一日
法学博士男爵穂積重達撰
児島惟謙 |
児島惟謙は天保8年(1837年)2月1日、堀端通りの宍戸家屋敷の長屋で生まれた。
惟謙の幼少時の境遇は、まことにみじめなものであった。
生後5ヶ月で母・直子(那保子)と生別、その後、里子にやられたり、野村の緒方家や岩松の小西家の使用人になったりして辛酸をなめた。
しかし、惟謙は、よくその逆境に耐えて文武の修業に励み、特に剣術をよくして、23歳の時には師範免許の腕前に達していた。
おりしも幕末、天下の非常時に際し、郷国にあって安逸に過ごしていることができず、元治元年(1864年)に出郷、その後、慶応元年(1865年)に、また同3年に脱藩して出郷して、諸藩の志士と往来して、勤王倒幕の企てに参加したりもしている。
明治4年(1871年)、司法省が設けられるに及んで、その年の12月、惟謙は司法省出仕に仕官。
明治25年(1892年)に大審院長の職を辞すまで、21年間、司法官生活を送った。
その間で、特に惟謙の名を高からしめたのは、かの大津事件に際して彼のとった毅然たる態度であった。
惟謙は退官後、貴族院議員、衆議院議員、第二十銀行頭取などの要職についたが、明治41年(1908年)7月1日、72歳で世を去った。
(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)
(平成22年11月28日追記)
児島惟謙屋敷跡 (東京都品川区・大森貝塚遺跡庭園脇) (平成20年3月6日) |
土地由来
この辺りは、旧幕時代、天領で「大井村鹿島谷」と呼ばれ、幕府代官の支配地だった。
この一廓の南側に、今は暗渠となっているが、小川が流れ、これが大井と山王の境界をなしていた。
これは現在も変わらない。
この流れの水源は、大井・原(今、西大井4丁目)の水神池の湧水。
途中鹿島・庚塚遊園地の中程で品川用水と合流、この団地の下を流れて海に注いでいるもので、昔は当地を流れるときは渓谷をなし、岸には樹木が茂り、清冽な流れが滔々と音を立てる様は正に「鹿島谷」の名の所以を思わせるものであった。
小川の南側は山王地区で、江戸時代は旗本・木原氏の所領地。
前のバス通りは、律令時代の東海道で、江戸期には平間街道ともいった。
明治9年に「大森駅」が設けられると、翌、10年には貝塚が発見・発掘され、農地が宅地に造成され始め、華族や高級軍人・政商等の別荘が建ちはじめた。
この一廓(旧大井村鹿島谷2950−51番地)に、児島惟謙が広大な屋敷を建てたのは、明治36年ころのことである。
児島(1837〜1908)は大津事件のときの大審院院長として名をあげる。
大津事件とは、明治24年、当時の「ロシヤ」皇太子ニコライ2世が日本を訪問された際、5月11日滋賀県大津で護衛の巡査津田三蔵に切りつけられた。
時の松方首相や西郷従道内相らは、皇室に対する犯罪と同質であり極刑に処することを主張したが、児島は司法権の独立と裁判の神聖のため、あくまでも法律の明文によるべきであると主張し、その結果、津田は謀殺未遂罪として、無期刑に処せられた。
以上が「大津事件」の概要である。
児島はその後、大審院長を退任、貴族院議員などを歴任、退官後大井村鹿島谷に居を定め、地元との交流につとめ、大森倶楽部の創立にさいしては、発起人39人の首班として努め、これが実現するや初代委員長として、在住名士・財界人等と親交を深めた。
明治41年72歳で亡くなるまで、ここに居を構えていたのである。
因みに電話番号は「大森局 壱番」であった。
地史研究家 後藤浅次郎 記
(説明板より)
【大津事件裁判】
児島惟謙は、大阪控訴院長から大審院長に補せられて5日後に大津事件が突発し、この大事件に取り組まねばならなくなった。
当時の内閣は、成立後5日しか経っていない松方内閣で、伊藤博文や山県有朋らの黒幕に支えられて成立にこぎつけたところから、世間では「黒幕内閣」と呼んでいた。
大津事件は、たちまち「黒幕内閣」の土台骨を揺さぶった。
児島は、加害者津田三蔵の場合、普通法をもって裁かれるのが当然と考えていたが、松方正義首相、山田顕義法相らは、旧刑法第百十六条「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加エ、マタハ加エントシタル者ハ死刑ニ処ス」を拡大解釈し、「日本の皇太子」を「ロシアの皇太子」に当てはめて、適用(死刑)を強要してきた。
児島は強く反対し、政府に意見書までも提出したが、誰一人耳を傾ける者はいなかった。
児島は「これは憲法を蹂躙し、司法権の独立を侵すものだ」と考え、あくまで、元老、内閣と闘おうと決心した。
同郷の後輩である穂積陳重(東大教授)や法律学者らは、児島を支持した。
また、司法省の御雇外国人全てが普通謀殺説(旧刑法二百八十九条)をとっていた。
政府の圧迫干渉は個々の司法官の身辺に伸び、三好検事長はもとより、判事たちの多数も政府の方針に従う心づもりになっていた。
5月18日、7人の大審院判事とともに、児島は大津市へ向かった。
直接裁判を担当するわけではないが、前任の大阪控訴院長の事務引継ぎもあり、身をもって、この難局に当たろうとしたわけである。
児島は「竹晴楼」に宿を取り、担当裁判官を一人ずつ宿に呼んで説得に取りかかった。
まず、堤正巳裁判長に、憲法第五十七条に従い、政府権力から独立して裁判しなければならないことを諄々として説き、7人の裁判官のうち5人までは説得に成功した。
児島は、山田法相に「百十六条ヲモッテ処断スル見込ナシ」と打電した。
政府は大騒ぎとなり、早速、山田法相と西郷従道内相が西下して児島に圧力を加えたが、児島は頑として撥ねつけた。
この時、西郷の怒号は凄まじかったという。
兄・西郷隆盛ほどの度量をもたぬ小人物であったことが、このことでもわかる。
公判は、5月27日正午、大津裁判所で開廷された。
公開は禁止されたが高等官30人、代言人15名に限って傍聴を許された。
児島惟謙も傍聴者の一人として法廷に姿を見せた。
三好検事総長がまず公訴事実を陳述し、次いで谷沢弁護人が反対の弁論行ない、最後に「ロシアに媚びず、日本の法律によりご処分を願いたい」と結んだ。
次いで三好検事総長が論告に入り、刑法百十六条論によって死刑を求刑した。
谷沢、中山両弁護人は、この論告に反駁して百十六条論を退け、公正な判決を要求した。
弁論が終わると一端閉廷し午後6時に宣誓書作成を待って再開。
今度は一般の傍聴を許し、堤裁判長が刑法百十六条によらない判決を宣告した。
「コレヲ法律ニ照スニ、ソノ行為ハ謀殺未遂ノ犯罪ニシテ、刑法第二百九十三条、第百十二条、第百十三条第一項ニヨリ、被告三蔵ヲ無期徒刑ニ処スルモノナリ」というものであった。
傍聴人は判事たちが退廷すると万歳を叫び、法廷外にいた群衆もこれに和した。
児島惟謙は穂積陳重あてに「カチヲセイスルニイタレリ、アンシンアレ」の電報を打った。
加害者津田三蔵は、児島惟謙の政府に対する抵抗によって無期懲役となった。
この判決が出て、圧力をかけるため大津に来ていた山田法相と西郷内相は驚き、憤激した。
山田法相はすぐに諦めたが、西郷内相は収まらなかった。
山田法相と共にその夜12時の列車に乗って帰京の途についたが、その車窓から見送る児島惟謙を罵倒した。
5月29日、西郷内相、山田法相、青木周蔵外相の3大臣は、大津事件の責任を負うて辞職した。
(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)
(平成31年2月11日 追記)
年号 | 西暦 | 年齢 | 事蹟 | 参考事項 |
天保 8 | 1837 | 1 | 2月1日 宇和島堀端に生まれる。 5月 田中伴大夫のもとへ里子に出される。 |
2月 大塩平八郎の乱 |
天保12 | 1841 | 5 | 父・惟彬の再婚により実家に帰る。 | 10月 渡辺崋山自殺 |
弘化 1 | 1844 | 8 | 文武の修業を始める。 | 5月 徳川斉昭幽閉 |
嘉永 5 | 1852 | 16 | 父の実家に寄食し、その酒造業を手伝う。 | 9月 明治天皇誕生 |
安政 1 | 1854 | 18 | 4月 実家に帰り文武の修業。 | 1月 米艦浦賀に再来航 |
安政 2 | 1855 | 19 | 8月 岩村小西家の食客として酒造・質屋業を手伝う。 | 4月 佐久間象山投獄 |
安政 4 | 1857 | 21 | 3月 小西家を辞し、家老梶田長門に出仕。 | 5月 下田条約締結 |
安政 5 | 1858 | 22 | 10月 藩庁より撃剣上達を賞せられる。 | 4月 井伊直弼大老就任 |
安政 6 | 1859 | 23 | 3月 剣道師範の免許を受ける。 | 安政の大獄 |
万延 1 | 1860 | 24 | 撃剣教授のため藩内各所から招かれる。 | 3月 桜田門外の変 |
文久 2 | 1862 | 26 | 4月 土佐藩の郷士檜口基内の塾に遊ぶ。 10月 高知〜西条〜松山 11月 帰藩 |
1月 坂下門の変 4月 寺田屋事件 8月 生麦事件 |
文久 3 | 1863 | 27 | 4月 船手組今城勝助の別荘に寄寓。 土佐の志士たちと連絡を密にする。 |
10月 平野国臣興兵 |
元治 1 | 1864 | 28 | 6月 大洲〜松山〜今治の各藩を経て高松藩に滞在。 8月 帰藩 |
6月 池田屋騒動 8月 長州征伐 |
慶応 1 | 1865 | 29 | 4月 長州三田尻〜下関。 6月 長崎に行き坂本龍馬、五代友厚を知る。 10月 佐賀〜久留米〜柳川〜熊本〜豊後。 11月 帰藩。 |
7月 露兵、樺太に築城 |
慶応 2 | 1866 | 30 | 3月 藩の許可を得て京都・大阪に行き国事に奔走。 12月 帰藩許可日超過のため謹慎を命じられる。 |
6月 英公使パークス宇和島訪問 |
慶応 3 | 1867 | 31 | 5月 脱藩。 京都へ赴き勤王倒幕の運動に身を投じる。 |
4月 高杉晋作没 11月 坂本龍馬暗殺 |
明治 1 | 1868 | 32 | 4月 北陸道総督参謀楠田英世の部下となる。 柏崎〜新発田〜秋田〜盛岡〜仙台へ遠征。 11月 帰京。 |
鳥羽伏見の戦い 4月 江戸城明け渡し 9月 会津落城 |
明治 2 | 1869 | 33 | 3月 新潟県御用掛拝命。 4月 外国方庶務。 6月 町会所・商社取締を命じられる。 |
7月 官制改革・六省設置 9月 大村益次郎遭難 |
明治 3 | 1870 | 34 | 1月 新潟県水原局勤務、大属となる。 8月 新潟県を辞し、品川県権少参事となる。 10月 少参事。 |
4月 訴訟掛置かれる |
明治 4 | 1871 | 35 | 8月 父親没す。 12月 司法省七等出仕。 司法省裁判所民事課、次いで東京裁判所民事課勤務。 |
7月 廃藩置県 7月 司法省・文部省設置 12月 東京裁判所設置 |
明治 5 | 1872 | 36 | 4月 司法省権少判事。 11月 少判事となり大阪へ出張。 |
4月 江藤新平司法卿となる |
明治 6 | 1873 | 37 | 4月 大阪裁判所勤務。 5月 司法省裁判所民事課詰。 |
10月 征韓論起こる |
明治 7 | 1874 | 38 | 9月 世続重子と結婚。 12月 権中判事となる。 |
2月 江藤新平、佐賀に乱を起こす |
明治 8 | 1875 | 39 | 1月 長男・正一郎出生。 5月 五等判事となり福島上等裁判所に勤務。 陸前、陸奥、函館各裁判所を巡回。 12月 長女・寿代子出生。 |
4月 元老院、大審院設置。 5月 露国と樺太、千島を交換 7月 法制局設置 |
明治 9 | 1876 | 40 | 3月 鶴ヶ岡事件に着手。 9月 名古屋裁判所長となる。 |
2月 代言人規則が設けられる 11月 萩の乱 |
明治10 | 1877 | 41 | 5月 次女・愛子出生。 | 2月 西南の役 |
明治11 | 1878 | 42 | 4月 司法省修補課委員となる。 | 5月 大久保利通暗殺 |
明治12 | 1879 | 43 | 5月 大審院詰となり、民事乙局長となる。 | 8月 大正天皇誕生 |
明治13 | 1880 | 44 | 1月 次男・富雄出生。 | |
明治14 | 1881 | 45 | 8月 三男・俊之助出生。 12月 長崎控訴裁判所長拝命。 |
|
明治15 | 1882 | 46 | 4月 公務のため上京。 5月 帰任。 |
4月 板垣退助岐阜で刺される |
明治16 | 1883 | 47 | 9月 長崎控訴裁判所管内各裁判所を巡回。 12月 大阪控訴裁判所長となる。 |
7月 岩倉具視逝去 |
明治17 | 1884 | 48 | 7月 大阪控訴裁判所管内甲部巡視長となる。 | 7月 華族制度設けられる |
明治18 | 1885 | 49 | 7月 実母・直子没す。 | 12月 伊藤博文初代総理大臣 |
明治19 | 1886 | 50 | 5月 大阪控訴院長となる。 同志と関西法律学校の創立を図る。 |
1月 北海道庁設置 3月 帝国大学令公布 |
明治22 | 1889 | 53 | 2月 憲法発布式に参列。 | 10月 大隈重信遭難 |
明治23 | 1890 | 54 | 10月 勅任官一等に叙せられる。 | 2月 裁判所構成法公布 3月 刑事訴訟法制定 |
明治24 | 1891 | 55 | 5月 大審院長となる。 | 5月 松方内閣成立 5月 大津事件勃発 |
明治25 | 1892 | 56 | 8月 大審院長を辞任。 | 8月 伊藤内閣成立 11月 民法施行延期 11月 伊達宗城逝去 |
明治27 | 1894 | 58 | 5月 貴族院議員となる。 | 3月 衆議院総選挙 8月 日清戦争始まる |
明治28 | 1895 | 59 | 4月 日清講和条約成る | |
明治31 | 1898 | 62 | 4月 貴族院議員を辞任。 衆議院議員選挙に立候補し当選。 9月 第二十銀行頭取となる。 |
1月 第三次伊藤内閣 6月 大隈内閣成立 |
明治33 | 1900 | 64 | 長男・正一郎、北清事変で戦死。 | 5月 義和団の乱 |
明治35 | 1902 | 66 | 8月 衆議院議員任期満了。 | 1月 日英同盟協約締結 8月 総選挙 9月 正岡子規没す |
明治37 | 1904 | 68 | 2月 日露戦争始まる | |
明治38 | 1905 | 69 | 12月 貴族院議員に任命される。 | 5月 日露戦争終わる |
明治41 | 1908 | 72 | 7月1日 東京の自邸で逝去。 正三位に叙せられる。 |
4月 公証人法公布 7月 桂内閣成立 |
(参考:青野 暉 著『小島惟謙小伝』 菜根出版 昭和55年5月発行)
(平成29年4月26日 追記)
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